群知能についての考察

市村剛大

 今月号では「群知能」について、色々考えてみたいと思う。「群知能」は偏向2023年6月号「自己維持型人工知能は出現するか2」においてトレント・マコナヒー氏の提唱するAI DAOの一形態に関連す概念として登場した。文中では説明のために次のような例え話をした。

例えば、幕張メッセに一万人くらい集めて、脳神経細胞の真似っこゲームをしてみたとしよう。参加者一人一人はボールを電気に見立てて神経細胞の真似をする。神経細胞はしょせんただの部品なので、参加者は簡単に真似ができるはずだ。AさんとBさんから合わせてボールを5個もらったら、Cさんに3個渡してください、とかその程度のルールを守るだけだ。このゲームを実施したとき、理論上、幕張メッセの一万人は一万個の神経細胞を有する脳みそと同等に振る舞うことができるはずだ。全体として何かを考えることができる。これこそが「群知能」だ。参加者個人は「幕張メッセの一万人によってできた脳」が考えていることを知ることはできない。知らなくても「幕張メッセの一万人によってできた脳」はそれ全体として何かを考えることができるのだ。

 これについて、益田氏から次のような質問を受けた。

 幕張メッセに集まる1万人の群衆の群知能は、例えばどのような知性を創発するか

 回答できていなかったので、この場を借りて回答しようと思う。

ハエの脳細胞の数が25万であるから、汎用的な脳としては小さな昆虫に及ばない程度の知性しか創発できない。あるタスクに絞れば、例えば「ディープラーニング」のような最新のAIでもニューロン数はせいぜい数千個だ。つまり1万個ニューロン数があれば今AIで創発できる知性は大体模倣できるのではないかと思う。

 群知能は「自己維持型人工知能は出現するか2」の本題ではなかったが、この質問を受けたことをきっかけに考えを巡らせる運びとなった。本文に入る前に、群知能の定義を再掲しよう。

自然界における生物の群れのふるまいを模した人工知能。アリや魚などの群れを構成する個体は、単純な行動規則をもちながら、周囲の個体や環境に応じて行動する。これらが多数集まったときにみられる自己組織化された高度なふるまいを、自動運転などの人工知能のシステムに応用する研究が進められている。SI(swarm intelligence)。(出典:コトバンク

「自己維持型人工知能は出現するか2」においても自分なりの説明をしているので、必要であれば再読されたし。


知性と波

 群知能の話に入る前に、知性が持つ性質について考えてみたい。

 AMラジオはFMラジオの電波を受け取っても何も音を発さない。AMラジオの回路はAMラジオの電波の波長に合わせて作られており、それ以外の帯域の電波は受け取れないからだ。セミも種によって発信・受信できる周波数が決まっている。人間は全てのセミの声を聞き取れてしまうが、ミンミンゼミの耳はミンミンゼミの鳴き声しか聞き取れないようにできていて、クマゼミやアブラゼミの声は聞き取れないのだ。多種のセミが鳴くうるさい森の中でも、ミンミンゼミにとってはミンミンゼミの鳴き声と、たまたま同じ周波数が被った音だけが響く、静かな森なのである。僕らも同じだ。人間の耳は20~20kHzくらいの音しか聞き取ることができないそうだ。周波数が1Hzの音や100Hzの音は音として聞き取ることができない。

 知性も似た性質を持っているのではないだろうか。例えば、「あの人とは考えの波長が合う」と言ったりする。人間の知能を無意識のうちに波っぽいものだと感じているのではないだろうか。知能を波に例えることでその性質について理解を深めてみたい。

 知能は目に見えず、測定することで初めてその存在が表現される。例えば、数学の能力を測定するために数学のテストを行い、その点数でその人の数学の能力を評価する。また、わざわざテストを行わなくても、僕らは日々誰かの能力を感じ取っている。音楽ライブで良いギターソロを弾いている人がいればギター演奏の能力が高いと思うだろうし、職場で自分より仕事が早い同僚がいればその仕事の能力が高いと思うだろう。

 ある人が誰かの能力を感じ取るとき、誰かが能力という波を発信し、それをある人が受信しているという風に考えてみよう。能力を感じ取るためには、受信者がその周波数を受信できる必要がある。例えば、数学を勉強したことがない人は偉大な数学者の数式を見ても知性の肝心な部分を感じ取れないだろう。時間をかけて数学を勉強することでようやく、その波を感じ取る機構が形成され、受信できるようになるのだ。

 能力が発信する波は単一の周波数の波ではなく、幅広いバンドの周波数を持つものなのかもしれない。ギターでAの音を鳴らす時、正確な440Hzの音以外にも多くの音が発生し、それが音色となる。440Hzが聞き取れない人がいても、その近くの音域を聞き取ることができれば、聞こえ方は違うのかもしれないがギターのAの音を感じ取れるだろう。数学の勉強をしたことがなくても、数式の文字を見てその形が美しい、と言ったようなことは感じ取ることができる。ただ、それはその数式を書いた人の能力が一番強く発信された部分ではない。

 知性を波になぞらえながら、知性の解釈はその受信者に依存するという性質を説明した。この考え方をベースに群知能についても考えていきたいと思う。


人間の群知能

  「自己維持型人工知能は出現するか2」では群知能の例え話として「幕張メッセに集まる一万人の大衆」を使った。後から思ったのだが、この例えはあまり良い例えではなかったかもしれない。人が一万人集まっているのなら、個々が持つ能力を最大限に発揮してもっと大きなことができるだろう。会社やムラでも作れば良い。ただ、この不適切な例えと益田氏の質問が合わさり、自分の中で次のような疑問が生じた。

幕張メッセに一万人の大衆集め、個々が自分の持つ能力を最大限に発揮し、また互いに協力・相互作用するとき、その集団はどのような知性を創発しうるだろうか

 では、人間が集まった時に創発される知性とはどのようなものだろうか。群知能が創発する知性は集団的知性と呼ばれ、人間の集団が創発する知性についても合わせて研究の対象になっている。

集団的知性(しゅうだんてきちせい、英語:Collective Intelligence、CI)は、多くの個人の協力と競争の中から、その集団自体に知能、精神が存在するかのように見える知性である。Peter Russell(1983年)、Tom Atlee(1993年)、Howard Bloom(1995年)、Francis Heylighen(1995年)、ダグラス・エンゲルバート、Cliff Joslyn、Ron Dembo、Gottfried Mayer-Kress(2003年)らが理論を構築した。集団的知性は、細菌、動物、人間、コンピュータなど様々な集団の、意思決定の過程で発生する。集団的知性の研究は、社会学、計算機科学、集団行動の研究などに属する。(出典:Wikipedia

 三人寄れば文殊の知恵、とは集団的知性のことなのだろう。ただ、ことに人間の集団的知性を考えるにあたり、自分の中に一つの違和感がある。例えばアリの群知能について話すとき、その一番興味深い点は、個体では単純な知性しか持っていない個体も、群となることで人間にも感じ取れるようなより複雑な知性を創発できる、というギャップだ。音波に例えると、1Hzしか音を出したり聞いたりすることができないはずのアリが、何百匹も集まると440Hzの音を出せる、といったところだろうか。では440Hzくらいしか音を出したり聞いたりすることができないはずの人間が一万人集まれば、10の音を出せたりするのではないだろうか。つまり、人間の集団は、人間の個人には到底受け取れないような高い知性を創発しているのではないだろうか。

 少なくとも自分が読んだ範囲では、集団的知性は人間や人間の作り出したコンピュータの知性の延長線上として測定される。これは、440Hzくらいしか出せない人間が集まることでより強い440Hzの音、または440Hzより少し高い音が出ている、といったようなことを言っているに過ぎないように思える。(もちろんそれでも十二分に興味深いと思うが。)人間の集団が生み出す知性の本当に素晴らしい部分は、もっと桁外れに高い知性だったりするのではないか。それは人間にはまるで知性とは思えないようなものであるだろうし、人間にとって知性と感じられないので知性ではない別の概念なのかもしれないが。その、人間には感じ取れない高い知性の生み出す何かを、より感じ取ることはできないだろうか。人間の集団や共同体に生じる、論理的に説明できない事柄の多くはこのような知性によって生み出されたものかもしれない。思いを巡らせてみよう。

 例えば、ユングは偶然の一致としか思えない出来事の存在を認め(共時性)、これを説明するために、ある集団の個人は共通する深層心理を持っている(集合的無意識)という概念を導入して説明しようとした。先の「人間には感じ取れない高い知性」を仮定すれば、人間にとって偶然の一致と思える出来事も、人間の群知能が意図的・必然的にそうしたと考えることで大きな論理の飛躍無くして理解できる。アリも、ホルモンの匂いのする方に歩いていけば偶然餌がある、と思っているのかもしれない。餌を探索しているのはアリの知能ではなくアリの群知能だからだ。人間の群知能が、ある人について噂話がされているとき、その人にくしゃみをさせていても何ら不思議ではないだろう。

 共時性については、人間がその偶然性に気づいている分、まだ甘いのかもしれない。株価、YouTubeの再生回数、コロナウイルスの感染者数、人間が予測できないと思っている数字。東京の乱雑な街並みや交通網、毎日車が走るアスファルトの道路のひび割れ、地下鉄のゴミ箱から溢れたコーヒーの缶。まるで知性が感じ取れないものにこそ、人間の集団が生み出した本当の知性が反映されているのかもしれない。


A Practical Guide to 群知能

 脳細胞が集まり人間の知能や意識が生成されるように、人間が集まり群知能や人間の群としての意識が生成される。この考え方はある集団を一つの主体とみなすことができるという点で非常に便利な便利な考え方だろう。この考え方は群知能という概念を意識せずとも市井の日常生活で頻繁に行われている。例えば誰かが「ロシアとウクライナが戦っている」というとき、ロシアという人とウクライナという人が喧嘩をしているように語られるし、「ロシアは悪い国だ」というとき、ロシアという人がいてその人柄が悪いかのように語られる(実際はロシアには多くの考えを持った人がいるにも関わらず)。このような語られ方をするとき、集団の意思や群知能を無意識のうちに認めていると言っていいだろう。

 逆に、ある個人が自分の意思決定プロセスを整理するために、群知能においての集団の意思決定プロセスを利用して整理することも行われている。自分の中の天使と悪魔をディベートさせる人もいれば、リトルホンダに意思を提言させる人もいる。これらは集団の意思決定プロセスである議論や多数決といった概念を自分の脳に適用しているのだろう。新世紀エヴァンゲリオンに「マギシステム」と呼ばれるAIが出てくる。このAIは設計者ナオコの思考を移植したAIという設定で、「科学者」「母」「女」としての思考を戦わせながら意思決定を行う。あくまでもSFの話ではあるが、マギシステムは個人が集団の意思決定プロセスを利用する様を模倣するAIということになるだろう。このように群知能の考え方は、AI設計をはじめとした意思をもつ他者のモデル化にも役立つだろう。

 これらのように「群知能」の概念は無意識的に活用されているわけだが、意識的に使用することでその行為の注意点に気づくことができる。前章で仮定した群知能の持つ「人間には感じ取れない高い知性」を仮定するとき、人間に感じ取れる集団の知性や意思はその本質を表現していないだろうと考えられるからだ。「ロシアは悪い国だ」というとき、「悪い」というのはあくまでもロシアという国家や集団が発信する広い周波数領域の意思や能力のうち、ある人間個人に感じ取れた範囲で「悪い」ように感じただけである。群知能を意識することとは、より深くロシアを理解するにはロシアが発信する他の周波数も捉える必要があることを理解することであり、さらには捉えられない(まるで意志や能力とは思えないように思える)側面こそがロシアの群知能の本質である可能性についても思いを馳せることである。群知能という概念は、集団をある一つの主体として捉えるマクロな考え方と、意思を持った個人の集まりとしてボトムアップ的な考え方との間のギャップを緩和し、それらの考え方を止揚するために役立てることができるのではないだろうか。

(終)

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