猫の目

益田伊織

(同人の一人・市村に送ったメールを、改稿して掲載します。市村の過去の文章についてのコメント、という体裁だけれど、他の同人の考えていることや、自分の以前からの関心とも響き合う点があると思っています。)

 市村の考えていることは前から一貫していると思っていて、「自身とは異なる論理をもった他者をあるがままに尊重し、それとともに生きることで、人は変わってゆくことができる」ということに関心があるんだと理解している。ここでいう「他者」とは何よりもまず、人間の制作した機械・道具。創刊準備6月号「題未定」では「書きやすい」ボールペンに飛びつくことの安易さを批判しながら、「美しいものに自分を合わせるということをしないなら、人間という動物である意味がないと思う。少なくとも自分はこういう気持ちを持ちつづけたい。」と書いていた。道具を人間の利便性という観点からだけ考えるのではなく、むしろ道具が完全に人間の思い通りになるものではない事実を引き受けながら、むしろ人間が新たな存在へと変わっていくためのきっかけにしようという逆転の発想。この「美しいものに自分を合わせるということ」を理系的な表現に置き換えると「逆コンウェイ戦略」11月号「題未定」)になり、あるいは3月号「コンピュータとして生きる」では、コンピューターの思考様式を学び取ること、という話になる。

 そこで、ここで言うところの「自身とは異なる論理をもった他者」は「異なる動物種」に置き換え可能でもあり、実際に生物学者のダナ・ハラウェイなんかが異種と道具・機械を同列に捉えるような議論をしている。人間とは自らを取り囲む諸事物、衣服やパソコンや眼鏡やペンや家族やペットと接続されたサイボーグなのだと。

 これはかなり普遍的な話で、例えば教育者にとっての「他者」とは子供であり、自らとは異なる考え方をもった彼らを安易に幼稚と見るのではなく、その考え方を尊重しながら自らもまた何かを学び取っていくのが教育だ、ということになる。実際、AIの問題とはまさに教育の問題だと言ってもいい。市村が生成AIによって人間の論理からは生まれ得ない新たな詩の芽生えを探ろうとしている(1月号「題未定」)のはこの意味での「教育」の理念に基づくものだと思うし、それは裏返して言えば「AIが人間の仕事を奪う」云々といった言説に見られる卑小な人間中心主義がいかに醜悪かということでもある。生徒が自分より利発で創造的になる可能性に怯える教師!

 あるいは陸人の学んでいた文化人類学は、西欧近代の知が「野蛮」と貶めていたいわゆる未開人たちが、近代西洋の知に劣らぬ独自の合理性をそなえていたことを発見した学問なので、これも市村の書いていることに通じる。「コンピューターからタスクを古い順にこなすことが一番効率的だと学び取る」(3月号「コンピュータとして生きる」)のは、サイバースペースを舞台にした文化人類学的実践であり、フィールドワークである、と言ってもいい。

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