今月の自由投稿二篇及び「書く事」について
「偏向」責任編集者 白石火乃絵
今月の2月号より、自由投稿というものを始めた。ここに投稿される人は、無論「偏向」は知っていて、多かれ少なかれ内容にも目を通したことがある人であることは当たり前だ。先月の募集の文言をそのまま再掲すれば「2月号から月刊冊子にて、編集者白石火乃絵受け持ちで自由投稿枠を設けようと思います。〆切は1/20とします。原稿料はありませんが。ジャンル・テーマ・長短の指定はありません。一回ものでも連載でも結構です。投稿ないし投稿相談は以下のメールアドレスにお願いします。henkou65@gmail.com」これ以外にはとくにいうべきことはないのは、これだけで投稿してくる人はなんらかのかたちで「偏向」の精神(?)に共鳴しているはずであるから、雑誌としてはこれでまったく色を失うことはありえない、これさえいいすぎなような気もするが……どんな投稿でも結構なのだ。
(とはいえさすがに今回二人の投稿者は、それぞれわたし白石火乃絵と私的な交友関係にある者だった。とはいえあくまで向うからの予期せぬ自由投稿であることにはかわりない。二人とも「偏向」を毎月読んでくれているらしく、『「偏向」白堊紀』も買ってくれている。)
そもそも自由投稿の発想のきっかけは、1月号にこれも中高の同級生である渡辺一樹が「星の友情」を寄稿してくれたことによる。そのときはいちおう同人扱いで掲載した。ここらへんの定義は非常にあいまいである。もともとその中高の同級生たちで始めた雑誌だから、同級生ならば同人条件を満たす、といまのところはそういうことにしてあるが幾人か年下の友人にも参加してもらっている(ようするに編集者との一対一対応が現状である)。
自由投稿に関しては、雑誌をひらいておく、それが唯一述べておくべき編集的な意味だ。
とりあえずひらいておく、ということだから、「偏向」としてはあくまでこれまでの書き手たちで、雑誌を作っていくという基本方針を変えることはない。「どんなに寄稿があろうとも同人が書かなくなったとき同人雑誌は自然と滅びていく」と、「試行」という個人編集の同人雑誌(はじめは谷川雁・村上一郎との共同編集)を三十年つづけた吉本隆明さんが、後年のインタビューで語っている(『思想の機軸とわが軌跡』からの記憶による意訳引言)。
自由投稿から、どんどん力のある文章が集まってきたとき、同人たちの心ゆるびとなり、衰退していくのではないかという新しい恐れが、今回の二篇への心躍りとともに加わった。
雑誌再始動時の「初心」において、十年続けるといったものの(くわくしは昨年2月号、及び『「偏向」白堊紀』にて)同人には、「存続なんて考えなくていい、明日壊れっちゃても、もともと無かったんだから、それでいい」ともいっている。単に続ければいいというものでもない。偏向を続けることが大事なのだ。
なんとも頼もしいことに、自己言及についてはそれを嫌う同人が多いので、あまりすると叱責をくらうのでこれくらいにしておきたいが、もうひとつ、なぜ「偏向」がジャンルを指定しないのかということ、いちおうはブンジツ思想誌とはいったりもしているものの、責任編集者としての回答は、それが〈雑〉誌だから、ということに尽きる。
さて今月の投稿作品二篇についてたが、知り合いの作ということで、今後はするつもりはないが、少しの〈雑〉感めいたものを書きたくなった。
月草偲津久「どうか笑つて」
彼とは通った大学で同級になって以来の付き合いだ。詳しいことは書かないが、詩作のはじめより、断続的にその作品を見せてもらってきた。今回自由投稿をしたいということで、過去作のいくつかを通話をしながら送ってもらったものの中から、今回の14篇を選び、ほとんどわたしの貧しい直感から配列を組ませてもらい、掲載了承を得た。
彼によれば、昨年は二百ちかい詩をものしているという。
仕事をしながら、よくもそこまでと、おもう。合間を縫って、こみあげるものを、一回一回の詩のフォームにまとめあげるものだから、一つの詩風作風は固定しがたい。今回は、わたしの知る限りでの作者の内的事情も汲みしつつ、ある時期に集中的に書かれた詩篇を選び、こちらは内的事情にかかわらず、表現されたところのものを軸に、連作を組んだ。
作ってみて、一読者としてあらためて彼のもっと大きな枠組での、個人詩集、作品を読んでみたいという欲望が強まっただけに、こういう形での雑誌上小連作の試みの手応えを感じた。
この手応えをもとに少し話を展げてみたい。
商業雑誌上で詩作活動をしている「詩人」のように、名前と作風をセットにしてキャラ化する必要は、詩作という人間行為において本来まったく必要がない、どうやってもそこに「いる」という存在の一貫性は(それに意識的でなくとも、「いない」に向けて書かれた詩であっても)本質的な詩作には必ず生まれてくるものと感じる、中原中也の変幻自在な作風においても、どの詩にも中也でが「いる」ように。それを感取するだけの眼が作者や編集者の側に要るだけだ、読者はかならず感受する。情熱のままに詩をかきまくることも大事だが、それらの詩の底を流れる内的持続の透明なエネルギーを摑まえ、連作や一詩集にまとめる(編み上げる)こともまた創作行為の一環であること、そしてまたその楽しさもまた然り。商業出版では、会社が抱える編集者たちのあいだにかくのごとき技術資本があり、新人を発掘しては、一詩集にまとめ売り出すことにもちろん長けている。そこでは売るための商品化(パッケージング)と創造行為との境が非常にあいまいで、どちらかといえば、商業原理の方に傾きがちなのは、容易に想像がつくことだが、これを自で制約とすることで、詩人たちが(おそらく編集者との共同作業を経て)、力のある詩集を世に問うているということもまた事実ではある。しかし、詩集をまとめる、編み上げること自体の楽しさに充ち満ちているようなものに出会うこともまた稀だといいたくなる。どちらかといえば、強迫させられていると感じるものが多く(過敏すぎるかもしれない)、というのも、詩人と呼ばれるようなにんげんは、おうおうにして詩を書くことは生理であっても、詩集という社会的形式にまとめあげるようなことにはおっくうだろうからだ。かくいうわたし白石火乃絵も最初の作品『崖のある街 -Deluxe Edition-』をまとめあげるには、大学の卒製という契機がなくては脱稿までに至らなかったと思う、それよりは新しい詩の書きたさがまさる。実際、数ある詩をもって一作品にまとめあげるという行為は、もう二度としたくないくらい大変なもので、発狂寸前まで追い込まれた。しかし、青春というものは端からそういう類のものでなかったか。日々詩だけ書いておればよかったものを、作品を出したことでそれが一つの区切りとなり、自己模倣しかできないようなスランプにその後約一年以上もおちいっていもした。「作品といういいきかされた幻想にばかされたのではないか」という疑念がいくどとなく胸裡をよぎった。
それである時、「これは一種の自己疎外に当たるものではないか」という考えにおもいいたった、というより自己疎外などという時代おくれの抽象語をこの身をもって味わった、というべきか。詩を書き(わたしの場合手書き)活字におこしネットに出すことでもすでにそうなのだが、それでも詩は息子のように毒親のわたしに属しているもののごとくに想われていた。それが『崖のある街』という作品にまとめあげたことで、わが子を奪い取られたような、あえて積極的な表現をとれば供物しおおせたような気がするのだ。この経験は今でも痛む。アンビバレントであるが、それでも、卒製を契機としつつその制限を無視したかたちで自発的に作品を編めたこと──それが趣味や喜びであるような人も「文学フリマ」では、むしろ多数見受けられたが、そんなの〝「詩人」ごっこ〟にすぎないのではないかとこの傷にかけていわずにおかれない、それのどこが悪いというのか、子供のあそびへの嫉妬じゃないといわれてそれがほんとうだともおもいつつ、もしそれでわたしが子供の国、詩人の国から追放されるのだとしても、最後の叫びはまだ許されているはずだ─はひとりよがりにも、何らかの突破口をひらけたものとおもっている、それが作品の樹のような自立に権威によるバックアップは必要ないという事実の再確認にすぎないとしても。
もしかしたら作品とは非詩的なもの、或はは詩と対立するものかもしれない。近代芸術概念たる〈作品〉も、いずれ無化されるべきものなのかもしれない(このことについては、『崖のある街』以降の、わたしの追求実践している課題のひとつだ、あくまで、一作品をなしたことによる裂傷をたよりに、ということなのだが……)と同時に〈行為〉や〈実存〉、生きてあるということが、〈作品〉に対立するのだ、という短絡をわたしは非常に疑い深くおもいなしてもいる。それを実践上で吟味したいということのひとつの表われが「偏向」という毎月発行の〈雑〉誌という試み、といえば、おもいあがりもいいところではある。
ここで月草偲津久の連作へと話を戻せば、彼は主にSNS上への詩歌の投稿、いくつかのウェブ詩誌への参加、地方の小説新人賞への応募などをもって表現活動を続けてきた。現在にほんという国において、詩、いわゆる「現代詩」を扱っている商業雑誌はいくつかあるものの、求心力としては「現代詩手帖」一強というのが実態だ。お茶の間民主主義的(?)な言い方では、〝野党がいない〟。かくのごとき専横状態は(向うにそのような意図がなくとも)かならずや、表現の衰退、文化的な死をもたらすというようにしか想えてならない。とはいえ、持続力において思潮社に及ぶ詩をメインで扱う民間出版社がなかったという事実も見落すわけにはいかず、じっさいここが力のある詩人や詩集が数多く輩出したという実績は疑えない。だからこそ、ここに負けない情熱が、庶民レベルの個々人に求められている。その〝本質的な情熱は必ずフォームをともなう〟(キルケゴール『現代の批判』)はずであり、月草偲津久の詩作が、短歌や十四行詩という定型を通りぬけながら、独自のカタチを取るに至る過程は、そのことをよく表しているようにおもう。制約はそれが超えられることでその存在をまっとうする、といおうか。だからこそ、「現代短歌」から新しい詩形の生まれて来ないことにたいしては、フォームという幽霊に情熱が根こそぎにされていはしまいかと言いたくもなる。だが、和をもって尊しとするにほんの伝統詩形たる和歌ゆらいの〈短歌〉という定型自体が、情熱などという西欧産の野蛮人の生理は受付けないというのが美徳とさえいえるから、山に向かって海をよこせというがごときナンセンスも行き過ぎれば噓となってしまおうもの。
そこで裾野を拡げて、「偏向」も去年参加した、「文学フリマ」の興隆に注目してみたい。このブームはほとんど「現代短歌」ブームの心性をそのまま拡大したもののように思える。素人玄人混淆というのがまずこのイベントの売りの一つだろう。それをもっとも象徴していたのが「胎動短歌」という、詩人やラッパーなどの短歌専門外の有名人を聚めた雑誌だ。表紙に陳んだ名前はいかにも都雅的なあこがれをそそる。ほかにも詩歌句の短形ジャンルだけでみても有名無名、自費出版の個人詩集やグループ雑誌など売っているのを散見した。そこで「文学」と銘打っているだけに、いわゆる「理系」の研究書などはさすがにあまり見かけなかった。それが「文学フリマ」の〈雑〉混淆の限界ではあるし、理系文系という大学的学問区分を、庶民レベルが越えることができていないというやるせなさでもあった。
やはりわたしにしても、理系分野(ととりあえずいうしかない)にうといために、同人の市村だけが、わずかに「理系」の方面からの切り口に与しているというのが「偏向」の現状ではある。ほんとうに面白いことは、おそらくはこの理系文系のいらない区切りを、庶民レベルでとっぱらっていくという要素をもたずにはありえないと想っている。にほんの文学においては、ほとんど宮沢賢治ぐらいしか、個人として体現できていないと感じる。現代思想などで、人文的な比喩としてくらいしか「科学」は利用されていないというのが実感だ──世界水準にみても状況は変わらないように見える。これとてもやはり犬に猫やその両方でないことを叱るようなないものねだりなのかもしれない。わたしとていつかはZORNのように〝ナイモノネダリよりアルモノエバリ〟してみたいのも山山なのだが……
文系理系など話は逸れたがともかくも「文学フリマ」にわたしが勝手に期待した、商業出版というメジャーに(あるいは大学アカデミズムという権威に)対するアンチテーゼはみられない、ということだ。こちらの盛り上がりで商業出版を危機にさらそうなどという一揆性や祭の熱はどこにも見受けられない。それどころか、メジャーや権威におもねっているぞ、というのがの感想だ。そういう意味では、あらゆる時代歴史を経てもなぜか消えない古くからのにほんの国民性をよくよく体現しているイベントだといえる──と書けばすぐわたしの内に棲むのもういっこのどこぞやの庶民性がやまんばのごとく唸りをあげる。
この話は、もう一篇の自由投稿についてに持ち越そう。(ここより次の章の3へショートカットできます。)
S.H.U.「17歳は二度あるか」
1
この文章は「中高時代の関係者に届ける目的で」書くのだと筆者は断っている、「むろん、そうは言っても、諸々の事情を知らない読者が読んでも、難なく読めて、何かしらの参考となる、面白いものにするつもりである」とも。
自由投稿なので、もちろんそれでかまわない。「偏向」はどんな目的で書かれた文章でも掲載する考えだ。プロパガンダでも、自分の作ったウェブアプリの広告でも差し支えない。
そもそもは、自分のために書いた文章をいちおうは万人が見えるかたちで公表しておく、からすみを冬の空気と日光にさらしておくみたいに(こんな例えはいわなかったにせよ)というのが、雑誌を始めるにあたり同人に伝えてあったことだ、手記日記の類でもいいと。
しかし、「17歳は二度あるか」の筆者も書いているように、雑誌に載ることがあらかじめわかっているので、どうしても、誰にもみせるつもりもない極私的の意識はもちにくいにきまってる。これは「偏向」の始まった当初から孕んでいる矛盾といってよいものだ。
ある時、同人のひとりがこのあたりの意識の持方について悩んでいたので、こう言ったことがある。「お前が部屋でひとり文章を書いたとして、それを神様は全部みているでしょ。神様以上に怖いものはないのだから、あとは誰に見られようと同んなじなんじゃない?」。
別に彼もわたしもいかなる宗旨への帰依者でもない、ただの例え話だ。神様でなし自分といってもよいし、それが懸想文なら恋人であってもよいわけだ、なにかしら絶対ならば。
これはわたしなりの考えなのだが、書いて公表した文章は、対話という形で必ず自分の元に返ってくる。それで書きっぱなしになるということはない。もっとつまらない言い方をすれば、「自由には必ず責任が伴う」という言い古された死文の通り、さらに退屈なものいいをするなら、ひとえに「責任は自由の母」ということになる。いかにも冷たい母だが。
「港区の中高一貫校に中学受験で合格してしまった僕は、その学校の持つ「自治」の問題に巻き込まれていくこととなった。(…)学生の自治活動が暴走し、人権侵害が発生しているということで教職員が介入し、退学者や不登校者が発生してしまったのだ。その騒動に巻き込まれながら、その後処理をすることとなった自分は、学校自治に関する改革のために友人と議論に明け暮れ、高校生であるのに、政治学や法学の専門書を参考にして、自治組織の体制改革や、規約の条文作りなどに励む日々を送ることになってしまった。」
筆者はわたし白石火乃絵の中高時代の三年後輩ということをいっており、もちろんこの「自治活動」の関係のつながりであるので、お分かりいただけるだろうが、わたしは彼が「巻き込まれていくこととなった」状況を生み出した一端、いや元凶と呼ぶべきものである。
自由になりたかった。自由はなかった。自由は俺の心のなかにあるのかもしれない。数ある不自由と戦わずして自由は得られない。責任は結局大人がとるから、俺らに自由なんて存在しない。結局ガキの俺らにとって自由ってあんの。好き放題するのが自由じゃないのかもしれない。戦って勝ち取ったもののなかに自分たちで価値を見つければそこに本当の自由があるかもしれない。昔はもっととか言いたくない。自分のやり方とわがままの違いなんて分からない。俺らはどうしたら本当の自由になれんの。自分じゃ負いきれない責任の範囲があって、最後は親にケツふいてもらう。そんな俺らが偉そうに自由とか言えんの。大人になれば、そこに自由があんの。自由ってのはハンパな奴の求めるもんなの。自由なんてどうでもいいから現実とひたすら向き合って生きろよ。自由ってのは姿も形もないから、それを求めても意味ないよ。じゃあなんで自由って言葉はここまで俺を奮い立たせるの。──は自由とか適当いってんじゃねーよ。俺にそんな言葉教えんなよ。勝手にしろ、え、俺の自由にしていいの。知らないからな。俺は一人で生きていく。こうすりゃいいのかよ。つらいじゃねーか。野良犬にさえなれねえよ。
かれこれ
11年前、元凶が高校
3年にあがったくらいのとき、前年
5月その学校の「文化祭文集」を仲間たちと自費(本来は活動費から下りるものの右から想像されるような理由で自費製作となった)で発行し、中学高校の全校生徒約
1800人に配布した(いちおうわたしの初めて作った本となる)、そこに活字となって載っている、文化祭後終了直後から、中庭ステージの夜祭イベントにおいて出演者四人に全身やけどを負わせた事故の加害
責任者として、自宅謹慎の身にあった元凶十七歳(
16.8歳)のリアルタイムのままの文章である。
やけどは事件(不祥事)としてではなく、事故として、学園側と保護者側の両方の保身もかねて、内密に処理された。被害者の一人のご両親は、訴訟も辞されない考えであったが、示談となる。「あなた方のご子息にも熱湯をぶっかけてやりたい気持ちだ」一連の過程において元凶はまったくのかやの外にあった。ようは大人にケツをふいてもらったわけだ。
これはわたしなりの考えなのだが、
書いて公表した文章は、対話という形で必ず自分の元に返ってくる。いまからすれば、元凶は戦わなくてはならなかったのではないか、ともおもえる。だがどうやって。自治機関として印刷機は尊守してあるのだから、事件のあらましを事実のままに綴り公表した上で、「
祭というハレの中での出来事を、日常というケの論理で問うことは許されない。祭とは命懸けのものである。負傷者の全き恢復を祈る」と態度を明文化することで。いまからおもえばこれだけが唯一学生や未成年という社会身分にあって元凶がまがいなりにも責任を取り自由を守るすべだったのではないか。それだけが「
港区の中高一貫校に中学受験で合格してしまった僕は、その学校の持つ「自治」の問題に巻き込まれていくこととなった。(…)学生の自治活動が暴走し、人権侵害が発生しているということで教職員が介入し、退学者や不登校者が発生してしまったのだ。その騒動に巻き込まれながら、その後処理をすることとなった自分は、学校自治に関する改革のために友人と議論に明け暮れ、高校生であるのに、政治学や法学の専門書を参考にして、自治組織の体制改革や、規約の条文作りなどに励む日々を送ることになってしまった」三年後輩の友に約
10年も前のことをこのような受動態尽くしで書かせずとも済む元凶のケツのふき方ではなかったか。
だが、この考えには噓が含まれており、やがて全領域を呑み込んでしまうにちがいない。なぜなら十代という
ハレの中での出来事を、日常というケの論理で問うことは許されないからだ。過去というもの
ifも持ち込めばたちどころに自由は消滅する。反省は自由の下にあってただ現在にたいしてのみ許されてある。〈
一度起れば二度となかったことにすることはできない〉この認識の元に拠たねば人間に自由などというものは金輪際許されていない。
これは自由への制約としてあるのではなく、むしろ自由が持つ切り札なのだ。この
起きるというのは、個人の心の中だけの出来事にもあてはまる、いやむしろ、現実に起きた事件も、畢竟それを受け取る個人の心の風物である。そして
いかなる権力、権威、法、倫理、道徳、組織もこの個人の心に起きたことをないものとすることができない。同時に、個人はこの心中に起こらなかったことどもを、それがいかなる現実客観性の外観をともなっていわれようとも、これを無きものとし続けることができる。自由を手放そうとせぬかぎり、元凶の当時を反省することが許されているのは当時の元凶だけなのだ。そのつどたったひとつの現在のなかだけに自由の唯一主体としてのわたしがおり、このいまこれを想っている。
ガンバリスト〔事故のあった最終イベントの演目名、我慢比べの優勝をかけて争う、司会者二人が出演者四人に痛みを与えてゆく〕 俺はガンバリストにかける、Oさん、O2さん、Kさんを見てきた。覚悟とその背中を。俺は胸を焦がされた。そして、かつてないプレッシャー。重い。重い。自分らの行事〔中庭ステージでのイベントを執り行う実務集団〕の集大成。中一からぞっこんだった行事の先輩たち。ガンバリストの司会。これは俺にとって、重い、重い言葉。今、自分があの最後という熱狂に満たされたステージへの階段をあがった。イギーのロウパワーとともに。ステージに上がった瞬間、歓声。世界が紫と赤の混合色に点滅して、過呼吸になって、テンションそのものになって、あとは、何も覚えてない。盛り上がり、盛り上がり、安全管理。安全管理。盛り上がり。安全管理。その二言だけがこだまする。でも、その安全管理という言葉が1つたりなかった。それはしょうがないではなく、ひとつでもかけた時点で終わり。俺はだめだった。司会をしながら、あわただしい裏方で、急いで湯を沸かし、あせり、出来たらすぐにステージ上のBへ。そんなこと、把握できるわけなかった。裏方にBを置いておくべきだったかもしれない。俺の統率力が足りなかった。把握できてなかった。これは、最初に書いたとおり、何も誇ることはない。侵してはいけない罪。それまでの俺にある原因。それを、二度と起こさないために書いた。もう一度言う。これが当時の俺の状況。もう、二度と起きないことを本当に祈ってます。おれは、本当に最低の人間だった。K2さんあとで言われて家で泣いた。ガンバリストの司会。やったやつにしかわからないよな。でも俺はわかるよ。お前らが一番辛いよな。確かそんな言葉だった。俺が悪い。俺が悪い。あのやけどを負ったやつらの見舞いいったら、あいつらが一番不幸なんだって。ごめん。ごめん。そんな中、前に進むために救いになった言葉だった。許されるわけじゃないけど、あの言葉がなかったら今。
これが元凶が先の文集に実際に書き「
17歳は二度あるか」の筆者が当時目にすることのできた「
学生の自治活動が暴走し、人権侵害が発生している」に関する元凶の発言である。というより、「
その後処理をすることとなった」
元凶の文体である。
ただ後の祭の燃え尽きのなかで「
中高時代の関係者」に対して絞り出されたものであるので、そのように書いたからといって元凶自身何かから解放されるわけではない、むしろそのように書くことによって言えずにしまったことの血の吹溜りを抱えていまここにある。
きょう
言葉がとめどなく溢れた
そんなはずはない
この生涯にわが歩行は吃りつづけ
思いはとどこおって溜りはじめ
とうとう胸のあたりまで水位があがってしまった
きょう
言葉がとめどなく溢れた
十七歳のぼくが
ぼくに会いにやってきて
矢のように胸の堰を壊しはじめた
戦後の詩人思想家・吉本隆明満六十五歳のとき(平成
2年)に書かれた「
十七歳」の全文である。「
17歳は二度あるか」の筆者は、標題をあきらかに吉本の『
13歳は二度あるか』というエッセイ本から借りている。『「
偏向」白堊紀』も買ってくれているので、同書で引用してあるこの詩のこともすでに知ってあったかもしれない。だがあまり関係はないようだ。
すでにS.H.U.の文章をお読みになった方はお気づきだとおもうが、このタイトルのもつ問いが直接の言及としては文書内で筆者によって答えられてはいない、いわば答なき問い、あるいは文書全体のメタファーか象徴のように題名に置かれている。書きながら気づいたが、先に引用した筆者の十七歳の時の経験が全体受動態で書かれざるを得ないところで、現在時点における筆者による無言の回答はなされているともいえる、しかしやはり消極的にではある。だとしたら、なぜこの問いが発されたのか、というのがなおさら気になってくる。
仮に筆者が「ある」という確信のうちにあり、現在の実践のさなかにあっての発問だとすれば、彼が対象にしているという「
中高時代の関係者」への「今がその時だ!」というアオりあげのように聞こえる。だがその場合、たとい
17歳が二度あったとて、自らの与り知らぬところのものに「させられている」暗い時代の反復にすぎないのであるから、全くのナンセンスな呼び掛けとなってしまわないか。
では、やはり「まだあるとはいえない」というのが筆者の回答なのだろうか。
それとも、そもそも回答を求めるということ自体がわたしのうがった読み方なのか。
どうにも腑に落ちない、自らは答えようとしない問いを他者に投げかける筆者の意図が。この腑に落ちなさを表したいがためだけに、わたしは自らのひときわ大事にしている詩をあえて感動を起こさせないようなやり口で引用してさえいる、引き返すわけにはいかない。
ひとつだけある。
わたしのこの文章の読者にははじめからわかっていたかもしれないが、どうにもわたしには
わかりたくなかったのだ。「
17歳は二度とない」。これがS.H.U.の文章全体をとおして語られつづけているモノトーンの回答なのだ。「
なぜならぼくたちはまだそれを知らない」。
筆者本人はかならずやそういうことではないと言うと思う。だが、わたしが文章を読むかぎり、筆者の無意識はそう語っているように聞こえる。「
はじめから失われたままに過ぎ去ったものが二度と起きるはずがない」。そして、──これでわたしにはすべて腑に落ちる、
二度あるためには一度目を奪回しなくてはならない、そのとき一度目と二度目とは同時に起こる
と…書いてみればやはり、これはわたしの詩にすぎなかった。だが
お前たちの詩であることによってわたし自らのために、わたしによってうたわれずにはおかれなかった詩だ。
2
「
17歳は二度あるか」の筆者は末尾で読者にこう求めている。「
さて、以上の文章を読み、あなたは、どう思ったであろうか。僕は、この文章から、そこのあなたに、考えてほしいのである。」 じっさいアフォリズム詩一行は吐いたもののわたしは依然として何かを思わせられつづけている。この文章について書き始めるまでに、原稿をもらってから
6日間の自問自答・他文自答を重ねてきた、なかば
1章はなしくずしのように書き始め、
2に到る。筆者の目的はすでにわたしが考える分だけ果たされつつあるのだろう。わたしは彼が今回書いたような類の文章を書いたことがないし、おそらくあまり読んだ経験もない、と思っていたが、
ゴシック体でここに引用したところを眺めているとうっすらとふるい夢の靄がコーヒーの湯気ほどにはかかったりもする。──わたしにはこの文章にたいして書きたいこと、書かねばならぬとおもっている要項がある。それらは箇条書きのメモとしてすでに後ろに控えているが、どうにも筆は別のほうに流れようとする。
1で書いた内容はどれも全く用意のなかったものだ。そしてほんにそれが書きたかったことなのだと書いて初めてわかった。それを
2でもやらねばならないような気がしている。飛躍を恐れずに行こう。
もしかすると、ただいまのわたしが、風邪で熱のあるために、やや夢うつつなだけなのかもしれない。それでもどうやらこの原稿を書きながら、「
ある意味、人に役割を求められてやっていただけであって、そこから解放されて、まるで自分のために生きていいんだよ、と言われた時に、何かのバランスを崩してしまった」のと似たような体験が「
書く事」により起こりつつあるようなのだ。書かねばならぬ、やらねばならないことではなく、
偏向をきたせと、「
偏向」の発起人でありながら、S.H.U.の文章から、いや書き手の無意識のvisionのようなものから、囁かれているらしい。それがわたしの願望の反射にすぎぬなら、なるほど良い鏡だ。そして不思議な鏡だ。
「
港区の中高一貫校に中学受験で合格してしまった僕は、その学校の持つ「自治」の問題に巻き込まれていくこととなった。(…)学生の自治活動が暴走し、人権侵害が発生しているということで教職員が介入し、退学者や不登校者が発生してしまったのだ。その騒動に巻き込まれながら、その後処理をすることとなった自分は、学校自治に関する改革のために友人と議論に明け暮れ、高校生であるのに、政治学や法学の専門書を参考にして、自治組織の体制改革や、規約の条文作りなどに励む日々を送ることになってしまった」
この箇所にこだわりすぎではないかと思われても仕方ない。だが、「
17歳は二度あるか」という題の文章において、
17歳のときの経験が受動態尽くしで
語られてしまったというのはやはり痛ましく、普通ではない。
すべて外圧によって「させられている」ので、ここにはいっさいの責任の所在も自由の余地もない。しかしわたしが現実に知っているこの人物は、むしろ重すぎる責任を果たした人物なのだ。この齟齬は、十七歳の彼に帰すべきか、現在の筆者に返すべきか。「
祭というハレの中での出来事を、日常というケの論理で問うことは許されない」ならば現在の筆者にきまるが「
祭とは命懸けのものである」、けがをしたのは十七歳の彼なのではないか。ならわたしには「
負傷者の全き恢復を祈る」ことしかできぬ。
──わたしは「
この文章から、そこのあなたに、考えてほしい」と思うのだ。
「
「価値観」から来る、あるべき社会の理想像に対して、自分が(「やりたいこと」ではなく、)「できること」=「仕事」をすることを目指してほしい」と筆者は冒頭と結びで語るが、この位置がわたしにはよくわからない。しかも文章を読むかぎり十七歳のときの筆者は「
やりたいこと」より先に「やらねばならないこと」を「やらされていた」。なぜなら、それが彼に「
できること」だったから。そこには当時の彼なりの「
価値観」があり、あるべき「
学校自治」の「
理想像」もあっただろう。しかし、その結果現在の筆者は、無意識にも、いやそうであるならなおさら、当時を振り返って
受動態尽くしの痛みの作文をなしている。わたしは「
この文章から、そこのあなたに、考えてほしい」のだ。
他人にたいし何かを欲す人間は、必ずや自己に対して何か不満がある。世界にではない。たとい「
中高時代の関係者」にたいしてであろうとも、「
やりたいこと」をやるなといい「
できること」をやれなどと一体誰が指図できるか。「
やりたいこと」をやったほうがいいにきまってる。筆者がいくら「
多くの人に伝わるように、ひと繋がりの文章を書け」ようが、「
ヴェーバー、ハイデガーなどの近代に対する思想や、ポランニーなどの政治・経済・社会思想の影響」を受けていようが、ひとのWILLに口出すことなどたれに許されようか。その「
できること」いうのを筆者のいうとおり
選んでみて、「
幸福」になれなかったら? 責任が取れるならいい、筆者にはその自由があろう。そのような教えを説き、自らの教えるところのものに生涯をまっとうした人物のことならば歴史はことかかない、ひとはこれをさし
聖人と呼ぶ。だが彼らが「
今後もブレないであろう」などと生半可なことをいったようにはわたしにはおもえない。むしろ「
そこのあなたに、考えてほしい」とおもったり、自分と同じように生きて欲しいと願うのは、自信のなさをいっているにすぎないのでないか。いや、というより、無意識にも、疑いのありかを示しているように聞こえる、「
できること」をやってて本当にいいのか。「
この文章から、そこのあなたに、考えてほしい」のだ。
常識的に考えて「
できること」が「
やりたいこと」になるか、「
やりたいこと」を「
できること」にするかしないかぎり、労働はあっても仕事はない。そんなことは人にいわれるまでもない。幼稚園児にもわかる(彼らにはほかのいかなることでもわかるのだが)。そのことがわかっていないのは筆者だけだ。わたしはそんな筆者の「
価値観」を少し疑わざるを得ない。
それは現在自らがそれによって規定されているところの限界を指す言葉であれ、他人を束縛するための何かではない。こんなのにも小学生でさえ自明すぎて退屈するろう。問題は、現実のわたしの眼にはひとかどの人物に見えるこの筆者にだけ、そのことがなぜわからなくなって了っているのか。「
この文章から、そこのあなたに、考えてほしい」のだ。
「
この文章から、そこのあなたに、考えてほしい」のだ。なぜなら
あなたは「
多くの人に伝わるように、ひと繋がりの文章を書ける」
インテリだからだ。インテリのわたしなりの定義は
読み書きができることだ。だからわたしの祖父や叔母はインテリだ。だがわたしの叔母は「
多くの人に伝わるように、ひと繋がりの文章を書け」ない、ましてあなたのように「
15000字で完結する文章」などはとうてい書くことができない、こうなると祖父にも無理だ、あなたの「
中高時代の関係者」ならば少し苦労すれば書けるだろう。しかし、わたしの「
価値観」に照らせば、
15000字で自分のいいたいことをまとめられる能力にや、顔が洗えることほどの価値もない。──
*
ああ、こんなところに手紙を挾み込みたくなった……これも熱のせいだろうか……
きみの(15000字)への偏執を訝っているうち、震災前夜のあの頃の
ロング缶コーラの肌のぬくもりが蘇ってきていた……(そして、このことについては
いつも、いつかは、書きたいとおもいつづけてきたような気がする、けど、いったい
だれに打ち明けたらよいか、わからなくて、ことばがみつからずにいたのだ)
ぼくはきみにかつてよりひそかに共感を抱いてきた ……思えばきみとKは
あの遺制にたずさわった 最後のふたりだったね しかしきみたちは宙吊りにされて
終わった その後一年半かけて Don't Imitation the Past 遺制を終わらせにかかった
祭の後 きみはたしか八万字ほどの あの米のような活字の「遺書」を冒頭においた
塀のなか史上もっとも分厚い文化祭文集を 編み上げた ──それでもまだ
終わらなかった……ということに(ぼくは「遺書」は目にしたがまだ読む予定はない)
あの遺制 あれから干支をひとめぐり 国内外の文献をわたり歩いたが ついに
ぼくは あれと同じ体験をしたものの 血文字を みつけることができなかった
だからこそ ぼくは 自で書きたいと おもっている、その方法を探しつづけてきた
いまだからこそ いえるが あの頃 塀のなかでのことが 全世界そのものであった
ぼくたちにとって 震災を契機とする 遺制の外からのテコ入れと きみたちのやった
内からの自己否定(年代ものの用語だ)は 遺制がぼくたちの血管内部を流れていた
かぎりにおいて 間接的であるがゆえに ある種の世界体験とよべる〈普遍〉だった
のではないか そして〈普遍〉とはいつでも血まみれのむすうの遺骸のうえにしか
樹存しえぬ抽象である と──あるゆる概念とよばれるものがそうであるように……
そうではなかろう 当時のきみとってはすでに遺制は遺制でしかなく外としてあった
〈普遍〉などという靄霞はとりはらい ぼくのたいけんは〈にほん近代〉の追体験で
きみのけいけんは〈現代ニッポン〉の後処理であった そういいかえとくべきか……
震災一年後のぼくたちの最後の祭 と その三年後のきみたちの後の祭 その懸隔
──こんな活字の置き換えがしたくてぼくはきみへの手紙の筆をとったのではなかった、そうでは
なくきみの(15000字)への偏執を訝っているうち、震災前夜のあの頃のロング缶コーラの肌
のぬくもりが蘇ってきていた──これがすべての始まりであった こうして夜から夜へのうんてい
にぶらさがり 何日も洗わぬヤニくさい顔面の皮膚の髪の向う ベッドの下から拾い上げられるの
をまっている 透明な活字の鉄の静謐 と モニタの空白 遺制よりいいわたされてきた期限
今では 自らが自らに課した雑誌の〆切となってはいるものの なにものかに 絞りあげさせられ
てきた この干支ひとめぐり もはや書くことは遺制の遺恨とも生まれながらの生理とも見分けが
つかない ここ流刑地にて、ぼくたちは遺制のなかの遺制を自らの生理とせざるをえなかったそれ
ぞれの余剰を抱えたのだ!──この 崖のある街での七年など、七日間のごとくであった!
**
おお遺制のなかの遺制〈理想の〇〇〉と〈自己分析〉明朝五時までに(10000字)
中学生であるのに ぼくたちには睡りが許されなかった 提出は限界ぎりぎりの四時
五十九分でなければ 全力を尽くしていないことになる そして提出とともに始発に
乗り、極寒の有栖川記念公園の小鳥の広場に聚まり 六時の開門とともにビラ配りを
全校生徒からの心証を損なわぬため 授業はすべて出席し 居眠りはしてはならない
放課後のチャイムとともに放送室へ走り それぞれの部門より部門会への呼びかけを
する そこでは下校時刻まで前夜書かされた課題の実行の是非が問われる 解散後は
部門会の延長 メシと公園溜まり 無言の審問は絶えることがない 解散後、帰路の
途中で再度 任意の街への呼び出しのバイブレーション 終電前人気の絶えた都会の
公園での判決 再度 〈理想の〇〇〉と〈自己分析〉明朝五時までに(10000字)
──原理上 ぼくたちに睡りが許されていた時限は 25時間目以降ということになる
ぼくが遺制の鉄扉を叩き、一度めは弾かれ、次なる会期に 最低評価の条件付きで
その遺制への加入が認められた瞬間より 始まった生活は右のごとくであった
三年後のきみたち二人のときも おおかれすくなかれこれと同じ生活だったと思う
従うべき遺制の構造と理念とがちがったとしても
塀のなかでは、入学すぐの中1で体感した代の祭に 決定的の影響を受けるものだが
(ぼくは小5ですでに決定していたが) ちょうどきみが その決定的の影響を受けた
あの代の祭の終幕とき ぼくは 北関東の黒い雨雲の下 農業用水沿いの茶色の木の
ベンチで祈っていた、濡れて火がつかない冷たい鈍銀のジッポライターを両掌で包み
あの遺制に足をつっこんだものが 祭の場にいないということは どういうことか
もしかするときみたち二人は 宙吊りにされた経験から 少し類推可能かもしれない、
震災後社会に対応した 世にも美くしい理念の下で ぺしゃんこにされた ひとつの
心臓を そしてその心臓がアルミの肌に「強くなりたい」と刻んだ 物体のこころを
(ぼくは『罪と罰』という邦題タイトルを この心でしか受け取ることができない『Crime and
Punishment(犯罪と刑罰)』 英語ではそういうのらしい (ドストエフスキイはディッケンズの影響
を受けている) だが 現代アジア育ちの 遺制のなかのぼくには中東起源の戒律や言葉への信に
まつわる罪でも罰でもなく それらもとおく含み発狂ながらの自己選択──祭からの自己疎外を
……いやこんなやり方ではとうてい 語ることはできない、じっさいぼくは遺制の掟を破ってでも、
罰とひきかえに無垢を 仲間との明るいカオスの夢を取り、武蔵野の台地に接吻をし 今がある。)
なぜこの遺制のなか「書く事」というもうひとつの遺制が導入されねばならなかった
か その起源はぼくにもわからない 少なくとも ぼくが塀のなかに入ったときには
すでに存在していた遺制だった ぼくたちのときにはすでに形骸化し たんなる懲罰
として 明朝五時までに(10000字) はあった やらせる側もやらされる側も
すでに本質的でないという風潮が生じはじめていたときだ だが証文をつくらせて
それに行動が追いついていない という詰問のやり方は便利だったから この遺制の
なかの遺制は きみがこれに片をつけるまで のこりつづけたのだろうとおもう……
だがひとつの転逆をともなって……
***
きみが無意識にも行ったその天逆について書くまえに、遺制のなかの遺制にまつわる
ぼくの身におきたひとつの転回について書いておきたい あのバビロン捕囚のさなか
遺制の直属上官より──
「〈一番大切もの〉(30000字)明後日明朝5時まで」
二晩とあいだの一日を書き続けてようやく間に合うか間に合わないかの瀬戸際
ぼくは急いで真夜中のam/pmへ100円(税込)のロング缶コーラを数本買いにでる
これだけが過度に過度を重ねに重ねたひきしぼられた精神と内臓ストレスの
おでこにあてられる 母の冷えた手のごとき 支えなのであった……
まったく迷う暇がない 即座に構成を脳裏に描き(すでに遺制のなかの遺制をくりか
えし叙述能力は高まっている いや だからこその異例の条件なのではなかったか)
うなりながら画面の中にからだを没入させてゆく──
(あとからわかったことでは、この常軌を逸した遺制のなかの遺制の異例を出されてい
た遺制の竝びの部下の家での家庭問題となったことが直接の理由であったらしいが)
期限提出の直前四時五十九分(すでに書き上げてあったぼくは見直しもできないまま、
メールの文面を作り、添付確認をし送信ボタンにカーソルをあてていたときであった)
「やっぱ十文字以内で」
ぼくはいまでもこの遺制の上官に 頭が上がらない(このことじたい、遺制の外から
すれば〈洗脳〉であり人権侵害であり後処理すべき遺制の文体の最たるものというが)
この遺制の上官にして中2のときぼくの前に初めてあらわれた大人K2さんはこのとき
二重に遺制のなかの遺制を本質へ飜したのだった この上官もまた遺制の属する以上
掟のなかにありながらそれを果たさねばならなかった そのぎちぎちの現実条件の中
ぼくは全世界までに拡張された塀のなかで つねに二重に笑っていなければならない
(こころから笑っているという笑いを笑っていることで人を笑わせなくてはならない)
遺制のなかで はじめて 心から声を出して笑った 「やっぱ十文字以内で」
すでに十文字以内で何を書いたかは覚えていない
そんなことはもうどうでもよかった 〈一番大切なもの〉は
このときの笑いの中にしかない 「やっぱ十文字以内で」
(そしてたしかにぼくは「本物の笑顔」と書いて送ったような気がする)
理想と分析とはすでに 笑い飛ばされていた
まもなく あの大禍津日が 踏み絵とともにやって来る──
****
大禍津日、それはぼくらが初めて兄弟の盃を交わした日 帰宅困難者たちが
魂の歌手・井上大輔さんが歌う「哀 戦士」に出てくる〝死神の列〟のように
帰る場所に 歩きつづける246沿いの 駒沢緑泉公園の 蛙石のところで
その日だけだ、すでに心を壊していたぼくが 心の底から笑ったのは──
地震発生時、ぼくは駒沢のかつての自宅マンションに姿をくらませていた
もうどんな路上も探索の範囲内にあり めぐりめぐって実家しかなかった
だが 二人の同い年の遺制内と遺制外の相棒ふたりは 見事に見破った
そして、地面の底が割れたとき リビングにはぼくと妹と二人がいた
「テレビが壊れる、お兄ちゃん」といって、兄に液晶テレビを支えさせ(!)
「あんたは臭いから」と、遺制内の相棒は、ベランダに幽閉されていた、
その妹と遺制外の相棒のみが、テーブルの下で頭を抱えている──
やがて 画面に映し出されるあの一聯の光景に 会話は止んだ
「街に繰り出そう」(気の弱い読み手のために断っておけば、
被災体験と震災体験とは別だ、そしてあれから十余年
いまこそ、わたしたちそれぞれの震災体験が 語られねばならない……と信ずる
その遺痕とともに──)それが、おれたちの古くて新しいいつもの処方箋だろ?
と呟くかのように……くちぐちにいう「街に繰り出そう」「そうだ、街だ」
ぼくたちの街に、
……最初に這入った 成城石井は キリストの血の池
「おお、なんかなつかしいな、去年の梅雨ごろの あの廃墟みたいだ」
「あんときはよかったなあ……」ぼくがそういうと遺制外の相棒は
「これからやんだよ、高架下の酒屋で生きてる酒買い占めるぞ」
ぼくたちは 何か すでに どこかで感じ取っていたのだ
震災以前は 二度と帰らない と──
盃の誓いの言葉はもう覚えていない それでも約束は消えない
風が吹けば われと知らず 唇をついて出る あの合言葉
〽︎月と仲良く 俺たちは
いつでもここで 逢えたんだ……(「文京台青春物語」イナズマ戦隊)
そうだ、
季節は流れる 城寨は崩れる
無疵な土地なぞ何処にもない
──誓いの言葉はこうだった、「大人になっても、俺たちだけは、変わらずにいよう、
こんな日だからこそ この日にかけて 俺たちは忘れない」
*****
変わらずにいる…… ぼくがそこに身を捧げていた遺制は
「全校生徒1800人と文化祭をやる」という第一理念を掲げていた
それは美くしい ぼくだって出来ることなら そんな祭がいい この理念の生まれる
背景には 遺制の主導する祭が 〝内輪楽しさに〟重きを置きはじめめていたことから
塀のうちがわに外輪を形成し いわば狂気vs常識の対立構造を生んでいたことがある
すでに文化祭の当日に 学校に来ずにゲームセンターに行くという流行りまであった
これはぼくの文学的独断だが、〝内輪楽しさ〟のあまりの楽しそうが生む 疎外感は
常識の外に飛び込めずにいる生徒には 嫉妬を もたらさずにはおかなかったはずだ
この常識には もっとも強く〈親〉と そこと結びつく〈教員〉という実体概念が
がんじがらめの いごこちの良さと悪さのアンビバレントが 生理のようにしがらむ
さてこのしがらみ と 遺制にまつわるしがらみと どちらを選ぶか
憶えば暗いせかいである
想像つくことと思うが、
大禍津日の後少しして、どこからともなく〈自粛〉という風の吹いて来る──
これはいわば戦前戦後と二つの昭和に吹きまくった まるくす主義 ににて
いや すでに懐かしい 水戸黄門の紋所のごとき 問答無用の威力を誇った
「全校生徒1800と文化祭をやる」この第一理念ほど これに弱いものはない
これはどこをどうとっても いい子ちゃん のいい口だ 〈世間〉〈教員〉〈親〉
三位一体の〈大人〉に 半ばはよりかかり 半ばはそくばくされていた嫉める
外輪(1800人の三分の二以上、憲法改正さえできよう)が内輪を無きものと
するために この紋所を使わないはずがない そしてぼくが属していた会期の
遺制のトップ12は ばかではなかったから むしろ自で〈自粛〉の側に立つ
ことにより、しかも過剰にそうすることにより 一気に外輪と三位一体に対し
〈啓蒙〉の位置に立つことにさえ 成功したのかもしれなかった……
「全校生徒1800人と文化祭をやる」この第一理念にとり〈自粛〉ほどべんりな
神聖呪具もまたなかった そして「全校生徒1800人と文化祭をやる」はすでに
「全校生徒1800人と文化祭をやる」という意味以上の 何かであった
「全校生徒1800人と文化祭をやる」「全校生徒1800人と文化祭をやる」
「全校生徒1800人と文化祭をやる」「全校生徒1800人と文化祭をやる」
「全校生徒1800人と文化祭をやる」
この言唱は スマホ普及前のテレビでえんえんと繰り返されるACジャパンの
「おはようなぎ」や「こだまでしょうか」とほとんど同じようでいて
いやむしろ 戦時中の軍隊の亢進の跫音のような 威力を誇った
尠も遺制の下のぼくをぺしゃんこにするだけの力はあった
ふつう学校行事における自粛とは 実質的な中止に他ならない
だが きみはよくわかるだろうが あの会期の遺制が主導した文化祭は
〈自粛〉を自らの理念(すでに理想ではなく実行概念だった)のための神聖呪具とし
むしろ 開催日をひとびとの集中が見込まれる それゆえに伝統だった
ゴールデンウィークの三日間から 梅雨の終わりへ延期したものの
そのじつ過去最大規模の 文化祭の成功にこぎつけた
……らしいね、ぼくはそこにいなかったので直接には知らない
十代とは天才だと思う 子供くらいとはいわないが ある特殊の場合には
世にもおそろしいことを成し遂げる まだ世間があぜんとし エンタメTV番組も
自粛から出れていなかった頃に きみが入学してすぐの もっとも影響を受けた
あの会期の遺制は 成し遂げた──
(あの祭を知る塀のなか大人たちは 干支ひとめぐりした今も──ぼくはひょんなこと
から去年の秋から あることの準備のために 月に一回 恩師の頼みに応えるために
二度と帰るまいと思って出た塀のなかへ 通っているのだが──いまでもあの遺制の
長官の名とともに ほめそやすことがあるよ、あの震災直後にね……と)
はて、あれは令和の理想なのではなかろうか コンプライアンスを十全に守った上で
それによって失われる 盛り上がり や 解放を 同時に成し遂げる 〈自粛〉を逆手
にとり……あの震災直後に本能力でそれを成し遂げた
十代は天才だと思う
まったくおそろしいよ 大禍津日から三日 あの会期の遺制のトップ12は
まったく対応の取れていない〈学校〉側を飛び越して NPOか何かをとおし
被災地支援に行っているのだから 福島第一原発の溶炉融解もどうなるか
わからない情況で まったくもって天才だった 〈学校〉にとり 当代の
学内選挙で選ばれた生徒の代表二人が これほどのデリシャスな名誉もない
この英雄二傑は きみたちの代の入学式で「自由と責任」について語ったらしいね
本来入学式には 遺制の全員で 神輿入れのように雪崩れ込み いわば洗礼を与えた
ものだが あの年はちがった 〈自粛〉の名のもとに
英雄二傑のスピーチがそれに変わる そのことで震災直後 あの〈学校〉は
意識の尖端に立ってあることを 示すことができたのだから
このとき 遺制の下にあった 部下たるぼくたちは 仲間を二人失った
ひとりは単独で遺制そのものに反旗をひるがえし 塀のなかの公職を辞職した
(それから彼とぼくたちが口をきいたのは卒業一年後の 奇跡の一日だった)
ひとりは 部屋の外へ出られなくなった
(それから今日までぼくたちの仲間で 彼の顔をみたものはない)
二人を失うか失わないかの最後の瀬戸際 しかも残りのぼくたち9人も
回復不能なまでのバラバラとなっていたとき 遺制のトップ12は
被災地で英雄の資格を手に入れるのに忙しかった
十代は天才である 後の英傑二人がいなくとも 残りの遺制の上官たちによる
遺制の管理には 余念がなかった ようするにまだ遺制の下のぼくたちに
睡りはゆるされなかった
ぼくたちは バラバラの回復 と 部屋から出てこない遺制の部下 と
辞職した仲間の単独の勇気にあやかり続こうとする 遺制の部下のまたひとりと
彼が連れてゆくだろう 遺制の守るべき構成員の 引き留めを 長めの春休みの
使命とされていた
何日も 部屋から出てこない仲間の家のちかくの駐車場で 野宿をした 三月はまだ
寒かった ……だがこれ以上は ぼくには夢の再現のように むつかしい
辞職した仲間は ぼくの もっとも近くにいる 同じ部門のひとりだった
彼が あの 理念とやきの入れ場だった 遺制の会議を 自らのために提起し
(遺制史上 部下が提起することなど ゼッタイにありえない) 堂々と
辞職を認めさせた日 ぼくはそこに行くことさえできなかった すでに
路上や駅の多目的トイレで 泡をふいて気絶しているのを みつかっては
崩壊した家庭に連れ戻され 気がつけばふたたび 知らないとこにいた
覚えているのは、さいごに 遺制との連絡手段を 入ってくる地下鉄に
轢かせたこと
……いまおもえば、あのときこの身をではなく
物と友達になるぼくが あの薄金いろの相棒を
列車の下敷きにしたこと それは
まだ出会ってなかった文学に ぼくは救われた 瞬間だった
のかもしれなかった……
「全校生徒1800人と文化祭をやる」「全校生徒1800人と文化祭をやる」
「全校生徒1800人と文化祭をやる」「全校生徒1800人と文化祭をやる」
「全校生徒1800人と文化祭をやる」これは遺制の部下たちの唇でもあった
ぼくはひとり「時代に反逆する」「時代に反逆する」「時代に反逆する」
「時代に反逆する」「時代に反逆する」「時代に反逆する」「時代に反逆する」
会話は成り立たなくなっていた 東京に残された遺制の上官たちも
暴力でこの口を封じるしかなかった「時代に反逆する」「時代に反逆する」
「時代に…」
十代は天才だと思う そして狂気はときに理性より理性的だと
ぼくにのこされた最後の一手
核兵器のボタン
ぼくがいなくなれば、1800人ではなくなる
すでに失った二人がいなくとも あの人たちは1800人を言い続けていた
そんなばかなことはない 1800人のためには辞さない犠牲だと
そんなばかなことはない
そんなばかなことはない
ぼくに残された最後の一手
これはほんとうに誰にもいったことがなかったのだが…
発狂を偽ってでも
意識を保ったまま
遺制のひとりとして
遺制を離れ
辞職もしないまま
祭に参加しないこと
(自殺もせず、生きたまま、)
生まれ育った東京を離れ
北関東の果てでひとり
考え続けること
思い続けること
祭のフィナーレの夜(もうぼくにはいつかもわからなかったが、
その日は絶対にそうなのだとわかった)雨降りの利根川農業用水の
ほとりで ずぶ濡れのぼくが さいごにしたのは
文化祭の成功を
ほんとうの 誰一人欠けない みんなの祭の成功を
祈り続けること
「あの夜、フィナーレが始まった瞬間、
おまえは登場した。いつものやり方で」
大禍津日、兄弟の盃を交わした遺制外のひとりが
のちにいった「そうだなっておもって横にいたBの顔みたら
こっくり頷いた、いかにもあいつらしいぜっていうみたいに。
だから、悪いけど、ちっとも悲しくなんてなかったんだ、
だっておまえいたじゃん」
あのとき中1だったきみも
もしかしたら 見たんじゃないかな
震災直後の祭で ひとりの「時代に反逆する」が
「全校生徒1800人と文化祭をやる」のステージで舞ったのを
もちろん全校生徒1800人はいなかったとしても その理念のもとに
駆け抜けられた祭 後で見た写真には かつてない人数の笑顔があった
二階のカメラに向けられたまなざしは そこにいないものへ向けられている
いなかった者は そう受け取った
ぼくにはそれ以来、いわば絶対の考えがある
一、祭とはそこにいるものといないものとの共同である
一、いないようにいるもの これを死者という
一、死者もまた 考え、思い、祈り続けている
******
十代は天才である 〈世間〉とはかくぜつされた塀のなかでの出来事といってしまえば
それまでだが そんなことはありえない 白紙の上にも 外部は侵入する
──いや この白紙という高密度繊維じたいにすでに 〈世間〉や〈世界〉や〈銀河〉
で織り上げられてある まっさらにみえるだけで この白さは そこにぼくたちの
心という余剰が 書きくわえ得ることを その妄想を 肯定する そしてひとたび
書かれた心的現象は 世界的な事件となる……この妄想は事実にはなり得ないので
これを読む人の心のなかに 事件として起こりつづける だろう──
あたかも『カラマーゾフの兄弟』一篇から 人類を学ぶように ぼくは全世界に
尠くも北関東の果てまでに拡張された塀のなかでの出来事から 絶対を引き出す、
ぼくはあの会期の文化祭を
考え、思い、祈り
し続ける
……ここまで書いてはみたものの まだしも納得がいかない、
ぼくはあのとき ぺんしゃこにされた のだけではない
ぺんしゃんこにされた上 さらに徹底的に すり潰されたのだ
何によって? 遺制の直接の手が届かないところ
北関東の果てまで来て ついにぼくは吹きっさらしとなる
隣町は 福島の避難者受け入れの主要市町村の一つだった
よそ者 あきらかに被害者であったそのひとびとも
よその土地のにんげんであるというだけで
周囲には暗いぼそぼそがあったことを ぼくは忘れない
それがこの土地のか にほんのか 人類のか わからなかったが
このときにぼくが見た にんげんの暗さ 白痴になって口のきけない
ぼくを両親にかわり引き受けた母方の祖父母の会話か
何をするでもなく がらくたを見に通った ハードオフの客や
店員の 死にたい心でときおり向った 秩父への秩父鉄道の列車内か
狂者はしばしば耳できいたことをまざまざと見るらしい
「(ほら、加須に来てるっていうでしょう……そのひとたちがね……らしいって)」
のちになって勉強しつつあることだが、太平洋戦争のとき
都会から疎開なされた おんなこどもや老いたひとびとも
いじめや差別を受け、食べものが余っている土地でも
餓死させられるようなケースも少なくなかったという……
村人の論理からすれば 都会へ出たむくいというのだろう
ぼくは祖父母から 食事と寝床とを与えてもらっていたし、
一日五百円のお昼ごはん代は 祖母から必ず渡してくれた
遅れてやってきたひとり息子のようにやさしく扱われもした
「アレはもうダメだ」「あの学校へやったのがいけなかったね」
こっちでの生活にもようやく慣れ出したとき その暗いぼそぼそをきいた
「都会で育ったらろくなことがありやしない、あの子がちいさいときにね、
木を黒で描くんだから、わたしやおどろいたのだけど、東京に行ったとき
わけがわかった、ほんとに木が真っ黒なんだから、どうにもならんがね」
ぼくはみた、祖母の心のカンバスに描き出された 一本の黒い木
地方人のけっして諒解することのできぬ 都会の魂 その見えを
そのとき すみやかに つぶれてひからびた蟇は一本の黒い木と化した
幼い頃にあった藝術家の魂が ぼくを近親殺人者や自殺者にしなかったのだ
写実主義と象徴主義 のちにぼくはこの体験によって これらの必然を解した
あくる日からの北関東の田んぼと麦畑と国道や線路、工場団地、大型スーパー、
どぶ、農業用水、利根川、雲、からっ風にしなう木、林、送電線、パチンコ屋、
ラブホテル、赤錆だらけの町、病院、廃材置き場、空地、公園、年代物の遊具、
それらはみな魂の絶景と化した、土地のひとびと以上にそれらがぼくを所有した
「一本の黒い木のある風景」「一本の黒い木のある風景」「一本の黒い木のある風景」
「一本の黒い木のある風景」「一本の黒い木のある風景」「一本の黒い木のある風景」
「一本の黒い木のある風景」「一本の黒い木のある風景」「一本の黒い木のある風景」
その一本の黒い木は、小学校4年以来 会うことを禁じられた 父方の 東京の
祖父母と両手をつないで歩いた 柿の木坂の 呑川緑道 や ものごころついた
ばかりの頃 母親と 大きな雪だるまをつくった 世紀末の大雪の 中根公園の
木 都立大学駅ちかく 道幅と交通量が釣り合っていない まだ車の排気ガスが
黒くて臭かった 平成十年代初頭の ぼくの世界樹だった 後年ふたたびぼくを
自殺の際まで追いやった 砂漠の思想はかたる〝悪い木には悪い実しかならない〟
ユダヤの民の聖典では これは純血への戒めと釈っていたのを なまりの抜けぬ
ひとりの東北青年がこれを〝人はその言葉ではかられる〟と転回させた 民族宗教
から世界宗教が生まれた瞬間だった 約二千年後 ユーラシア大陸の東の涯の島嶼国
都会の砂漠で生まれ育ったわたしは だがこう感じる このことばはそも ユダヤの
男たちのひた耻くしにする ユダヤの女たちの 内なるアジアの生き智慧であったと
ぼくはこれに最敬礼するとともに 魂のアフリカ人RAにならってこういっておこう
「ある朝目醒めて、自分が真っ黒なことに気づいたからとてそれは木の責任ではない」
おう 一本の黒い木であることでぼくは自らの幼年によってたつことができる 且て
わたしにとつて孤独といふのはひとびとへの善意とそれを逆行させようとする反作用
との別名に外ならなかつた けれどわたしは自らの隔離を自明の前提として生存の
条件を考へるように習はされた だから孤独とは喜怒哀楽のやうな言はばにんげん
の一次感覚の喪失のうへに成立つわたし自らの生存そのものに外ならなかつた おう
ここに至つてわたしは何を惜しむべきであらう
ただひとつわたし自身の生理を守りながら暗い時圏が過ぎるのを待つのみであつた
雨降りの日は 梅雨に入って 多くなったのだが すぐ目の前しきりフェンスの縁側
でぼうっとしていると気づけば幼馴染の猫ナツオがいつも隣にいた
夜、日中の絶景でなく ぼくあたかも彼らが能のように虚の舞台で踊るのをみていた
いなくなったのは彼らのほうなのだ ずっと古い時代の群像劇のように匂う オイル
こっちに来るときにはすでに ゆきてかえらぬ死出の旅であった 遺制への入門へは
通過儀礼が伴う そこで祭に命を賭けれるかが問われる 遺制の掟に属したものが
そこを抜けることは まごうかたなき死である だが ぼくは抜けてはいなかった
あのどこまでもまっすぐ都会へ伸びる鉄路がたしかにつながっているように
祭が終わるその時まで ぼくは遺制の連続を生きていた ところであの通過儀礼は
真っ暗な空間のなかで 自分の体がわからなくなる エロスの秘儀空間であった
塀のなかに入ったときにはすでに存在した遺制の中の遺制のひとつだが 十代とは
なんと畏ろしいものか 知識でなく本能で 前アジア的ともいえる宗教儀式を 祭
のために要用のものとして 制度に汲み込みえていた 一度そこで小さな死を経験
せねば 掟に属すことはできない そして一度死んだものが 遺制の外に出るには
辞職した彼も 部屋に閉じ籠もった彼も 外へ出たぼくも なんらかの魂の絶景を
見ずにはおかれないのらしい……
いなくなった三人のうち 一つ年上の会期が終わり ぼくたち自身の会期になった
とき 戻ることができたのは ぼくだけだ
どうして ぼくだけが しかも遺制の中心へ 戻ることができたか
いまだにわからない たぶん ぼくだけが 祭ナシに生きられないか
そんなはずはない あとの二人も ぼく以上に 祭に魅せられたはえぬきだった
──ぼくはあの虚の舞台に あるたしかな夢を みてしまっただけだ
考え続ける、
思い続ける、
祈り続ける、
ぼくだけではない、あの二人もそれぞれに 祭の終わりまで かたちはちがえど
続けていた と ぼくにはわかるのだ そうすることしかできないのだから
みんなが楽しむための祭、それを作るための主導役であった遺制 ただの
学校行事 なぜぼくたちは そこから離れ 具体的な活動の可能性の
閉ざされたところで なおも 考え、思い、祈り、し続ける──
ようやくここまできたが、きみが遺制に為した天逆とは こうだった
「遺制はなくなる、考え続けよ」と──ここから塀のなかの現代が始まった
考えているということ自体に価値などない、考えていない人間などいない、その内容が、社会や地方観光業に対応していようと、営業成績についてだろうと、どんなに高邁な倫理学についてだろうと、借金の運用法、家賃のとりたて、オンナのくどき方、オトコの利用法、同性への関心、横恋慕、プラトニックラブ、昼顔、晩御飯のおかず、宇宙の初まり、この世の終わり、推しへの愛憎……
人はいつでも何かについて考えている、それが
コンシャスということのほんらいの意味だ。何も考えていないということの方がよっぽど稀有であり、無上の価値があるといっていい、それくらいには人は何かを思うことからは逃れられない。
「意識高い系」というのは、自分がひとよりもコンシャスであるというあやまった態度に対する
庶民感覚の発明だ。ケンドリック・ラマーがコンシャスであるということの意味は「
意識高い系」と「
わかってる」の間で葛藤している、ということだ。この葛藤がなければ、それくらいアンコンシャスなことはない、単なる啓蒙ラッパー、というよりラッパー失格になってしまう。
コンシャスはひきさかれていることにおいてしかコンシャスたりえない。
ましてや、文章を書くということに、ひとむかし前なら著作のある人間などにたいして「何々センセイ」呼びもあったにしても、これも何重にも畳み込まれた庶民感覚からの批判がこめられている、つまりすでにひきさかれていない固定したその境地にたいして。
「
普通に生きていたら、24時間のうちに人間は文章を書く余剰などない」この庶民感覚の一行が無効になる日は、よほど遠くの幻想未来を想定しなくてはならないだろう。
げんにわたしは、何万字だろうと一気呵成にものすことたやすいが、シャワーを浴びるのにはその何十倍もの心的エネルギーを要する。況んや人間の約束事などとあっては……そしてそのことについて悩んでいる。気がつくとそれはふたたび書くという行為となってあわられる。このような恥辱の身にあって「
僕個人は、以上のように、多くの人に伝わるように、ひと繋がりの文章を書けるが、あなたはどうなのか?」とひとに問う気などにとうていなれない。
ひあいに
ひあいをかさねるようなものだ。「
この文章から、そこのあなたに、考えてほしい」のだ。それは
ひあいに
ひあいをかさねるようなものだ。だから「
この文章から、そこのあなたに、考えてほしい」なぜならあなたは「
多くの人に伝わるように、ひと繋がりの文章を書ける」のだから、「
やはり、ある空間の有限性に根差し、責任を持ち、引き受けること」、この文章から、すべてのひとびとのうちもっとも寂寥の
そこのあなたに、考えてほしい。
わたしこそすべてのひとびとのうちもつとも寂寥の底にあつたものだと。
いまわたしの頭冠にあらゆる名称をつけることをやめよ
かつてのきみは、「
ある意味、人に役割を求められてやっていただけであって、そこから解放されて、まるで自分のために生きていいんだよ」。
そしてこういったらいい、「
17歳は二度とない」と。──
わたしは知つてゐる 何ごとかわたしの卑んできたことを時はひとびとの手をかりて致さうとしてゐる もつとも陥落に充ちた路を骸骨のやうに痩せた流人に歩行させ 自らはあざ嗤はうとしてゐる時間よ わたしは明らかにおまへの企みに遠ざかり ひとりして寂寥の場処を占める わたしの夕べには依然として病んだ空の赤い雲がある わたしは知つてゐる わたしのうちに不安が不幸の形態として存在してゐることを「固有時との対話」吉本隆明 より
3
楽屋裏をぶちまけてしまえば、「
17歳は二度あるか」は筆者に問うてみたところ一回ものと言われているので、これで過不足なく完結しているのである。そしてわたしがまんまとはまったように、もちろん内容としては
駆け出しのものにはちがいなくとも、すでに一種の文体はもっているのである。わたしはあえて「
挑発」の文体と呼びたい。たとい筆者にとって、意識されざるものであろうと、すでに文体としては実効力をもっている。「諷刺」が非常に力のある文体であり、その獲得には並々ならぬ研鑽と生活力と天稟とが求められるように、彼の「挑発」も、彼の
17歳の体験と現在の生活と大宮出身の彼のいうところの「
地方出身者がつくる擬似的な田舎のような環境」で培われた資質によって編み上げられた稀有の賜物だ。それなりに文章が書けるものなどごまんといるが、文体をもっているものはおそらく中田島砂丘でみつけるモロッコヨーグルほどしかない。それは一万の言説以上に価値のあるものだと、わたしの「
価値観」ではそういうことになっている。
ところで、わたしはといえばおよそ自ら
これだといえるような文体はもってないつもりだが、かろうじて摑めるとしたら「偏向」かなと想う、或はたんなる脱線かもしれないが、
大宮といえば、その名のごとく、
大宮氷川神社を中心とした町だろう、というより武蔵野台地の文化中心こそが、ここ大宮なのだときく。
(…)大宮氷川神社のある大宮台地は、古代武蔵のまつりごとの中心地であった。大宮台地に隣接した東側、かつての浦和(現・さいたま市)にはいまも、「見沼たんぼ」と呼ばれる広大な新田地帯がある。この地帯は、江戸時代に干拓されるまでは文字どおり沼であった。古代はその面積はさらに大きく、かつての大宮市(現・さいたま市)にまでまたがり、大宮公園のボート池などもその一部であった。見沼は大宮氷川神社の「御沼」であり、もともとは武蔵の国造が、出雲以来の伝統を守って水の神事を行った場所とされている。
(『〈出雲〉という思想』原武史、1996原本発行、講談社学術文庫、2001)
わたしの幼少期から少年期にかけて、もっとも忘れられないお祭りが、東京の東横線の都立大学駅付近の、目黒区八雲衾町に鎮座する氷川神社の例大祭で、いつか書こう書こうと思って来たが、S.H.U.の文章に触れ、しかも彼が大宮出身だというのでこれをきっかけに書いておきたい。もうひとつ、彼の文章が地域社会や地域観光、町おこしについて書かれていながら、お祭りやその土地が古くから祀ってきた神さまについての言及がないことに、しかも彼がわたしの母校の三歳下の文化祭をつくる中心人物であったこともあって、非常にさみしくおもい、また論説てきな文章や思考として、それでは元が座らないよ、という気がする。
地域の活力の中心が、その土地の神さまを祀るお祭りであること、これはもう少し地方での生活をつづければ、「
17歳は二度あるか」の筆者にも肌身で感じられてくるはずだろう。これは令和6年の現代にあっても変わらないものだ。これをわたしは現在の品川旧東海道沿いの生活と、幼少から少年期にかけての八雲氷川神社のお祭りでの体験から、がっしと摑んでいるつもりだが、それゆえに説明するというのは非常に
おっくうな気がしてしまう。
たとえば、町の路のお地蔵さんひとつにとってみても、これが丁寧にお世話されていると分かる町は、地域自治体として活きている。東京の散歩でも、各地方への旅のなかでも、わたしはこれをひとつの基準とみている。
土地の神さま(アマテラスさんなどの伊勢系、天皇系の大きな神様ではなく)を祀ってある神社の鳥居がずたぼろに崩れているような町は、地域自治体としても同じように崩壊のさなかにある。これはそういう目で歩きさえすれば、すぐにわかることだ。
いちばんわかりやすい例では、お祭りに活気のあるところは、地域自治体としても健康だ。土地の神さまというのは、その地域の活力の源泉で、そこに暮らすひとびとの共同の心そのものなので、それが時節に合わせて目に見えるのがお祭りということになる。
東京だろうと、自分の住む町の付近をあるいてみれば、今ではコンビニや歯医者さんには負けるかもしれないが、おどろくほど大小たくさんの神社がある。そこに色々な神さまが祀られていて、地域の生活と深く結びついている。上京をしてきて学生生活や会社勤めをしている人には関係ないかもしれないが、漁師にには漁師の、海女さんには海女さんの、鍛冶屋には鍛冶屋の、芸者さんには芸者さんの、居酒屋には居酒屋の、妊婦さんには妊婦さんの、生活とみっちり結びついた神さまがいる。活力あるところに必ず神さまがいる。
わたしは、十代の頃からだんだんと頻度が増してきているが、一人旅をするのが好きで、それこそ初めて大阪や京都へひとり旅に行った
15歳や
17歳のときなどは、よそ者感で少々ノイローゼになったりしたのだが、
2021歳の夏と冬につづけて行った花巻では、宮沢賢治さんをたよりに、ようやく旅らしきものになりはじめて、ある時から、その土地の生活を知るにはまず神社をめぐればいいのだ、ということに気がついてから、どこでもひょんっと出掛けることができるようになった。いきなり人間に触れてしまうと、むずかしいっとなってしまうので、神さまに取り次いでもらうような感じだ。
引越しをしても、すぐに歩ける距離にある神社仏寺はすべてめぐってしまう。駅に行くときも、寄り道をするように心がける。これで、慣れない土地でのある種の自意識過剰によるノイローゼもなくなるし、お祭りがあっても疎外感を感じることなく、心躍りがするようになってくる、もっとも今住んで三年になる品川旧東海道は、街道沿いなこともあり、よそ者におおらかな心活きが残っているので、こうほがらかに書けもするのだろう。陰険で、いっさい移住者に心をひらかない地域の方がむしろふつうなのだとも思う。
なにより神社がある場所は、何かその土地のなかでも特徴あるところにあることが多いので、心が塞いでいるときなど、近くに神社があったら入ってみると、すっとすることも少なくない。ある意味で、過度に人間疲れしている現代人にこそ、ふと人間様との約束を忘れて、自分に還れる場所でもあるんじゃないだろうか。少なくともぼくは神社なしではちょっとしんどい。見つからないときは、手前勝手にお気入りのスポットを作ってしまうこともある。そもそもそんな風に、たくさんの神社が出来てきたのだろう。
「
ところで、僕はそもそも、埼玉県さいたま市で生まれ育ち、中学、高校と東京都港区の学校に通い、その後も埼玉と東京で長い時間を過ごした。地域や地方というものから離れた人生を送ってもきた。元々、地元に目を向けて生きてきた、とは言いがたい。むしろ、地元を離れて、比較的似た者同士と関係をつくる環境で育ってきた、という側面もあるのであった。それゆえ、このような人間がなぜ地域に関心を持ったのか、というところから、話を始めなければならないであろう。/思うに、地域に関心を持ったのには、いくつかの理由がある。/まず、幼少期に、現在のさいたま市の中でも中心地区の大宮に生まれながら、人間関係として、地方出身者がつくる擬似的な田舎のような環境で育ったこと。母方の祖父母と同居する二世帯住宅で僕は育った。祖父母を含む家族七人全員で、一つのテレビを横目に、夜ご飯を食べていた休日の記憶がある。また、祖父母は太平洋戦争前後の生まれで、その地域にはそれくらいの年齢の、各地方からやってきた、昭和感が漂う大人たちが集まっていた。そこに生きるご近所さんたちに見守られて育った、という意識を僕は持っている。これらのことは、原点として大きかった。」
(傍点白石)
牽強付会といわれればそこまでだが、わたしはこの
ご近所さんのなかにご先祖さまとか土地の精霊さんたち、大宮という土地そのもの、そういうものたちも含まれているように感じる。そういうあったかさのある一文だ。無意識にも、筆者の記憶を支えるようにその息遣いが、文章の上にもあらわれてくるのだ。
それにしても、わたしはこの筆者を実際にみしっているので、やはり大宮育ちは運命的と思わずにおかれない。大宮氷川神社と大宮という土地の歴史については、前に引用した『〈出雲〉という思想』第二部に
50頁にコンパクトにまとまってい、入門篇として現在でも入手し易い本でもあるので、ここでは詳しく述べない、というのもわたし自身まだ行ってみたことがないからだ。ただ、かつてここで行われていたという武蔵野のいろんな土地神さまたちがひとびととともに、神有月に八百万の神さまたちがあつまるという山陰の出雲を彷彿とさせるようなお祭りのちょっとした記述から、わたしは、ものごころついてから高校
3年まで暮らしたあの地域の八雲氷川神社のお祭りを思い出しながら、ああどんなに楽しかったんだろうなと、そこにわたしの想うほんとうの文化祭を垣間見るような心地がするのである。この氷川神社というのは、大宮氷川神社を第一宮として、おもに荒川沿い、関東の西側一帯に分布する神社で、メインで大国主さんを祀っている。出雲
人の一番大切にしているみんなの心の拠り所のような神様だ。出雲人だけでなく、アマテラスさんたち天孫系のひとびとに国譲りをする前、平和連合的に、全国(主に西日本?)を束ねていたと伝えられる、弥生以前に三千年ほどあった後期縄文のひとびとの善き指導者たちの受け継いでいた心のまんなかなのだろう。国譲り以後は、出雲の地にその魂をおき、死者たちのアンダーグラウンドを守っている。わたしは母校での文化祭体験から、このような心に何度か触れたことがあり、やはり幼いときの八雲氷川神社のお祭りの夢のような夜の思い出をたよりに、彼らに出会うことができたのだろうし、そしてこれらすべてが、たくさんの人の笑った顔に彩られたわたしの「
幸福」なのである。かつてもいまもこれからも…
*
「
偏向」の責任編集でありながら、挾み込んだ手紙のために、一執筆者として
2月号の発行を大幅に遅らせてしまっている。自由投稿きっかけの言いたかったことの要点はおさえた。
先日
3を書くあいまに、八雲氷川神社へ再訪してきた。そこで考えたこと、思ったことは、次号にまわさざるを得ない。幼少の「
幸福」のきおくとともに、祭についての考えも深めつつ、書きたいとおもう。氷川神社は、出雲の主宰神大国主を祀る、出雲神代直系の大宮を中心にひろがった、土地神さまとひとびとの共同である。出雲にも行ってみたいと思う。
「
現代詩」「
現代短歌」「
文学フリマ」について書きたかったことがやや宙吊りになっているきらいがあるが、右と同じく、改めて稿を起こしたい。お笑いの「
賞レース」もそうなのだが、令和六年現在、サブカルチャーとカルチャーとのあわいで、いわばアマテラス系とも言いたいやり方があんまり目につく。伊勢系とか天孫系とか皇室系といってもいいのだが、土地固有の人々の生活と神さまとのかかわりなどおかまいなしに、明治以降、全国の神社に順位をもうけ(そんなことまったく意味がない、わたしらの土地の神さまは日本で何番目に偉いなんて考えは、あんまり卑しくないか)、昭和期には植民先のアジア諸国に、次々となんのゆかりもないアマテラス神社をおったて、その土地の神さまへの信仰を禁じ、これに参拝を強制した。大宮氷川神社にも、出雲神代よりそこを守ってきた三家族を実質リストラし、宮司でもない
ただの官僚をそこのリーダーに取り替え、これを骨抜きにするようなことをしてきた。このひとたちは、
政事(奸策)は得意でも、おまつりのこころをまったくしらない。形骸化した儀式をこなすのみで、その時節がやってくると、どこからともなく地の底から湧きあがってくるどよめき祭囃子雄叫び笑いを知らない。ぼくはどこにいってもすぐにわかる、つまんないな、あ・ここでも例の黴菌がひとびとの心を空虚にしてる。国民性。外にあるモノに自己を虚しくする。内にある
庶民性を思い出してくれえ。
わたしの暮らす品川大井町京急線沿線立会川にも、家のすぐ近くに天祖神社(アマテラス神社)がある。だが、よくよくみてみると天祖の下に諏訪の文字が隠されている。たぶん、あの神輿入れの熱気は、この隠されたこの町固有の〈
諏訪〉が、令和現代にもこの浜川のひとびとに忘れられず、ケの生活にも根づいていることからくるのだろう。宮造の下では、高級車を境内に見せびらかすボンボン息子が、フリック・アルバイトをこなしているだけなのだ。彼とてあの神輿入れに参加し、地元のみんなとベロベロになって笑い合いたいにはちがいなのだが──いや、案外そんなことをしているのかもわからない。