映画「ハリーポッター」の中で印象に残っている場面がある。夜もたけなわ、マグルの街に降り立った魔法使いが、魔法のライターを手に取り、街灯の光一つ一つをライターに吸いとってゆく情景。街灯の光が吸いとられるや否や、マグルの街は光を失い、本物の夜が姿を現し、魔法使いは行動の自由を得て、マグルのある一家に赤ん坊のハリーポッターを置き去りにしていくのだった。小さい頃の、あの、光を吸いとってしまうライターとその情景は、自分にとって何かしら心に残るものだった。
これを突然思い出したのも、「地下鉄」というタイトルで何かを書こう、と思いあぐねていた最中のことで、いまさらながら、文章を書くという行為の教える、日常生活の奥行を実感する。「地下鉄」という言葉から、忘却の淵に待機していた記憶が徐々につながっていく。
この魔法のライターを、現代の東京で手に入れ、試せるとしたら、さぞ楽しいだろう。東京の人々が忘れかけた「夜」の肉感を、このライターなら教えてくれるに違いない。それでは、どこで、この、少年時代に憧れた「光の吸収」の魔法をかけるか。想像するとすぐ、千代田線、新御茶ノ水駅が頭に思い浮かんだ。
東京の地下空間が、地下として肉薄してこないと実感しだしたのは、パリのメトロ体験を思い出してからである。(東京の地下鉄を書こうとして、突然パリのメトロの記憶がよみがえってきた。)パリに初めて旅行に行ったときの記憶で、濃密な体験として記憶に蓄積されていたのは、パリのメトロのことである。パリのメトロの駅舎の多くは浅く、古く、暗く、臭く、汚い。車両内はスリやら手品師やらのせいで安心できず、駅はといえば、すみやかに退出すべき空間として教えられた。映画でも犯罪者の逃亡は「メトロ」と相場が決まっているし、メトロの薄暗い駅舎を照らす電灯は、日本に比べて数も少なく、青白い光は、かえって、犯罪空間という観念に拍車をかける。駅構内においてアナウンスはほとんどなく、電車は勝手にやって来て勝手に去っていく。下水のにおいがすっぱい。駅員のいない改札は、改札というより鉄門といった方が適切で、無賃乗車防止のために、金属製の門扉が仰々しく立ち並び、空間を区切っている。それでも門扉と壁とのわずかな間隙を、アクロバティックに飛び越えてゆく無賃乗車者を幾度も目にすることは珍しくない。
とはいえ、パリのメトロとその駅舎は、魔を秘めているように感じられてならない空間だった。パリメトロの魅力、それは「禁止」という言葉に潜む誘惑に似ていて、旅行者がもう二度と乗りたくはないという気持ちと、もう一度乗ってみたいという気持ちとを一度に味わうという点ではないか。「地下」の味わいが五臓六腑に染みこみ、記憶に刻まれたまま、どこかに居座っている、そんな魅力ではないか。
静かに時が流れていく、沈黙の地下空間にあって、一言告げられる駅名のアナウンス。その音声も、甘美なフランス語の響きとあいまって、メトロの美しい世界を織り成している。
例えば、エッフェル塔界隈の駅に「シャルル・ド・ゴール・エトワール」という名の駅がある。電車が駅に近づくと、この駅名が、女性の落ち着いた声音でそっと、簡素にアナウンスされるのだが、この、地下の沈黙が破られる瞬間にこみあげた歓びをよく覚えている。パリのメトロ空間は、音においても、官能的だった。
それに比べ、東京の地下は「地下」であることを消すことで必死のように見える。駅は広く、明るく、基本的に清潔で、構内には数多くの駅員が常住し、安心感があり、アナウンスは饒舌でひっきりなしに聞こえてくる。最近は、駅構内の柱やらホームドアにスクリーンが導入され、沈黙など存在していない。駅によっては、構内でうどんをすすり、カレーをほおばり、フレッシュなフルーツジュースまで堪能できるところもある。目の前に突然近づいたかと思うと、アコーディオンを演奏してお金をせびる手品師のような人と遭遇する可能性も、限りなく少ない。それでも自分は、どこかで、パリのメトロのような、まだ制圧されきっていない地下空間の味わいを羨ましく思う。「地下に降りてゆく」という体験も「地上へ戻る」という体験も、東京においては、その本来の味わいを実感しにくい。
だからこそ「光を吸い取る魔法のライター」の出番なのである。新御茶ノ水駅の、あの深いエスカレーターを上がったところで、ライターを開く。とたんに、魔法のライターが新御茶ノ水駅の光をことごとく吸い取る。地下空間に残るのは、底知れぬ闇とエスカレーターのひきつるような機械音だけであろう。あのエスカレーターを使うことにためらいを感じるだろう。そして日常的な体験の一歩後ろに潜む、地下の肉感を、マグル達は思い出すにちがいない。