フィールドワークとして生きる

村上陸人

ズラす、ぶっとばす


 先日、森元斎さんの『もう革命しかないもんね』(2021年、晶文社)を読んだ。面白かった。映画についての章があった。


「そう、映画やドラマは虚構ではある。しかしその一方で現実の中で作られた「現実」でもある。それと同時に、この「現実」が現実をフィードバックしていたりもする。パラドキシカルな状態ではあるが、虚構であるからこそ、この現実を鋭く照らし出すことになったりする。」


 映画の面白さがとてもよく言い表されている。虚構が現実を照らし出すさまをみる映画観に触発されたので、今回は最近観た映画をネタに書いてみたい。



やすらぎの森


 働くことに疲れたり、人付き合いに疲れたりすると、隠遁したいと思う。人里離れた、大自然のなかで、のんびりひっそりと暮らしたい。

 《やすらぎの森》は、そんな隠遁者を描いている。カナダのケベック州、山奥の湖畔に、三人の老人が住んでいる。ある日、絵描きのテッドが亡くなった。チャーリーとトムは、テッドのアトリエをそのままにしておく。彼らはテッドの絵に価値を感じていなかったのだが、テッド自身のことは尊敬していた。彼の尊厳のために、アトリエをそっとしておくことにしていた。そこに写真家が現れる。好奇心旺盛で詮索好きな写真家ラファエルは、テッドの絵を理解した。眠らせておくのはもったいない、テッドは絵で伝えたいことがあったのだ、是非展覧会をすべきだと言う。チャーリーとトムは猛反対。そりゃそうだ。テッドは自由を求めていた。誰にも干渉されないために山に籠もった。死んでから作品をひっぱり出されて見世物にされて、たまるもんか。どうせ他人の遺作で一儲けしようっていう魂胆なんだろ。断固反対。テッドをそっとしといてやれ。

 写真家も譲らない。アトリエを放置しろというが、それはあなた方のエゴだ。テッドは絵を通して苦悩を語っている。あんたらはテッドが何も語らなかったと言うが、彼の絵は言葉にできない苦悩の現れだ。誰にも受け取って欲しくないなら、表現活動なんてするはずがない。展覧会を開き、この土地の人が彼の声ならぬ声に寄り添う機会を設けるべきだ。彼の作品をここで腐らせるなんて許せない。

 隠遁老人チャーリーとトム、写真家ラファエルの意見の対立が興味深い。自由と干渉、無関心と愛の微妙な関係が浮き彫りになる。互いの自由を尊重すると言えば聞こえがいいかもしれないが、それは互いのことを放って置くことでもある。一方で、相手への興味関心に素直になると、相手に接近したくなる。しかしそれは詮索や干渉に繋がる。行き過ぎた愛は束縛となってしまう。コミュニケーションは、これらを両極にとった間を常に揺れ動いているように思う。少なくとも私にとってはそうだ。

 友人との距離の取り方で、相手を困らせたり、こちらが困ったりすることがよくある。たいてい、打ち解けあえる人とはどんどん仲良くなる。初対面だった人と、コンコンと話し込み、飲んで肩くんで意気投合、なんてこともある。お互いの考えに興味があり、一緒にいて苦でないので、自然と行動をともにする機会が増える。難しいのはここからだ。相手と過ごす時間が増えてくると、始めは気にならなかった点が気になりだす。経験が深まり、相手を見る視点が変わり、異なる気づきが得られてくる。快と思うことも、不快と思うこともある。不快な点を発見してしまったとき、私はたいてい相手との距離を広げようとする。距離を取れば不快を感じなくて済むし、不快感をあらわにして相手を傷つけることもないから。不干渉作戦と言っていい。これが問題になる。

 衝突を避けて急に取った距離は、相手を不安にする。ついこの間まであんなに親しげに話しかけてきていたやつが、ここ最近急によそよそしくなったな、何かあったのかな、何か気に触ることしたかな、俺あいつに嫌われたかな、といった具合に。これらの不安は放置されると、だんだんと確信になっていく。あいつは俺のこと嫌いになったに違いない。では俺もあいつに近づかないようにしよう。こうして、始めは想像のなかにあった疎遠な関係が、現実のものとなる。不干渉によって衝突が避けられたと思いきや、冷戦状態になってしまった。

 不干渉が関係性の溝を作ってしまうのなら、干渉したほうがいいのか。互いに関心を持ち続け、理解できない点、気に食わない点については徹底的に議論をし、完全な相互理解を目指すべきなのか。そんなの疲れてしまうので、絶対に嫌だ。