題未定

市村剛大

トイレ

2021年7月4日


御徒町駅で山手線をおりると、お腹がいたく用を足したいと思い、近くのビルを探した。

駅前のユニクロのビルは男性用のトイレと女性用のトイレが階ごとに交互に並んでおり、6階建てのビルの偶数階のトイレをすべてまわったがどうも大のほうは空いてない。

こんな大きなビルにこれしかトイレがないなんて頭がおかしいのか、もしトイレがあいていれば服の一枚でも買ってやってもよかったのにと考えながら

ビルを後にする。松坂屋のビルならトイレが多そうだと考えて向かいながら、本当にあのビルでトイレをしていた人はトイレが必要だったのだろうかと考える。

スマホを触って時間のあせりもなくトイレをしている人もいるだろうし、自分もそういうような意識でトイレに入ることがないわけではない。

だがそもそもトイレを使う権利というのは一番トイレが必要な人にあるのだろうか。少なくとも現実にはトイレに先に入った人が「トイレを使う権利」がある人であるし、そのことについて誰もが一定、認めているだろう。

他の物、例えばお金についても同じようなことが言えるだろうが、人類全体の幸福、のようなものを考えたときに「トイレの権利」のような当たり前に思われている権利の所在についても改めて考えてみなければならないなという気がしてきて、

松坂屋につき標識をみると、どうやら地下一階にトイレがあるらしい。しかし、行ってみるとそこも埋まっていた。これ以上歩くのには疲れ、仕方なくここで待つことにした。


待ちながら、トイレが本当に必要な人にトイレがわたる方法はあるだろうかと考えた。例えば使った時間だけお金がかかるトイレはどうだろうか。みんな余計なことは考えず、

トイレをしている間はいかにトイレを早く済ませるかということを考えるようになり、回転率が上がるだろう。ケチ臭いビルだと思われてしまうのが嫌なら5分後から有料とすればいい。

今の技術をもってすれば仰々しい装置がなくともQRコードか何かでうまいこと実装できるだろう。などと考えていると、使用中だったトイレからすっきりとしない顔の中年男性が出てきた。

この人もこんなことを考えながらこのトイレに入ったのだろうかと考えながら、トイレに入る。