『偏向』pre創刊号にむけての覚え書

責任編集者・白石火乃絵

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《手仕事》、『偏向』同人はもとより物書きではない、いわゆる初歩の初歩の書き手である。これは持続の初め、わたしたちにできたなら、未来の途方もない書き手たちへのバトンとなりうる―手から手へ、

多少の方向性のちがいはあれ、『偏向』は吉本隆明ら『試行』の後継たるにふさわしい手仕事を引き享ける。…このような性質からして、『偏向』は最低10 年はつづけられなくてはならない、―「同人誌は3号出ればよく行った方だ」と、火乃絵が私淑していた師―『試行』投稿者であり、その精神をひく『あぽりあ』編集人でもあった詩人・中村文昭にいわれたのを想いだす。

『偏向』同人との出遇いの時は10年を遡り、もう10年は反復である、各人が自らのライフワークに倦むことさえなければどうにかなる。―それがいちばんむつかしいのだが、とにかく始めてみるほかない、

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「習熟と持続」吉本隆明 より


 同人雑誌には、いつも強烈な愉しい体験がつきまとう。またそれがなければ同人誌は成り立たない。また何らかの理由で、同人誌が愉しくなくなったら、終刊のときだ。

 はじめのクラス雑誌は(「和楽路」という名)仲よしのクラスメートと放課後に教室にのこって、無限につづくお喋りをかわしながらガリをきり、刷り、束ねという作業をやるのが、授業よりも修学旅行よりも愉しかった。もちろんそれは内的な形成の場所でもあって、そこが魂の成長してゆく最大の場面だと感じられた。(…)

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「太郎への手紙 より」(『ちくま日本文学037岡本かの子』)岡本かの子 より


 だが私は思うのよ。製作の発表場所を与えられれば迷いながらも一つの仕事を完成する、そして世に問うてみ、自分に問うてみ、また次の計劃がその仕事を土台にして生れる。そしている内にともかく道程がだんだん延びて次の道程の道程をつくる―でなければいつまでたっても空間に石を投げるようにあてがつかない。無に無が次いでついにつみ上ぐべき土台の石一つも積むことは出来ない。

 手で働きながら心で考えることだ。(…)

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『ひきこもれ』吉本隆明 より


  一〇年続けることの意味

(…)なぜなら、どんな仕事でも、経験の蓄積がものを言うからです。持続ということは大事です。持続的に何かをして、その中で経験を積んでいくことが必要ないような職業は存在しません。ある日突然、何ものかになれるということはないということは、知っておいたほうがいい。

(…)

 逆に言うと、一〇年続ければどんな物書きでも何とかなります。毎日毎日、五分でも一〇分でもいいから机に向かって原稿用紙を広げる。そして書く。何も書けなかったとしても、とにかく原稿用紙の前に座ることはやる。それを一〇年やれば、その人は一〇〇パーセントものになります。

 これは、どんな仕事でも同じです。どんな頭のいいひとでも、毎日継続して「手を動かす」「手で考える」ということをしない限り、五年もすれば駄目になる。手を動かし、手で考えるとは、物書きの場合ならとにかく書き続けることであり、書けなくても毎日原稿用紙に向かうことです。文学者であろうと職人さんであろうとバイオリン弾きであろうと同じです。

(…)

(…)熟練した職業人になるには、少しゆるんでいて、いい加減なところがあって、でも持続力だけはある、というのがいいのです。

 のんびりやろうが、普通にやろうが、急いでやろうが、とにかく一〇年という持続性があれば、かならず職業として成立します。面白くても面白くなくても、コツコツやる。必死で頑張らなくたっていいのです。ひきこもっていてもいいし、アルバイトをやりながらでも何でもいいから、気がついた時から、興味のあることに関して「手を動かす」ということをやっておく。何はともあれ、熟練に向けて何かを始めるところにこぎつけてしまえばこっちのものです。

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書くということ


なんにせよ、天才はある。スポーツにせよ音楽にせよ世渡りにせよ詩にせよ恨むことにせよ。ただ、書くということにおいて、それはない。呼吸の天才や生き死にや愛することや孤独であることの天才がないように。


だから火乃絵は書くのが好きだ。

でもそうでないときの方が多かった…とおもう。だって、自分の書いたものを読むと、こんなもんじゃないのにな、といつでもおもえたから。とくべつだとおもえたなにかの感情や経験が、書いたとたん、紙のそとに遁げていってしまうかのように。はじめからそんなものなかったんだ、という声と、いやそうじゃなくて…というため息とがもつれからまり、書くんじやなかったとおもうのだ。それもみんな、書くということに天才がないことにゆらいする。


詩に天才はあるといった。そのとき、火乃絵はランボォを念とうにおいていた…らしい。詩の書きかたがわかるからといって詩人であるというわけではない。詩人であるからといってすぐ詩が書けるということにはならない、…といいたいところだが、「かれが詩人であるならその書いたものはすなはち詩である」はおそらくほんとうだ。ただ他に挙げたものと異なるのは、まことに勲し多けれど、しかも人はこの地上に於いては詩人として住まう、ということである。詩人であるとは自己自身であるということにほかならず、それは資質にかかわりない。


わたしたちは自己自身であることが、日に日にむづかしくなっている。それはわたしたちの落度といえない。銅があるときラッパになっているのに気づいたとて、それは銅の責任ではない、ただ、銅が銅に還へるのは、銅の努力によるほかない。

ラッパは銅でできているじゃないか、それでなぐさめになった時代もあったがしかし、わたしたちの現代にあって、まことにラッパはラッパいがいのなにものでもない。銅であることによってラッパのねいろを出すことはできても、ラッパであることによって銅であることはできないのだ。ラッパのねいろは銅の嘆きである。たといそれがいかに美くしくとも。―


なぜほかにもまして書くということはこうも続かないのだろう。それは読み書きを習ったひとであれば、たれでも書くことができるからだ(それはほんらい稀有なことなのに)。では話すことは? それは書くこと以上にありふれている。おしゃべりばかりは、人類が滅亡してもなお続いていきそうないきおいである。書くにはかならず手をつかう。口を手で塞ぐことはできても、手を口でしばることはできない。誘拐犯はまず口を塞いでから手を縛る。たといそのあとで手をしばったまま、口をきかせるにしても。


つまり、手は口以上に、人間の自由にかかわるということだ。それは人に手やすいが、奪うのには時間がかかる。声は奪えても、書く手をおさえるのはそう簡単にいかない。いちど手をおさえたなら、口など返上してかまわないのである。


ひとは自由を叫ぶが、いざものにすると、手に余る。けっか、たとい手にしていても行使しようとしない。あまりにありふれているからだ。いやむしろ恐れている、不自由をのぞんでいる。しかし、かなしいかな、あまりに多くの人にその自由はいつでも与えられている。あらゆる権利に先立って、そのようなものを必要ともせずに。―


人間は火を手に入れたことで文明を得た。そのとき、多くのものを得ると同時に失った。奪う者がまた奪われるように。だから文字は発明した。けっして奪わせないように。そのために声がぎせいになった。

蘇るために。


人は自由をえらばないために、天才を発明した。

天才がなぐさめであった時代は去った。

藝術といふことばも、破棄されねばなるまい。―


口ばかりが幅を利かせる口も利けない世紀(とき)だから、

わたしたちは黙つて手を動かせる、その口を永久に

塞いでしまふため。


考えることなんかやめにして、ひたすらに手を動かせる。

お宮はさうして築かれる。千年を三日で。


「なんと手ばかりが幅を利かせる世紀だらう!」

それでいいのだ、

およそ職業と名のつくものはやりきれない!

だからわたしたちはりつぱな内職人にならう。―