あの古き黒魔術(That Old Black Magic)
Side B 「Black Magic Woman」
死期が迫るまで、リイ・ブラケットは手を休めず、西部劇、犯罪もの、SF作品を書き続けた。『スリリング・ワンダー・ストーリー』誌の一九四九年六月号には、手に汗握る「火星の海王たち」が掲載されたが、これは改題して彼女のベストの一冊『リアノンの魔剣』となった。この物語を読むと、ルーカスがスター・ウォーズの続篇のシナリオに彼女の才能を欲しがった理由がわかる。太陽系の時空を渡りながらも、まるで土曜のマチネの西部劇シリーズのような、身近な興奮を呼び起こすのだ。火星の隠れた洞窟を捜索する主人公のマット・カースには、ちょっとインディ・ジョーンズを思わせるところもある。洞窟にはリアノン神という火星の神が幽閉されている。何千年も前、最新兵器を含む先端技術を、昔の火星の種族に与えた罪で、他の神々によって閉じ込められたのだ。
SFに、クラークの三法則というのがあって、その三番目に「十分に発達したテクノロジーは魔法と見分けがつかない」とある。アーサー・C・クラークがそれを言い出す前に、ブラケットはこう書いていた──「無知の者には魔術でも……高度な知性にとっては単純な科学」と。リアノンの授け物は、マット・カースの生まれた時代ではありきたりなものでも、テクノロジーの未開の過去においては奇跡の魔法に見えるのである。
しかしこの世には、いくら知識が進んでも、神秘のヴェールが剥がれない領域もある。音楽もその一つで、知識をつけるほど理解は遠のくとさえいいたくなる。二人の人間がいて、一人は対位法の理論をガッチリ学んでおり、もう一人は悲しいうたを聞いて涙を流している。さて、音楽をよりよく理解しているのはどちらだろう?
E・B・ホワイトがユーモアに関して述べたことは、音楽にも当てはまる。ユーモアを分析するのはカエルを解剖するようなもので、関心を持つ人などごくわずかしかいない上に、当のカエルを殺してしまう。それでも人は分析に走るのを止めない。事実と法則、規則と構造を振りかざし、その結果、音楽から発見の喜びを奪い取り、メロディの魔法を吸い尽くしてしまうのだ。
同じことは歌詞についてもいえる。ティンパンアレーで作られた作品の品質を疑うような発言がしばしば聞かれるが、これはどうなのだろう。いつもやり玉に挙がるのは、ムーン/ジューン/スプーンの脚韻の単純さ、加えて構成の単純さ。たしかに歌集のページを見ても、あまりにスカスカで、これのどこにソングがあるのかと疑いたくなるのはわかる。
しかし忘れてならないことがある。うたの歌詞は目で見るものではなく、耳で聞くべく書かれた。喜劇の舞台にしても同じだろう。なんの変哲もないセンテンスが、演じられることで魔法のように笑いを巻き起こす。歌詞もまた音楽に乗ることで説明できない何かが起きるのだ。奇跡は合体の妙にある。
スイス人技師のジョルジュ・ドゥ・メストラルが面ファスナーを発明したきっかけは(ちなみに火乃絵のニューヨークの大叔母夫婦は形状記憶繊維の発明特許をもっている)、ある日狩りから戻ってきて、ウールのコートと犬の毛に何千ものひっつき虫──昨年の晩夏に、西日本を旅していたとき、大阪で世話になっていた友人から教えてもらった、というより知らなかったことで笑われた。「ひっつき虫がついている人はぜったいオシャレやない」(東京城南育ちの火乃絵には寝耳に水だった)──がついていたことに興味を抱いたことだそうだ。音楽もそれに似て、記憶と感情の無数の突起にしつこく貼り付くものだ。作詞には詩論が、作曲には数学があって、ともに何千もの規則をもってソングを仕切っているけれども、それらは単なるガイドラインだ。それにただ従って、塗り絵よろしく輪郭の内側に色づけしているだけではだめだ。真に永続するソングを、小手先の技術で生み出すことはできない──火乃絵が書くのは詩だが。
Got a black magic woman
Got a black magic woman
I've got a black magic woman
Got me so blind, I can't see
That she's a black magic woman
She's trying to make a devil outta me
Don't turn your back on me, baby
Don't turn your back on me, baby
Yes, dont turn your back on me, baby
Stop messing 'round with your tricks
Don't turn your back on me, baby
You just might pick up my magic sticks
Got your spell on me, baby
You got your spell on me, baby
Yes, you got your spell on me, baby
Turning my heart into stone
I need you so bad, magic woman
I can't leave you alone
〈ブラック・マジック・ウーマン〉(ピーター・グリーン作曲、サンタナ『天の守護神』収録版)がいい例になる。これはブルースだろうか。専門家たちは、他の影響源について、いろいろ話して聞かせてくれるだろう。脚注に他のアーティストの名を挙げ、他のうたの引用を載せてくれるだろう。音楽の構成について専門家向けの学識をたんまり身につけた者は、テンポの変化や、その他の技法について声を大にして語ってくれる。ハンマリング・オンについて、さまざまなハーモニック・スケールでの借用和音について、ハンガリー風ポリリズムからラテン・ポリリズムへのシフトについて。だがそこには何一つ、ソングのハートに刺さる話はない。
この歌詞も、文字として見る限り、感心できたものではない。六行からなるヴァースが三つ。そのうち二つでは同じ行が四回繰り返されて、三つめでは三回くり返される。だがそこに音楽(https://youtu.be/9wT1s96JIb0←これが音楽ではないぞ‼)が加わると、その合体から催眠術のような、狂詩曲のような、神秘的であると共に電文のように直接的な効果が生まれる。偉大な絵画作品のような奥行きが生まれる。出会うたびに、前より深いところから意味が照らし出され、繰り返し考えさせられることになる。
この詞をただ棒読みし、そこに何の深みもないことをあげつらう自称社会評論家(或は、批評する詩人)諸氏は、おのれの限界をさらけだしているのだ。彼らの無益さは、レニー・ブルースの漫談を書き取ったものを、猥褻裁判の法廷で棒読みする検事に通じる。レニーのスタンダップ芸から飛び散る火花が検事さんの目に見えていないのと同様、リリックスが音楽と一体化するときの魔法が聞き取ることができないのだ。
ところで、お気づきの方もいるだろうが、冒頭からずっとボブ・ディランの近著『ソングの哲学』(岩波書店、佐藤良明訳)を、火乃絵が筆写している。フェアなやり方ではないが、偉いひとの文章と知らずに読んでほしかった。レニー・ブルースは引用者自身、ディランやジミヘンを通して知っているのみで、いまだに言語と文化背景の壁を超えられていない。日本人なら、澁澤龍彦が60年代を通して巻き込まれたサド裁判を思い起こすといい(今からはおよそ考えられぬかもしれないが、マルキ・ド・サドの翻訳を世に出したことにつき、最高裁判所は以下の最終判決を下した「……芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはなんらさしつかえのないものと解せられる。もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない」判決趣旨、Wikipediaより)。だが、レニーの場合、仕事を失い、住居を差し押さえられ、死に至っている──むしろ、現代のわたしたちは度を越した誹謗中傷という名の透明な集団私刑による最も卑劣な殺人を思い浮かべようか──それも、レニーの話芸とことばの不滅のスピリットの前では、もはやたいした話ではないのだろう。
その一体化の妙を、ケミストリー(化学)と呼んでもいい。が、それだとあまりに科学的で、再現可能のように響く。歌詞とミュージックが一緒になって起こることは、むしろアルケミー(錬金術)に近い。化学誕生以前の、もっとワイルドでディシプリンが利かなかった術。メタルを黄金に帰るのだとか無茶をいって、見込みのない実験に取り組み、失敗を繰り返していた。音楽をサイエンスに作り変えようと試みるのもいいが、サイエンスでは一足す一が二にしかならない。音楽は、繰り返し教えてくれる。すべての芸術が──恋愛術も──教えてくれる。条件さえ整うなら、一足す一は三になるのだと。
Side A 「That Old Black Magic」
思想家は必ずしも良い教師であるとはかぎらない、たほう藝術家はその名のごとくアーティストつまり技術家であるので、口下手あるいは絶望的なほどに寡黙であったとしても、おうおうにしてよき先生となることがある、というのがわたしの考えだ。
いうまでもなく思想家にしてよき師であることは、かの有名な中東の古文書に稀有な前例がある、もしかしたら一人の有名人も輩出しているわけではないが、むしろそれゆえに花巻農学校時代の宮沢賢治もそうだったかもしれない、「告別」という詩を読むかぎりそうだ。いっぽうで、クラシック音楽には優れた指揮者・演奏家でありながら、花を枯らしてしまう悪しき教師が多いともきく。
その悪しき教師というものを見抜くのは、そうむずかしくない(火乃絵のばあいかなりの苦闘を要したが)。すなはち、その人物は必ずや教え子に近道をさせようとする。それは、自らが歩いたあの不毛の土地を弟子には歩かせまいとする、気遣いの店構えをした巧妙な詐欺なのだ。マルチ商法のごとく、彼は自らの犯罪に気づいていない。記憶と欲望とをないまぜに、自身で叶えることのできない(と考えている)夢の実現をねがっている。
ゆえにそれは必ずや失敗する。神さまが人間にお与えになるのは、その人の仕事であって、これをエゴによって他人に押し付けることは許されない。徴候はある、それを見てみぬふりをする、これを罪といおう。
ほんとうの教師は天上に坐す父だけだといって、自らが先生と弟子に呼ばれることをきらったイエスは、日々どころか、人生そのものを捧げよという。人間にはそうする自由があるのだというころを身をもって示された。十二人の弟子たちはことごとく師を裏切るが、ああ、これこそが真の教育でなくてなんであろう!
教え上手といえば、ジョン・コルトレーンがセロニアス・モンクのもとでコツを摑んだことはよく知られている。それはこの僧が、キリストとはちがうやり方で、近道ではなく、大道の存在を音で示したからに違いない──Key to the Highwayを。
近道をさせようとすると弟子はダメになるという気づきへの遠回りをぞんぶんにさせてくれたかつての師を火乃絵は恨んでいるわけではない。おかげで、いまとなっては、たくさんの良い教師をみつけることができるようになった。
ほんとうの教師は天上に坐す父だけだ、というキリストの言葉は、無限の意味を生みながら、たったひとつのことを言っている。どんな教師の言葉にも、そこにある真実を見出だすのは、弟子自身でしかないということ。この身を授けてくれたのは神さまなのだから。
ハイウェイへの鍵はそこにある。痛手という名の永遠の記録指針。上に行く道もあれば、下に降る坂もある。女のように黒魔術で誘惑し、拒むものはひきずり込む。
魔女的なその女はホームレスで、独自の世界観をもつ、進歩的な女性だ。若く、気難しく、歪んでいる。グローバル。ヴィレッジのどこからともなくやってきて、文化と伝統を壊し、ものの独自性も神格性も根こそぎにする。その陰唇はネズミ取りのように素早く嚙み、相手の体に雌牛の糞をなすりつける。この女は本物のキラーであって、その姿は、まともな人間に疑念と恐怖を呼び起こさずにはいない。「時計も針を止める」と言われるほどの醜女の上に、愛想もない。ウィッグを被り、目を飾り立て、身を宝石と化粧で覆う。Tシャツ、短パン、ヒップブーツ、毛皮のコートに丸眼鏡──髪はスレートの墨色にして、唇は高級ワインの色──中指の先を親指と摺り合わせると火花が散る。
この女を揺り動かそうとしても無理だ。興奮剤と鎮静剤、混合薬物、水酸化ステロイド、それともゴールド・ヘロイン──何かは知らぬが、きみはクスリに溺れ、死のオーラを発している。目は血の色に、肌は赤カブ色にされてしまった。鼻でものを見て、舌で臭いを嗅ぐという古代のカエルがいるそうだが、彼女の正体はそれかもしれない──人を手玉にとる、きみのことをおたんちん、片目のウィリー、ハンプティ・ダンプティと呼ぶ。
感情を激変させるこの女に、きみは神聖で純粋な生のすべてを抜き取られ、すっかり子供に戻った。胡椒のように辛く、腐った味がするこの女は、きみを内なる魔物の虜にした。
兄弟に警告する。気を緩めるな。きみも以前はダイヤモンドの原石だったろう。心も手も汚れていなかったろう──それが今じゃ、自分を吹聴するだけの、道義も失せた、無価値で性悪なやつになってしまった──地を這う虫けら同然にされたんだ。そこまでされてこの先、生き延びていくチャンスはあるのか。マナーに反するとか言ってる場合じゃない。礼儀など顧みずに、ライオンの衣を被れ。そうだ、ブラック・マジック・ウーマンこそ理想の女──デーモンたちを呼び寄せ、霊降会を催し、重力に逆らって浮遊し、冥界との交わりに熟達して死者との乱行の儀式を執り行い、幽体離脱を繰り返す。そんな暗黒の力をもつ生き物をきみは独り占めしている。
さらけ出した胸にあ青い血管が走る──背は低く、力は強く、顔は醜い。きみの力は彼女から得ている、彼女なしには何をする力もない──影の御手か、玉座の背後霊か。ブラックパワー、フラワーパワー、ソーラーパワー、何と呼ぶにせよ、とにかくカリスマがある。彼女は夢の織り糸であって、きみの意識の内側に入ってこられる。みんながきみに借りをつくり、きみに頼るように仕向ける、そんなバッドな妖精、イーヴルな霊が彼女だ。きみを狼男に変え、角を与え、先の割れた蹄を与える。それ意外のオプションはきみにない。
おかげでリッチになれた。怖れられる富豪になった。危ない動きは未然に食い止めてくれる、きみの守護神。敵には不吉な贈り物をし、ライバルにも魔法をかけ、敵対者の精をくじき、きみに歯向かう者の生気を失わせる。徹底的に打ちのめし、死の願望を叶えてあげる。
彼女は目も眩むほどのエネルギーで、きみを生命の源から切り離し、生まれつきの魂をアドビ煉瓦の壁で囲ってから、さらに強化コンクリートで覆って封じ込めた。なんと不思議な、驚異の女。百万人に一人もいるか。ミリタリー・コートをはおり、セーラースーツを着込んで彼女はきみの上に立つ──胸はかっちりリフトアップし、頭上にレースの婦人帽を被り、黒ヘビの牛追い鞭を手にして。きみは彼女のベルボーイ、完全な下僕だ。ダブルのジャケットに固い襟のイブニング・シャツ、ポケットにはスリーピークスのハンカチーフを差して。彼女は頭が切れ、教養も学識もある。ときどききみには、彼女が自分の命を奪う計画を練っていると思えたりもする。それを自分の思い過ごしと感じるときもある。
彼女の声が耐えられない──うなるような低音とキンキンする高音、歌う声は雌牛か鳥か、馬のいななき、はたまた犬の吠える声か。生まれは高貴、ブルーの血筋。彼女には徴候が読める。きみは何でも占ってもらう。中でも商売に関すること。彼女はいつも、きみの得になるようには計らってくれる──前夜の真夜中に呪いを掛けるのか。きみが倒した的の臓物を彼女は食らう。彼女の外皮をめくると、中に獣の頭が見える。
彼女は無敵の雄々しい女、きみのスパイダー・ウーマンにして腰ふりふりのクイーンだ。人を頂点にまつり上げる──どんな高みにもきみは昇れる。彼女にとってヒーローの原型がきみだ。一途な異性愛者、帝王のごとき存在。でももう盛りを過ぎたのか。スクラップの山にきみは捨てられようとしている。うやうやしく帽子を手にし──ひざまずき、懇願する、捨てないでくれと乞い願う。情けというものはないのか、どうして愛してくれないんだ。愛する? このわたしが? がんばって愛させてみたら?
この状況を動かすのは難しい。邪教の香りがいっぱいで、彼女のキスには辛酸な匂いがある。だがきみはラッキーだった。落ちた肥溜めから体中に金貨をつけて上がってきた。梯子を登り、昇給を重ね、成功の軌道を外れず、書かれた通りの定石に従ってきた。
パグのような獅子鼻で、しかめ面して、外見は小さい彼女だが、実は大きい。威丈高だ。イエロー・ブロンドの髪は肩まで垂れ、常に裸足で、慈悲深い目は黄色い中に黒の瞳を収めている。掌を上に向けた右腕が、前に伸びる。
きみがきみである限り、彼女はひかれて寄ってくる。いつもきみのサイキックなフィールドの前や後に身を置いて。ときどききみの上に倒れ込みゆるりと体を捻るのだが、それは歓喜のためか苦痛のためか、善のためか悪のためか。きみのやることに文句をつけるものがみな倒される、その力は彼女に発する、きみは彼女を手放せない。指の間からブラック・マジック・ウーマンが抜け落ちるのを黙って見ているわけにはいかない。失ったら負けだ、破滅だ、無一文になって逐われるしかない。
〽︎そして僕は下へ下へと落ちていき
ぐるぐる、ひらひらと回るのさ
その回転の中で、その回転を愛しながら…
〈了〉