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わたし、白石火乃絵が責任編集している「偏向」は、同人全員が一九九五年度の生まれである。雑誌をつくるにあたって、中学・高校の同級生に声をかけた。卒業以来、交流のなかった同人も少くない。「あいつ今何考えて生きてるんだろう? ちょっと気になるぜ」だったら、同人誌を作って毎月書いてもらうことにしよう、あわよくばこれをきっかけに、また遊べたらなおよい──そんな考えだった。
いや、ほんとうはもう少し野心がかっていたかもしれない。創刊準備6月号に書いたが、吉本隆明の「試行」のような雑誌が、ない──〝んだったら自分で作ればいいのよ!〟という涼宮ハルヒの声が春一番のごとく吹きまくった。
人を巻き込むにあたって、大学の文芸学科時代の友人(詩や短歌をやってる人、ロックミュージシャン、小説書きetc.)もいたが、あえて中学・高校の旧友たちに声をかけたのは、気心が知れているといったら、前の人たちに悪いが、そうではなく、うーむ、わたしにありがちな「天才性の発露」といったらより悪い──まあ悪人にはちがいなかろうから、それでけっこうなのだが。ようするに、世代感情を共有しているということが一番大きい──まてまて、詩人は孤独が資本なのだから、世代といって、マスに淫するのは命取りなのでは?──と気になったひと。そうだ、火乃絵にしても、同世代からさえ孤立していないとはいいきれない。根っからのオトナ嫌いで、年上とは上手くやれない。年下は可愛いが、どこか信用しきれない──それと比べたら、同世代とは、まだ分かり合えるところがある。
たとえば、東日本大震災を、15で経験(被災でなくとも)するのと、28でと、4でするのとでは、肌感覚が異なろうというものだ。いやいや、感じ方なんて人の数だけあるのだから、ここに世代を持ち込むのはおかしいって?──きみは正しい。そんなのはハナから学校制度(という名の擬態した軍隊制度)に基づいた、必然のからくりの檻の中で生じた偶然性にすぎまいて。山手線の車内でたまたま居合わせた人たちと仲良くするなんてムリだろ?って甲本ヒロトもいってるじゃないか。同期との友情なんか、そんなのお茶の間の池井戸潤原作リベンジドラマのネタにしかならないぜ。それのどこに詩があるってんだい。
だけどよ、ぶっちゃけ、同い年と聞いてちょっとうれしくなっちゃったことはないか?初対面でも、ちょっと気が緩んでしまうような、腹の闇の安心感──おっと、これさえも〈一九九五〉特有の世代感情かもしれない! どっからどこまでが自分の気持ちで、どこから先が世代感情なのか、この線引きはちょっと至難だ。べつに世代感情だけの話じゃない、国民感情、民族感情──おっつ、これより先は、ジェンダーに人種と、あっちもこっちも地雷ばかり。なんでこの星はこんなに歩きにくくなっちゃったんだろ? ボーダーレスはこわいこわい、気づかないうちにパンッだもんね。
だからとは言わないが、あると思える感情は、どんなものであれ、いい悪い言うまえにまずは認めてしまった方がいい。そもそも感情に正しさとか他人の判断とか、這入り込みようがない。嫉妬や憎悪だって立派なエナジイだろう。問題なのはそれをどう手懐けるかなんで──ようするに、世代感情は存在する。
誰も、言葉において、自分の世代を、いや自分以外の何ものも代表することなどできないが、だが、その世代の一員であることからは免れない! おおなんたる不幸、なんたる不自由、なんたる不条理、そしてそのことの、おお、なんたる幸福、慰めであることか!きっと天国があるとすれば、まずは自分の世代の集ってるところへ行き、ひととおり挨拶抱擁のおわったあとで、世代間交流をしていくことになるだろう(どういうわけか、火乃絵の想像では、肉親は最後からひとつ手前にくることになっている)──お気づきになった方もおられるだろうが、そう、この人の考えでは、天国なるものはこの地上に地理的に存在している、地獄と同様に──出掛けずともよい。
それにしても詩的でありすぎたか? いや、世代感情──これは一個のポエジイなのだ。危険きわまりなく、まったくの無害でもある。プラトンの国家はこれを不気味がる。さんピン世代、めちゃイケ世代、Tohji世代、青春パンク世代(ブルーハーツはすでに世代を越えている)、失われた世代、ビートジェネレーション、空白ジェネレーション、まだ詩になりおおせていないのでは、団塊〝金の卵〟世代、団塊ジュニア、ゆとり世代、さとり世代、Z世代(なぜなら、外側から与えられたまま、内部より翻せていないから──影響を受けたものの名を冠さないもののうち、もとは悪口や嘲りとして外から言われたことを戴冠したケースが多い)などなど。世代は常に何かを表現している、過ぎてゆくこの世でしかも不滅に近い何かを。自然時間を追い抜いたテクノロジー発達のスピード、大量生産をさえ追い越すいきおいで加速する消費速度、それにともなうかのようにもはや一年区切りで世代に名がつく。が、同い年を別の世代名詞で呼ぶにはまだ至っていない、学校制度が壊されないかぎり──個々人が、完全にパラレルでバーチャルな時間を暮らし始めないかぎりは。社会という言葉は、場所さえあれば形成される、さらには、時空を股にかけたウルトラモーダンソサエティ、新たな縄文時代の始まり、星雲間に丸木舟をだせ! 世代の話をしよう、銀河団ブルーズを語るみたく。せ、世代感情、そ、それは、吃りの、個人より以上に抑圧された原始宇宙感覚──母胎よりはるか遡る大受難、Vairocanaホラーの深淵の穴、神の花。
世代の使命はその反復と表現にある。
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世代は必ずや他の世代から孤立する。上の世代からは不気味がられ(その反動から軽蔑と不審と嘲笑を買う)、下の世代からはつねに老害と目される。ときには上からも下からもあこがれの的となることがある、黄金世代──その孤立はなおいっそう際立って見える。
世代が他の世代からのあてこすりを翻すごとく、個人は自らが属する世代を翻す。超出は、なおその世代を表現する。個人が超出しようとするとき、必ずや自らの世代を超出する他ない。なぜ、個人は超出しようとするか。いや個人が超出の試みの中にある時のみ、個人は個人であるのだ。世代はそのときスプリング・ボードであり、かつ青空の原器である。
超出と超越とはまた別者である。超越はハナから超越しているという超越の態度をとり、微笑よりほかの表情を知らない。超出すると超越しているでは、品詞が異なる。超出の結果、越えているという姿態になるが、超越は、越えるということすらすでに超えている。個人の彼岸であるからには、世代の果てでもある。SNS世代にはほとんど理解の及ばない、徹底した無名以上の無名、ひとびとのうちに映像として留まることさえ耐え難いと感じる。
超出は世代の願望の対象となるが、超越は一個の謎である。超越が世代とともに歩むことはある。しかしどこへも導きはしない。しばしば超越はもっとも低俗なスキャンダルのさなかにもある。心あるひとが問うてみれば答えることもあるかもしれない、「泥まみれになってみなけりゃ、顔を洗う快楽も出てこないサ」。彼女は青空よりも少し無知でいるコツをそれとはなしに知っている。超出は自らが何も知らないことさえ知らない。彼にとって無意識はその生の対象である。超越にとって無意識とはただそこに生きるものだ。