その1
五年ほど前のことだったと思う。父方の大伯父にあたる人が、本を私家出版していたことを知った。世間に出回っている本ではないという。祖父母の家に行けば、もしかしたらその本があるかもしれない、そう父から教えられて、ぼくはその本を求めに、大船にある祖母の家に向かった。
祖母の家に、ほとんど手垢のつかぬまま、その本は置いてあった。薄緑の豪華な装丁の二巻本で、思っていたよりずっと重みのある厚い本だった。親族のほとんどが読んでいないということで、それを譲りうけることとなった。
大伯父、原秀雄が著した『さよならブック シンフォニック・エッセイ』は雑文集で、老年をむかえた秀雄さんが、徒然なるままに、あれやこれや語っているエッセイであった。
所々齧りつつ、読みとおしたわけではない。それでも、縁を感じる秀雄さんと、このエッセイについて、書いてみようと思ったのは、偏向がきっかけとなった。同人の市村が書いていた駒ケ根の話、R・M が書いていた豊橋の話。どちらの地名も、このエッセイ集に登場する。大伯父秀雄は、長野県の伊那谷で幼少期を過ごしており、駒ケ根はすぐ北に位置する。駒ケ根で小学校の同窓会を開いたとも、エッセイには書かれていた。豊橋は、秀雄さんが十代の何年間かをすごした、思い出の場所であった。(青春といっても戦争前夜のころではあるが)多くの縁を感じつつ、これまで心にあたためていたことを、友人たちとの交流を通じて、はじめて言葉にしてみたいと思うようになった。こうした刺戟をうけたことに感謝している。また、祖先、その家族の生きざまに想いを馳せ、書くというこの試みが、ぼくが受けたように何かの新しいきっかけとなって、同人の活動にかかわれば嬉しい。
『シンフォニック・エッセイ』を知る前から、大伯父秀雄のことは耳にしており、漠然と、その人柄に心惹かれていた。一九二二年生まれで、ぼくが物心ついた前後に亡くなったらしい。ぼくの祖父も、ぼくが物心つく前に亡くなってしまったから、秀雄さんのことを知るたよりは、父の話である。祖父は三人兄弟の末っ子で、秀雄さんは長男であること。三人兄弟はさいごまで仲がよく、秀雄さんのことを、祖父も最後まで「兄貴」と言って慕っていたこと。秀雄さんが温厚で立派な人格を持った人だったこと、私の父も秀雄さんの家に遊びにいったことがあり、感情を荒げるような様子を見たことが無いということ、そうした人柄を親族の多くが慕っていたこと。けれど、これだけではない。こうした人格にもかかわらず、親族から、秀雄さんは変わり者とみなされていた。付き合っていると突然、理解しがたい言動のようなものがでてくる、そんなふうに身近な人々は感じていたそうだ。老後の私家出版のこのエッセイ集にしてもそう。祖父は秀雄さんのことを尊敬していたから、このエッセイを「兄貴のものなら、俺は読む」と父に語っていたそうだが、本には読んだ痕跡がほとんどないし、この本の内容について祖父が父に語ったこともないらしい。思うに、祖父以外の親族は、手にもとっていないのではないか。
よく聞かされたのは、こんな話だ。秀雄さんが自宅を戸塚の深谷に構えた時、祖父によく語っていたことがあった。「利雄(祖父の名前)、俺の家の風呂からは、富士山が見えるんだ。風呂から富士山が見えるところに住みたいと、ずっと思ってたんだ。風呂から富士山がみえるなんて、いいだろ。」祖父は秀雄さんの家に寄った折にいったそうだ。「兄貴は、いつも、風呂から富士が見える、見えるっていって、くだらんことでよろこんでるんだよ。」富士山が家から見えるから、そこに家を建てたそうだ。
この戸塚の自宅はまた、職場でもあったらしい。エッセイから分かったことなのだが、秀雄さんは一九五二年、三十歳の時に第四期司法修習生となり、翌年より、検事となった。各地を転々とし、十二年と少し働いたのだが、突然検事の職を辞し、弁護士になる。それも、いわゆる大手企業などを相手にするような弁護士でもなく、特殊な専門領域を開拓するような弁護士でもない。町の市民むけの事務所にいるような弁護士といってもやや、語弊がある。秀雄さんは、戸塚深谷の自宅を自宅兼事務所とし、秀雄さんとお手伝いの細君だけが働くような、零細事務所を営むようになる。生活するので精一杯の収入しかなかった。立地としても、戸塚の中心からは離れており、ほとんど近隣の人々を相手にした商売だったのだろう。稼ぐ気は、毛頭ない。この話も、父がよく話くれたことなのだが、親族にとっても、どこか腑に落ちない転職だったことは、推察できる。職業人生として脂がのりはじる頃、(職業的には極めて実直な勤務ぶりで、外から見るとなんら陰りは見えない)四十半ばで隠居すること…。
大伯父秀雄の話で、もう一つ忘れられない話がある。交通事故で、子どもをなくしたというのである。しかも、別々に、二人なくしているのだった。父にとっては二人とも、いとこだ。だからぼく自身、乗り物のことについては口酸っぱくいわれ続けてきたし、折にふれて、二人の話を聴いた。ただ、若かったこともあって、ぼく自身、そのいとこ二人について思いを馳せることはあっても、その子をなくした家族の、大伯父の心を思ってみたことはほとんどなかったと思う。子どもを持つくらいの年齢になってはじめて、秀雄さんにとって、この出来事が何をもたらしたのか、想像することができるようになったように思う。
断片断片で聴いてきた、これら秀雄さんにまつわる話は、自分が人生を経験していくなかで、少しずつ相互のむすびつきを持つようになった。どこか心惹かれるものがあり、もっとこの人のことを知りたいと思いはじめて、そんなこんなで父から色々な話を聞き取る中、『シンフォニック・エッセイ」に出逢った。『シンフォニック・エッセイ』に書かれていることは、何か、訴えるものがある。共鳴できるところがある。その共鳴によって、もう今は死んでしまったこの人を想像することができる。秀雄さんにとって大切だった書物が、血のつながった自分にとっても大切な書物であった。すると、その書物や作家への気持ちも変わって来る。秀雄さんにとってかけがえのない場所を知り、ぼくにもその土地との縁が生まれる。秀雄さんだけではない。秀雄さんの父や祖父、つまりぼくの三世代、四世代前の祖先を、肌感覚で知る機会を与えていただいた。立派に見える人ばかりではない。家族にはいろんな奴がいる。家族の歴史は、それだけで、物語のように見えることを知った。
二十代後半になって、感じる。すべてがほんとうに、ちょっとずつ、移り変わっていく。この数年は特に、すさまじい。好きな人も、好きなものも、好きなお店も、好きな街も、移り変わっていく。少しずつ、でも着実に。自然は転々としてやまない。その中で、ぼくが忘れてしまえば、もう二度と誰も知らないまま、過ぎ去ってゆくであろう瞬間、そのものやその人に固有な瞬間というものがある。そして、ぼくすらも、知らぬ間に、その記憶から遠ざかり始める。「歴史とは、自然に対する愛の抗議である」(ミシュレ)。書くことでもいい、語ることでもいい、どういう形でもいいのだけれど。何もしなければ、消え去ってゆく、消されていく。そこに抵抗したい、その心から歴史の営みは始まっているのだと思っている。
※ロラン・バルト『明るい部屋』の孫引き。この本は、同人の益田と白石から勧めてもらい、手に取った写真論の本