猫の目

益田伊織

 ジャカルタに行ってきた。暑かったでしょう、と人に言われ、最高気温は三十二度くらいですから、暑い日の東京の方が気温は高いです、と返したら驚いたような顔をされた。インドネシアの首都に対して多くの人は、暑いところ、というイメージをもつものらしい。

 ジャカルタはむしろ、道路を行き来する無数の車、それにバイクによって特徴づけられる都市だ。歩行者用の横断歩道はほとんどなく、道路を渡ろうと思うときは、走ってくるバイクに向けて手をかざしながら──そんな身振りに意味があるのかは分からないが──速足で横断する。近くに渡ろうとしている人がいるならより簡単で、その人を挟んで車が来るのと反対側にポジションをとり、その人が渡るのに合わせて小走りする。中央分離帯にまで到達したら、今度は先ほどとは逆の側に立ち、またしてもその人を盾に横断する。現地の人には呆れられているのかもしれないが、温室育ちの日本人のこととて大目に見てもらおう。

 バイクやタクシーには昔は観光客狙いのぼったくりが多かったらしいが、アプリの普及とともにそんなことも減ったようだ。東南アジアでは広く普及しているというアプリ・Grabでは、乗車場所と降車場所を入力すると価格が表示されるため、価格に納得がいく場合のみ配車の手続きに進むことになる(高速道路代などがかかった場合のみ後で追加されることもある)。きわめて透明な仕組みだ。しかも大都市ジャカルタで利用した限りでは、配車を行ってから一〇分と待たされることがない。とても便利なので、日本より一回りは安い運賃のためもあり、しばしば利用する機会があった。

 かくしてジャカルタは、自動車とバイクのスケールで構築された都市である、と言えるだろう。ジャカルタ中心部にいくつも見られる巨大なショッピングモールの存在はそのことを象徴しているのかもしれない。ショッピングモールとは何よりもまず、自動車利用者のための空間として定義されるように思われる──ショッピングモールとは、人が半日歩きづめでも自動車利用者としてのアイデンティティを失わず、言わば歩行者ではなく潜在的な自動車利用者としてとどまり続けるような空間に他ならない。ショッピングモールの典型的な利用者は、休日に一家総出で来訪し、どっさり買い物をして帰る。モール内で長時間歩き回り、さらに大量の荷物を抱え込むことが可能になるのは、やがては車に乗り込み、そのまま直接家まで帰ることが想定されているからだ。

 私にとって関心があるのは、こうしたこととは逆に、歩行者性とでも呼ぶべきものを再発見することだ。もちろん誰もが程度の差はあれ歩行者であるには違いないのだが、より積極的に、その社会的な意味、とりわけ都市空間におけるその可能性を考えたい。私たちはどこか目的地に向かって歩いていても、不意に立ち止まり、くるりと向きを変えてすぐ傍の店に並んでみたりする。そこからいかにも食欲をそそる甘い香りが漂ってきたからだ。五感を開放し、偶然性と出会いとに対して開かれた状態に身を置くことが、生の喜びの本質的な一部であるとするならば、それは歩行という身振りと本質的につながっているように思われる。

 自動車とバイクの町・ジャカルタにおいて、歩行者性、と私がひとまず呼んでおいたものを、典型的に示していると見えたのが猫だった。猫はあちらからこちらへと気ままに歩き回る。入場料も払わずに博物館にあがりこみ、壁龕に入り込んで、丸くなる。壁龕は本来展示のためのスペースだったのだろうが、コンクリートで周囲を囲まれた、薄暗くもひんやりとした空間は、昼寝に最適の場所でもあったのだ。あるいはトイレの入り口前に敷かれた、ふわふわしたマットの上。あるいは休業している店の、金属製でひんやりと冷たい陳列棚。猫たちはどこにでもあがりこんで、好き勝手に転がっていた。合目的的に設計され、諸々の社会的要件に則って分離・区分された領域を自在に横断して、自明と思われていた境界を再定義しつつ、自らの関心に応じて空間の潜在的な可能性を見出すこと。そんな軽やかで発見的な生のスタイルを、私も学びとることはできるだろうか。

 やや煩雑な書き方になってしまったが、一言でまとめれば次のようになる。

 私も猫のように生きたい!

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