土地と記憶

原凌

Ⅰ うねる戸塚

 戸塚駅は横須賀線、東海道線の上りと下り、それぞれ四本の線路をもつ駅である。

 上り方面、戸塚駅ホームの端っこに立つ。そばを、柏尾川が静かに流れている。列車のやってくる方へ顔を向けて待つ。幅の狭いホームの左には東海道線が勢いよく駆け込んできた。ほぼ時を同じくして、右には横須賀線が滑り込んでくる。つの列車が疾走して戸塚駅に駆け込むや否や、立つ者の目に見える風景は突如、大きく変わる。右も左も、間近な所を疾駆する列車に挟まれ、閉鎖された空間が立ち現われる。列車たちは風をおこし、鉄と枕木の快活な音を響かせて、ダイナミックな運動によって、立つ人をそれまでとは似ても似つかぬ場所に連れ去ってゆく。

 想像してみてほしい。自分よりずっと大きく、長い胴体をもち、駆けってゆく運動体に両方向をはさまれて、しかもその運動にしばしの間、視界を囲い込まれるという体験を。

 どっと疾駆する列車に、また、どっと疾走する列車。ぶうんと巻き起こる、風と風。二匹のが、迫り来て、颯爽と去ってゆくような感覚を覚えた。そして、そのイメージによって、子どものころのわくわくする歓びを思い出した。



Ⅱ 領域展開

 アニメ呪術廻戦において、呪術師や呪霊がもつ特殊能力の一つに「領域展開」という技がある。呪力によって固有の領域を作り出し、その領域内では自らの技が必中ないしそれに近い状態となる。この領域は、呪術師の持つ個性や能力、技の種類によって強度や的中率も異なるが、呪術師が自らの能力を高め、自らの生まれ持った呪式に関する解釈と想像を広げてゆくことで、その領域の拡充へと発展してゆくものなのだ。この、領域展開というモチフを鑑賞しつつ思ったことを書いてみたい。

 散歩について書いてみようと思っている。散歩こそ、身近な世界における冒険であり、日常の再発見であり、ぼくにとって大切なフィールドワークであり、そして常に文脈に依存した身体的なものであり、出来事に問われることで、自らの問いを再構築する場であり、時に異界を目の前に出現させる可能性を秘めた行為だからである。

 歩いている時、ある心の状態になることができれば、外の世界の色々なものが、こちらに働きかけてくるような領域を展開することができる。見るもの、聞くものにつけて、心がしみじみとそれを感じとり、内側から充実感が迸ってくるような在り方、歌を歌いたくなる在り方になってゆく。そんな散歩が、ある。

 では心がどんなあり方の時に、こうした固有な領域を展開し、充実感が内側から湧いてくるようなことがあるのだろう。

 

 ぼくのなかで感じたこと。それは自分自身の心を大切にするということなのだと思う。日常の仕事によって強いられる束縛感、そうしたものへの不満の感情や、イライラした思い、怨みつらみはもちろん、社会的な役割への同化とか、小さな自分の損得勘定といった殻に閉じこもってしまっては、心がしぼんでいってしまう。それは心を大切にするとはいえない。

 「人は嬉しい時と悲しい時にしか、本当に自分自身になることはできない。」どんな時でも、なるべく自分自身とは関係のないものを、自分の内側から追い払うこと。大切なものや人たちへの感謝の気持ち、誰かを、何かを尊敬する気持ち。何かを好きだという気持ち、こうした気持ちになってはじめて、目の前に立ち現われ、展開される領域がある。これが散歩というフィールドワークから気づかされたこと。

 歩いているときは、その土地、場所が好きだという気持ち、その土地への感謝の気持ちを持つこと。どんな宗教にもみられる巡礼という行いは、心というものの動き方を知っていた古代の人々が、領域展開をなすための儀式であり、生を豊かにする秘訣だったのだと思う。思い出のある土地、そこで人生の大切な出来事が起きた土地、何かの縁を感じる土地、自分が好きな人やものや作品にとって重要な土地。そうした土地への感謝の念をこめて、その土地を巡り歩き、その感謝の念を新たにすること。巡礼は、もっとも個人的な土地の巡礼にはじまり、それが家族や友人、恋人にまつわる土地にひろがり、祖先にまつわる土地にひろがり、そうしていくうちに民族の歴史の中で大切にされ、畏敬の念を持ち続けられている土地、例えば神話の舞台になった土地や宗教的な由縁をもつ土地の巡礼となって広がってゆくのではないか。自分にとって、ほんとうに個人的なかかわりを持つ土地の巡礼からはじめることで、ぼくはこうした考えを持つに至っている。巡礼をつうじて、自分の力ではどうにもならないようなものへの畏敬の念を新たにし、自分の心に水をやるようにしつづけること。そうしないと、枯れてしまうものが、ある。

 巡礼を、ぼくにとって大切な土地の巡礼をするようになって、徐々に感じはじめたこともある。そうした巡礼のなかで、心がむかうままに歩いてみる。すると、その道で大切なものや人と、また、出逢うこともあるということ。巡礼は深まりをもつ。たとえば、はじめはその土地の、ある建物が巡礼地であったとしても、だんだんと好きな道を自分なりに発見したり、その途中で想わぬ風景やお店と出逢ったりしてゆく。さらに広がっていくと、その土地の風土を感じだすようになったり、その土地とその土地に住む人々の営みが今に至るまでに経てきた、歴史を知りたいと感じるようになったりしてゆく。そして歴史を学んでいくうちに、今度は、その土地で起きたことや、その土地に由縁のある人間のことを、自分のことのように感じ考えるようになってゆく。そしてそこで出逢った歴史上の人物のことをもっと知りたい、誰かと分かち合いたい、など感じるようになり、個人的な冒険がはじまるのだ。

 巡礼の心を胸に刻んで歩む道では、出逢ったどんなものも、心にしみ、何か語りかけてくるように感じられる。その感情は、語る必要がなくとも、語らずにはいられないものであり、そこに歌がうまれるきっかけもある。巡礼の道を繰り返し歩き、畏敬の念を新たにすること。そこにだけ、本当に自分自身でいるということの、具体的な実感があるように感じる。

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