フィールドワークとして生きる

R.M.

 ここ一週間ほどお盆休みで、両親の田舎をそれぞれ訪ねた。他人の家に泊まる際にどうしても諦めなくてはならないものがある。自宅で寝床にしているハンモックである。数年前に購入してからすっかり虜になってしまった。平面に寝る場合と異なり身体全体が包み込まれるので、自然と負荷が分散されて身体のどこかが痛くなることがない。寝返りのために夜中に起きることもなく、枕も不要で寝違える心配もない。ひとたびハンモックでの睡眠に慣れてからは、平たい床で寝ると背や腰がとても疲れるようになった。両親の田舎では布団を敷いて寝ていたが、身体中に変な負担がかかりよく眠れなかった。毎晩ハンモックが恋しかった。

 身体的な楽さのほかに、ハンモックの魅力として適度な「揺れ」というものがある。ハンモックで揺れることの魅力について、人類学者の古谷は「あの心地よい揺れが身体に思い出させるのは、おそらく小さいときに抱かれたり負ぶわれたりしていたときの記憶ではないかと思う。ハンモックに包み込まれる感じは、さらにその前の子宮の中の日々の再現のようでもある」と述べる[古谷 2020:99]。ハンモックの適度な揺れがなぜか安心感を覚えるのは、子宮の中から感じていた心地よい感覚が呼び起されるからなのかもしれない。考えてみれば丸くなるという動作自体も、姿勢を正して直立しなくてはならない大人らしさからの解放になっているのかもしれない。

 ハンモックと他の「揺れ」を伴う遊びを比べて、古谷は次のように述べる。「内耳の奥にある三半規管によって支えられた安定した世界を流動化させるのが、ブランコのような遊具や、旋回する遊びで、さらに激しくするとジェットコースターやバンジージャンプなどになり、それを穏やかにしたものがハンモックであり、さらには揺り椅子そして揺り籠ということになるだろうか」[古谷 2020:100]。しかし、これらの遊びを運動の激しさだけで比べるのは、反復・往復という要素を見逃していると古谷は続ける。反復・往復は「旋回や落下が引き起こす急転直下の眩暈やトランス状態と違って、単調な『行ったり来たり』の繰り返しによって引き起こされるリラックスした気分であり、その鎮静効果ゆえに、私たちは、別のタイプの非日常性の底へと沈潜していくことになるのである」[古谷 2020:100]。一過性で始まりと終わりがある感覚と反復のなかで変化する感覚の対比が捉えられている。この対比は直線的な時間と円環的な時間の関係に似ているように思う。ジェットコースターで得られる興奮には終わりがある。乗り込んだときのワクワク感、レールを登っていくときの不安な気持ち、落下するとともに内臓がフワッと浮く感覚、風を切る爽快感、降りた後の足のおぼつかない感覚と余韻は、すべて時系列で前後の関係にある。いずれの感覚も強く、体験の最中にはアドレナリンが沢山出ているだろう。しかし過ぎてしまえば案外スッキリと忘れられてしまう感覚でもある。ジェットコースターでアドレナリンを出したからといって身体の使い方や世界観が変わることはない。対してブランコの時間は円環的かもしれない。ブランコが前後するタイミングに合わせて足を振れば無限に「行ったり来たり」が繰り返される。何回「行ったり来たり」したかではなく、気のすむまで遊ぶ。気付いたら長いこと「行ったり来たり」していることがある。最初は新鮮だった揺れが繰り返されるなかで、段々と身体が揺れに慣れていき心地よくなる。これが上手くいかないと酔ってしまう。揺れが心地よくなった状態がおそらく「別のタイプの非日常性」なのだろう。

 直線的・円環的な時間はそれぞれ、中村雄二郎が『共通感覚論』で「社会的時間」「文化的な時間」と区別する時間に対応すると思う。直線的すなわち「社会的時間」は「社会生活上の有効性によって区切られ秩序立てられた」「過去から未来へと均質に流れる」「水平の時間」である。対して円環的すなわち「文化的な時間」は「人々の間の交感や同化によって循環とリズムが強化されるとともに、非実用的な価値と形式によって秩序立てられた」「垂直の時間」である[中村 2000:270-272]。ジェットコースターに実用性は特にないが、少なくとも結果として得られるものが爽快感やストレス発散など明確にある。ブランコやハンモックにはそれがない。ブランコやハンモックで沈潜しても何かが得られるわけではない。しかし、だからこそ目的に追われる直線的なあり方から逃れられるのかもしれない。


古谷嘉章 2020『人類学的観察のすすめ:物質・モノ・世界』古小鳥舎.

中村雄二郎 2000『共通感覚論』岩波書店.

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