猫の目

益田伊織

 小さい頃から海洋冒険小説が好きだった。中学・高校では登山を始め、バックパック一つを背負って自然の中に身を置くことの楽しさに魅了された。

 しかし他方で、こうした好みにしばしばついてまわるマッチョなイメージに対しては、鬱陶しさを感じてもいた。自然の脅威との対決、リーダーシップ・主体性その他の資質が問われる非日常的時空… こうしたイメージを通じ、外的環境を乗り越えるべき困難としてのみ捉えるとき、それが本来そなえているはずの多様性が後景に退いてしまい、「困難を乗り越えた自己」へとナルシスティックに自足してしまうように思われたのだ。

 そうしたことを考えていた時、ヴァージニア・ウルフによる『ロビンソン・クルーソー』の批評(『コモン・リーダー』収録)を読んだ。ウルフと言えば、先駆的なフェミニストの一人として、死後七十年が経つ今、ますます評価が高まっている女性作家である。ありふれた人々の感情の機微を精緻に描きだすウルフが『ロビンソン・クルーソー』に言及している事実は、私にとって些か意外なものだった。彼女はこの小説の魅力を次のように描写している。

 そして、彼(ロビンソン、訳注)にとってそう見えるがままの真実を、脱線することなく語ることによって――彼の最も重要な資質であるリアリティの感覚を機能させるために、一人の素晴らしい芸術家として、あれやこれやに取捨選択しながら取り組むことで――彼は最後にはありふれた行為を堂々たるものとし、ありふれた事物を美しいものとする。掘る、焼く、植える、建てる――これら単純な仕事が、いかに重大であることだろう。手斧、ハサミ、丸太、斧――これら単純な事物が、いかに美しさを湛えることだろう。

 ウルフにとって『ロビンソン・クルーソー』は、次々と襲い来る困難を予想もしない仕方で乗り越える、波乱万丈のサバイバル小説といったものではない。彼女が本書で着目するのはむしろ、「ありふれた(common)」、「単純な(simple)」行為や事物の積み重ねである。私たちは日常から離れたとき、それまでは気にも留めなかった事物を新たな視点から見直し、あらためて関係を取り結ぶことがある。ウルフの理解する意味でのロビンソンの冒険とは、未知なるものとの対決ではなく、既知のものへの働きかけを通じて未知の美を創出・再発見するような実践のことなのだ。

 私が今興味を持っているのも、そうした意味での冒険だ。登山や海外旅行を通じて日々の生活の繰り返しから距離をおいてみるのは、私にとっていつも刺激的なことだった。しかしそれが単なるエキゾチシズム、つかの間の非日常的体験の消費に終わるのであれば、少し物足りないとも思う。日々の暮らしから限りなく離れたところへと飛び出していくこと。日々目にしている最もありふれた身振りや事物を丁寧に見つめ直すこと。対極にあるはずの両者が逆説的に相通じあうような場を探ることこそが、大胆さと繊細さとを同時に要する真の冒険なのだ。

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