「朝が来る」

原凌

 どんな気持ちで朝を迎えるか、どんな気持ちで朝を送り出すのか。生きる上で、自分にとって大切なこと。自分としては、徹夜で遊び明かした後、しょぼしょぼした目で太陽にあくびする朝ほど、嫌な朝はない。光が差し込まない朝も好きではない。自分の生活が糞真面目でつまらないと思ったこともあって、色々試してみたが、結局、だらしない朝が好きになれなかった。多分、気質にかかわっている。自分にとって清々しい朝、それは一体どんな朝なのだろう。

 目覚めの気分、これはどうにも自分で調節することが叶わぬもの。体調、夢、睡眠の質、色々なものが関わって来る。だからこそ、人は朝、どんな気分であっても心が整うための儀式を必要としているのではないか。まだ確立はしていないが、頭も心もぐっしゃとしている朝、からだにエネルギイを漲らせる工夫、これを見つけたい。

 最近の発見、朝の珈琲。珈琲の粉の香りがふわっと、舞い上がってきた時、からだのどこかのスイッチを押されたような気持ちになった。眠気というのか、からだが、この香りをかぐと、目覚めるのだ。特に高級品ではない。どこのスーパーにでもおいてある「ちょっと贅沢な珈琲店 スペシャルブレンド」、その粉を濾紙へ入れた際に広がる薫りが、鼻から肉体の奥に伝わってくるような感覚。朝を、五感が調節している。他にも必要なものがある。

 風。これは飛行機などに乗っている日、具合が悪くて一日中寝ている日に気が附いた。朝の風と共に起き上がるものが、人のなかにはある。

 鳥の声。かわやで必ずしょんべんをしてから朝がはじまる、それなら風をあびつつ小便がしたい。小鳥のさえずりをサウンドトラックに、吹きそそぐ風を額にあびて、光がさしこむ、都雅な香りの便所。谷崎純一郎も「厠のいろいろ」という随想で「便所こそ瞑想に適する場所」だと書いていたが、日本の旧家屋のつくりにあるように、母屋から渡り廊下を渡って、離れの厠に行くところから朝をはじめる。春の訪れも冬の寒さも含めて、四季を感じてはじめる、そんな朝に憧れがある。

 書いていて、気が付いたこと。寺に住むのがいいのかもしれない。

 理想的な朝がどんなものかと考えていると、これが朝だ、と感じる小説の場面が思い浮かんだ。

一つ目は森鴎外『渋江抽斎』より。比良野貞固という武士の朝。津軽藩主の命で、留守居役の任務を、先代より受け継ぐことになってのちのこと。


留守居になってからの貞固さだかたは、毎朝まいちょう日の出ると共に起きた。そしてうまやを見廻った。そこには愛馬浜風はまかぜが繋いであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬は生死しょうしを共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、盥嗽かんそう して仏壇の前に坐した。そして木魚を敲いて誦経じゅきょうした。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経がおわって、髪を結わせた。それから朝餉あさげぜんに向かった。饌には必ず酒を設けさせた。朝といえども省かない。さかなにはえりぎらいをしなかったが、のだ平の蒲鉾かまぼこたしなんで、かさずに出させた。これは贅沢品で、鰻の丼が二百文、天麩羅蕎麦が三十二文、盛掛が十六文するとき、一板ひといた 二分二朱であった。

 朝餉のおわころには、藩邸で巳の刻の大鼓たいこが鳴る。名高い津軽屋敷のやぐら大鼓である。


もう一つは、サン=テグジュペリ『人間の土地』より。夜間飛行が、命の危険を伴っていた時代の、飛行士たちの一夜。通信が絶たれ、真っ暗闇の空に漂う、迷子の男たち。空に煌めく星々と、帰着を待つ空港のともし火とを混同し、諦めかけた空の上の体験を、回想した場面。夜の恐ろしさを知る人だけが知る、朝の歓び。


任務が終わったなら!ネリとぼく、ぼくらは街に降り立つはずだった。明け方、ぼくたちは、オープンしている小さなレストランをみつけるのだ…。ネリとぼく、ぼくらはテーブルについているはずだった。安堵にひたされ、過ぎ去った夜を笑い、温かなクロワッサンとコーヒーを前にして。ネリとぼく、ぼくらはこの、人生の朝の贈り物を手にするはずだった。年老いた農夫も、こんな風にしてしか、神さまに近づくことはできない。描かれた絵を通じて、素朴なメダルやロザリオ、そうしたものを通じてしか、近づくことはできないのだ。ぼくらに分かってもらおうと思っているのなら、人は、かんたんな言葉で話しかけなければならない。生きる歓び。ぼくにとってそれは、香りたち、焼きつける、はじめの一口に集まった。ミルク、コーヒー、そして小麦の混ぜ合わさった、その一口の中に。そして、今ここに交流がはじまるのだ。人間は、おだやかな牧草地と、異国風の植木たちと、そして収穫されたものたちと、ここに、かかわりはじめる。ここに、人と大地との交流がはじまる。数多くある星々の中、こんな星は、ひとつしかない。ぼくらの手の届きそうな所、明け方の食事の、香ばしい一杯を秘めている、そんな星は。

 けれど、超えることのできぬ隔たりが、ぼくらの飛行機と、大地との間には幾重にも重なっている。世界のあらゆる豊饒さ、それは星々の間を彷徨さまよう、塵のような粒のうちに存在しているのに‥‥。ネリよ、占星術師ネリ、その星を見分けようとするネリ、彼は変わることなく星に願っていた。(私訳)

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