白石火乃絵の生活 page1

with ロクジュウゴ文化祭実行委員会

白石火乃絵

〝生き急ぐとしてもかまわない 飛べるのに飛ばないよりはいい〟

My Color of Innnosenseのとき、つまりぼくが中3から高1くらいのころ、そのあとも今までずっとだが、先輩から教わった初期のDragon Ashの曲は、文実ブンジツ ときってもきれないもので、いわば地球にとっての水のようなものだ(まるで火乃絵と文化祭のように)。でも、これくらいおおきな例えをつかうなら、まあ、音楽は、といっておこう。

かなり危なかった時期、ぼくのきらいなヴァレリイの感じでいえば(なぜ?)危機の中にあったとき、世界情勢てきにも新型コロナウィルスの蔓延が本格化していて、日本では行政による最初の緊急事態宣言が出ていたころ、それまであまり観てこなかったアニメを、配信サービスの無料期間を利用して二ヶ月間に128本観た一日に四十話ほどこの数は、一話ごとにベランダで煙草一本を喫い、一日に二箱消費していたので記憶している)。

ある程度観了ったところで、とくに心が疼いた作品をリストアップしてみた。それまで、監督や脚本などだれがやっているのか気にしたことがなかったので、この機会にとおもい調べてみると、『涼宮ハルヒの憂鬱』を除き、そのことごとくが岡田麿里という人の脚本であることがわかった。それはまるで探偵が事件解決への鍵を握る重要参考人を発見した時のような夢うつつの気分がした。人が真に影響を受けるのは、せいぜい二十歳前後までの出会いによるものだと思い切っていたから、そんなことがこの身に起きるとはおもえなかったのだ。以降はまず、この人の関わってきた作品をすべて観ることになる。藁どころか、太平洋を横断できる風をみつけた思いであった。

「ユリイカ」に岡田麿里の特集号があったので、手に入れて読むと、すべて納得がいった気がした。そこには、彼女がはじめて脚本で参加した『DTエイトロン』のオープニングテーマ「陽はまたのぼりくりかえす」(Dragon Ash)が、その後の彼女の人生を決定てきにしてしまったのだということが対談でいわれていた──同じ音楽が鳴っていたのだ。

〝生き急ぐとしてもかまわない 飛べるのに飛ばないよりはいい〟

この一行が、ぼくが彼女の脚本作品に心惹かれた七〇パーセントくらいを物語っている(あとの三〇パーセントは紫式部に通じるもののあはれの手つきによる)。この〝飛ぶ〟がもう文学には見つけられなくなっていた。小説はおろか、にさえも──みなイカロスの墜落の神話におどかされてしまったとでもいうのだろうか?

岡田麿里さんの〝飛ぶ〟は、まったく別の感受性で貫かれている。高木や崖の上から飛び降りても、それが即自殺を意味しない。もっと別の行為として映ってくるのだ(むろん、演出や作画の力でもある。だが、それが助力 ﹅﹅ と映ってしまうのが岡田麿里の脚本ことば やいばだ)。

現代ではあまり馴染みのない人も多かろうとおもうが、弘法大師とよばれ千年以上にわたって、この島国の人々に愛されてきた空海というお坊さんがいる(川崎大師﹅﹅ の下二文字がこの人のことを指していることを、恥ずかしながらぼくは知らなかった)。どうしてこの人が好きになったかは、岡田麿里さんのときのようには思い出せないのだが──たぶん、ゼミの先生で師でもあった詩人の中村文昭氏から、空海の母が高野山におにぎりをもっていったときのエピソードを聞いた(今年きいたいちばんいい話だとそのときいっていた)のと、折口 おりくち しの の「死者の書 続編(草稿)」の主人公のひとりなこと、空と海という名前、室戸岬の洞窟で瞑想しているとき、明けの明星、つまり金星が口に飛び込んできて、目の前の海と空とがひとつになったという正覚と命名の逸話──そういう機縁などあいまって、いつからか空海、空海と唇にのることが増えていったのだと思う……

けれど、そのときはまだ美くしいひとへの淡いあこがれの域を出ていなかった。ぼくが本格的に、この身ひとつで、この人のことを、わがことのようにおもいなすようになったのは、こんな伝説を目にしてからだ(もうどこでだかおもいだせない、胸の記憶でかく)。

▽その名を名乗るまえ、空海は、佐伯の氏に生まれた真魚まおといった。稚子おさなごまおは七歳のとき、実家の善通寺(香川県)の裏山倭斬濃わしの やま の山頂ちかくの険しい岩場で修行していた。何週間か経っても、なかなか仏心に触れることが叶わなかった。それである日、しゆ じようさい (人類救済)の願いを込め、命懸けで崖下に飛び降りた。するとあはれにおもわれた天女がこれを抱きとめ、その願いはうけ れられる。一命を取り留めた稚子はのちに空海と名乗り、この山をはいさん と名づけ出釈迦寺を建立、釈迦如来(師)をその本尊とした(お遍路の八十八箇所霊場第七十三番札所になっている)。しゆ げんの行われていた岩場をしやしん たけ と呼ぶ。

裏山、と書いたのは、稚子真魚を慕い、このエピソードの実感をたしかめようと善通寺に行き、この嶽に登ったとき、なぜか『ドラえもん』の、のび太たちの町の裏山のことを思い出したからである。あのどこか見たことあるような架空の町にあって、裏山の存在感 プレゼンス は大きい。子供ごころに、ここは四次元ポケット以上に底が深い気がする、というふしぎなわくわくがあった。日常のどまんなかに空いた非日常の森穴 シンケツ (造語です)のようなもの。いま想えば、あれが神道や密教のもっとおくにあるニホンの民間信仰への触れ初めだったかもしれない。空海も幼きから老いの境まで、唐にいた二年間を除いては、この山の空気を吸いつづけていたとおもう、裏山で遊ぶのび太たちのように。

さすがに脱線した。だがいちど善通寺駅へ行ってみたことある人、ないし地元の人ならわかるとおもうが、まあ、のび太たちの月見台すすきヶ原よりもっと平安期の寂れた景色をのこしているものの、がくさん(我拝師山を含む)がいきなり町の背景にどん!とみえると、なにか不思議になつかしい気持ちがしてくる──それにしても険しい山山だが。

そんなことも含めて、ぼくはどうしても自分の足で、稚子真魚の町へいき、捨身ヶ嶽を登って、確かめなくてはならないことがあった。真魚の経験と、火乃絵の経験はおなじであるかどうかを──いや、同じだと想っていたからこそ、その喜びをもういちど噛み締めに行きたかった。計画するでもなく、もうその足は善通寺へ向かっていた。

TO BE CONTINUED...

〔5.26 AM5:03  こういうことはあまりしたくないのですが、この続きがどうしても書けなかったので、ここに続くはずの文章の原型である、旅のあとに記した短章を掲載し次回の予告とします。なぜ書けなかったは、noteの簡易日記に記したいとおもいます。昨日分は改稿箇所があります。

一、香川県善通寺

空海の出生地として、ぜひとも行ってみたかった。捨身ヶ嶽の霊域で修行していた真魚(七才の空海)が、悟りを得られぬ絶望と万物の救済への願いから身投げをしたところ、天女に抱かれ命を保った、という伝説に、自らの体験と通じるところがあると直覚していた私は、その心をたしかめたく、じっさいに善通寺とその町の背景、というより御本尊となっている低く険しい捨身ヶ嶽の霊域をめざす。——

午後2じすぎ、炎天。熱中症になりかけながら奥の院の縁の下をくぐり、霊域に這入る。攀じ登り、攀じ登り、たぶんこの岩の上から、という巌を背に辺りを見まわすと、山山の遥かむこうに太平洋がみえる。そして雲だか靄だかで、霞んでいるところの見えない先は、たしかに室戸岬の方角であった。すでに七歳にして、のちに空海となる真魚は自らの正覚の地を、ぼんやりと、たしかに眺望していたんだ……。この実感は、旅に出て、じっさいに登ってみなければ得ることができなかったろう。ここから眺めは、海も山も空も、溶け合って境目がない。

立ち去るまえに、この巌の上で詩作の出発となった自作の「海」を朗読する


●●●●パパとママのせいよ、

PILがやけに沁みるのは。


あんなにも当たり前に、

触われた星空が丶今夜

宇宙の涯を っ搔きながら、、、

●●●●●●雪崩れ墜ちてくる!


氷の爪が子宮を搔き鳴らす、、、海は、

ゾクゾクしながら、、、blues blues を食べてる、、、、、


廻って擦れて灼けて散る太陽に

永遠をリクエストした鳶丶

天使のくちづけだけが欲しくて、

海に火をつけて遊んでる——


じんにり壊れていく子宮が、

からっぽの海を孕んでた。

山より降りて、ふもとの溜池のほとりで、短い詩を書き連ねる。電車にのったときには、すべて出揃い、十四行のソネットとした。

善通寺ソネ


ふるきより、手前に折れる心有て—。

     われを導く—蝗虫かなしも


すて たけ 。岩を覚える バッタ哉


捨身ヶ嶽。身ぃ捨て難し、かた〳〵と

  ゆらぐ石ころとなりにけるかな


     真魚を慕い生まれ育ちの町

     善通寺にて夏の終りにヨメ

捨身ヶ嶽。わが身離さず、

 のぼ きた れば 山中涼し。

           下校のチャイム


すてたけ はありがたし。夕暮れ

 駅まで走しる、足も止まらず—


稚兒真魚。天女もほろゝ

          振り向かず行く—






〔この二篇の詩は、火乃絵の第一作品『崖のある街 -Deluxe Edition-』に収録されております。〕

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