猫の目

益田伊織

 台湾に行ってきた。その前後に中国文化についての本を何冊か手に取ったので、その中で興味深いと感じた記述について、思いつくままに紹介してみたい。

 『NHKスペシャル 故宮 流転の名品を知る 美を見極める』で紹介されていたエピソード。一九三〇年代、日本軍の侵攻によって脅かされた故宮博物院の文化財が危機にさらされたことで、中華民国はこれら希少な文物を避難させることに決定する。運搬責任者だった荘尚厳は、文化財を僻地の洞窟へと運びこむ。これなら空爆の危険はないが、しかし湿気が紙などを傷めてしまう危険があった。

 そこで荘が考案したのが高床式の倉庫を洞窟内に築くことだった。実は荘は開戦前に日本に考古学を学ぶために留学していた経験があり、そこで見た正倉院の校倉造のことを思い出したのである。日本の侵略に抗い、中国の文化を次世代へと残すため、日本の文化の編み上げた知恵を役立てること。こうしたしたたかな、またしなやかな横断の身振りにおいてこそ、文化は真にその輝きを放つのだと思う――そしてそれは、近年流行の「外国人が驚く日本の魅力紹介」といったコンテンツ(それは外国人の視点というエクスキューズを設けることでナルシシズムを隠蔽しようとする)の卑しさとは対極にある。

 次に石川九楊『やさしく極める〝書聖〟王羲之』。書という長く豊かな伝統をそなえた、それでいて初心者にはひどく取っつきにくい印象を与える芸術について、本書は決して「やさしく」書かれた入門書ではない。しかしなお、書については些かの知識も持ち合わせていない私が本書を楽しみながら読むことができたのは、著者である石川がいくつかの書によってまぎれもなく心を動かされている様が、言葉の端々から伝わってくるからだ。例えば次のような表現。

《雁塔聖教序》のたたずまいはなんと麗しいことでしょう。《九成宮醴泉銘》のように硬質で堅苦しい緊張感ではなく、字画相互の関係が生きて緊張しているさまがひしひしと伝わってきます。ソリをもった字画からは鍛え上げられた運動選手のむだのない筋肉とその動きのような張りとバネが感じとれます。

 私は別に《雁塔聖教序》の図版を見ても、運動選手のような字だなどとは感じなかった。しかしそれでも石川のいきいきとした比喩は、臨場感をもってこの書の魅力を伝え、もう一度この言葉を念頭に置きながら、作品をじっくり眺めてみたいと思わせる。それは例えば、卓越したグルメリポーターが、その比喩――それはしばしば、正確というよりはむしろ意表を突くものであることによって魅力をもつ――により私たちの食欲をかき立てるのにも似ている。

 食べ物の例をだしたので、最後は勝見洋一『中国料理の迷宮』。私たちはしばしば「中国」を一つの固定的な実体として捉えている。「米中対立」といった表現、つまりは政治の言葉は、国というこの極めて恣意的で粗雑な単位をしばしば絶対化してしまう。

 しかし食文化は、そんな境界など軽々と越えて、ダイナミックな横断、衝突、交雑を繰り返す。勝見が本書で目を向けようとするのはまさにそんな、諸力が絶えることなく運動を続ける様であり、そこにおいて織りなされる風景こそが「迷宮」に準えられるのである。

 北京の庶民の味は、元王朝以来、明と清を素通りして、驚くべきことに現在も変わっていない。(…)イスラムの味がモンゴルの騎馬民族によってもたらされ、それは北京で原形のまま踏みとどまって定着し、そのまま中国東北地方から朝鮮半島に突き進んだのが、ひとつの食の流れである。いま韓国に残っているさまざまな料理から、たった約二百年前に奄美諸島から輸入されて定着した唐辛子を抜いて、さらに牛のスープを羊か豚に変えれば、そっくりそのまま中国北部からモンゴルにいたる味覚そのままである。

 中国、イスラム、モンゴル、朝鮮、奄美。いくつもの地名・文化圏が眩暈をおこしそうな密度で次々と言及され、そこに政治的境界など意に介さない、庶民の食の歴史が力強く浮かび上がる。中国や中国人に対する矮小なステレオタイプなどかなぐり捨て、アジア文化のダイナミズムの一つの大きな核をなしているこの「迷宮」について、あらためて知識を深めたいと思わされた。

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