村上春樹『1Q84』によせて その1

原凌

 〈とある先輩と〉

 中学生の頃、村上春樹の『1Q84』が一世を風靡していた。普段はあまり本を読まないぼくの母まで、それを手にとって読んでいたのを覚えている。ぼくは、そのタイトルの醸し出すえきぞちっくな雰囲気に魅了されて、久しぶりに学校の図書館へ本を借りにいったのだった。探しても見つからなかったのだと思う。ぼくは図書館のカウンターまでいって、図書委員とおぼしき先輩に尋ねた。「村上春樹の『1Q84』を探しているのですが、どこにありますか」と。

「ムラカミハルキ?そんなの読んでるの。ちょっと来な。」

その先輩は、有無を言わせぬ感じで、カウンターから出て来ると、近くの文庫コーナーまで行き、一冊の本を押し付けた。お節介と先輩面は天下一品だけれど、若い賢者の如き挙措に、ぼくはなんだか言われるままになってしまった。

「はい。」

とだけいって、押し付けられた本。そのタイトルは『一九八四年』だった。なんと無味乾燥のタイトルか。どこにもミステリアスな雰囲気がない。がっかりしながらも、結局この本を借りてしまった。一連の流れから、その先輩の確信を感じのだと思う。ふりかえれば、随分おしつけがましい図書委員だが、世間の流行とは道を共にしない、若き読書家ならではの気概があったのだろう。ぼくは、ジョージ・オーウェルの書物そのもの以上に、あの先輩の確信溢れる態度に魅せられたのだと思う。

 結局、『一九八四年』は、中高時代に出逢った数少ない愛読書の一つとなった。借りて一読してからすぐ、自分で買い直したし、高校卒業当初も、原書で辞書をひきつつ読んだ、最初の書物となった。

 名もしらぬ先輩の、お節介にひきずられてはじまった、読書体験がある。読書体験は、本を開くときがはじまりではない。本を閉じたときがおわりでもない。ほんとうに、人生で大切な本は、人生と読書との境めが、少しずつ分からなくなってくるみたいに、人生そのものに不思議をよんでくる。

 『1Q84』について語ろうとすると、どうしても、この先輩のことには触れざるを得なかった。『一九八四年』も折に触れて考える必要があると思う。


 〈扉の言葉〉

 ここに全てあると思う。読み飛ばしてしまいがちな箇所だから、もう一度、丁寧に味わってて、よみたい。村上春樹が翻訳している英詩。


「ここは見世物の世界     It`s a Barnum and Bailey world
 何から何までつくりもの    Just as phony as it can be
 でも私を信じてくれたなら  But it wouldn`t be make-believe
 すべてが本当になる」    If you believed in me.

'It`s Only a Paper Moon'   


信じたら、信じてくれたなら、すべては本物になる。この呪文について、この物語は語っている。信じるということ、その行為をつうじてみえる世界、これが春樹ワアルドを貫いている。

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