『街とその不確かな壁』は序盤で読む手を止める

白石火乃絵

 今度の「偏向」(本号)で、村上春樹の新作『街とその不確かな壁』について書くと宣言してあった。が、まだ序盤にあって読む手を止めてしまった。小説は自らの生活に向けて読むので、わたしはここに影響、いや大反省を強いられて、2年ぶりに夢日記を再開している──以下に幾つか引用する箇所のある章が読む手の止まったところだ。


 きみの手紙には、ぼくの場合とは逆に、身のまわりの具体的なものごとよりは、内面的な思いのようなものが多く書き記されていた。あるいは見た夢とか、ちょっとした短いフィクションとか。とりわけいくつかの夢の話がぼくの印象に深く残っている。きみは頻繁に長い夢を見たし、その細部までを鮮明に思い出すことができた。まるで実際にあった出来事を思い出すみたいに。そういうのはぼくには信じがたいことだった。ぼく自身はほとんど夢を見ないし、見たとしても中身がまず思い出せない。朝、目を覚ましたとたんに、それらの夢はすべてばらばらにほどけてどこかに吸い込まれてしまう。鮮やかな夢を見てはっと目を覚ますことがあっても(めったにないが)、すぐそのまま眠り込んでしまい、翌朝目覚めたときには何ひとつ覚えていない。


 これは、夢日記を取っていた(だいだい150くらいの)ときと、そうでないときの私のどちらの状態も表している。


 ぼくがそう言うと、きみは言った。
「わたしの場合、枕元にノートと鉛筆を置いて、目が覚めるとすぐにその夜に見た夢を記録するの。忙しくて、時間に追われていてもね。とくにありありとした夢を見て真夜中に目を覚ましたような場合は、どれほど眠くてもその場でできるだけ詳しく内容を書き付けておく。そういうのは大事な夢であることが多いし、多くの大切なことを教えてくれるから」
「多くの大切なこと?」とぼくは尋ねる。
「わたしの知らないわたしについてのこと」ときみは答える。
 夢はきみにとっては、現実世界で実際に起こる事象とほとんど同じレベルにあり、簡単に忘れられたり消えてなくなったりするものではなかった。夢はきみに多くのことを伝えてくれる、貴重な心の水源のようなものだった。
「そういうのは訓練のたまものなの。あなたも努力すれば、きっと見た夢を細かいところまで思い出せるようになるはずよ。だから試してみて。あなたがどんな夢を見ているのか、とても知りたいから」


 ユング心理学など齧っている読者には、小説家でありながら、なんのオリジナリティもなく医者の口舌をなぞって…などと思われてもいいような箇所だが、あまりに凡庸すぎるがために、態度に迫ってくるものがある。(長篇小説としては、二人の会話にリアリティや固有さが欠けているという批判に遭おうが、この手の凡庸さは巨匠にだけ許されたものなのだろう)。


 いいよ、やってみよう、とぼくは言った。
 でも、それなりに努力はしたのだが(枕元にノートと鉛筆を置くことまではしなかったにせよ〔しろ!─引用者〕)、どうしても自分の見る夢に興味が抱けなかった。ぼくの見る夢はあまりに散漫で一貫性を持たず、おおむね理解しがたいものだった。そこで語られる言葉は不鮮明で、目にする情景に筋らしきものはほとんど見当たらなかった。また時には、人にはとても話せないような不穏な内容を持つものだった。そんなものに関わるよりは、きみの見た長くカラフルな夢の話に耳を澄ませていたかった。


 自分の心に耳を澄ませない者が、他人の夢にずけずけと這入りこめる道理はない。もちろんこの「ぼく」は主人公と語り部との一人二役であって、作者自身ではないとはわかっているけれど、これだからつくづく小説家は嫌いだ!と思ってしまう。ここにはわたしが夢日記を取らない時期の胸ん中がてきかくに描写されている──だからこそ、不快なのだ。嫌いなわたし自身をみせつけてくる鏡づくりの小説家よ…主人公にはあこがれさせてくれ。

 自らの第一作品と制作期間をまったく同じにするという理由で、わたしは、この作品について、読む前から書こうときめていたが、ここのところで一旦止めにしてしまった、先が読めるから。それは悪夢だ。自分から嫌な夢をみようなどとは思わない。しかも、そのパターンを、キルケゴール好きのわたしは知悉している、〝関心は関心に座礁する!〟と。

 だが、まだ捨てないのは、村上春樹が、ある時期から、関心から反復の方へ、乗り出そうというモチーフを繰り返していると知っているからだ。物語はいつも、その決意のようなもので終ってしまうけれど、小説というものはそもそもそういうものなのかもしれない。その後を生きるのはわたしたち読者ひとりひとりなのだ。そうおもえば、『騎士団長殺し』の結びの言葉も、納得がいく。まだ読んでない人にも、むしろいい導入になるだろうから引用しておく。


「騎士団長はほんとうにいたんだよ」と私はそばでぐっすり眠っているむろに向かって話しかけた。「きみはそれを信じた方がいい」


 わたしにとって小説は、うちひしがれているところからまた歩き始めるために立ち寄る旅籠屋のようなものだ。たとえ相手が反面教師であるにせよ、立ち去るときにはこういう、

「ひとついいはなしが聞けた。ありがとう。また行くよ」──お前のぶんも生きるから。


TO BE CONTINUED...   

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