「映画の言葉」

原凌

 2023年5月、ゴダアルの映画を見た。追悼記念、「ゴダールの決別」。

 映画の内容は、一度見ただけでは、さっぱり不明だった。失踪、男と女と恋愛、神の存在、聖書の物語、それぞれが入り組んでいて、しかもカタカナの名前を覚えることが苦手なため、脈絡を途中で見失ってしまった。

 が、不思議なことに、何をいっているか、ストオリイ(そんなものがあったとしてのはなしだけれど)もわからなかったのをよそにして、見終わっても、いくつかの印象が、心に深くしみわたる感覚が残った。こんな映画は久しぶりだったので、書きつつ、何がここまで印象に残ったか考えたい。

 様々な描写も、登場人物のセリフも、この映画の中心とは思えなかった。むしろ、時として聞こえてくるナレエション、その語られている言葉こそ、映画の主役であるように思われた。普通、逆なのだけれど。

 ショートショートのような各場面の随所で、語りの言葉が、深みのある声で、ゆっくりと一語一語、噛みしめるように話される。その際、語り手はたいてい、謎々のような、聖書の一節と思われる言葉を語る。語るというより、ささや くというべきか。それはまるで、耳もとで、なにかを告白されているような感覚をもたらす、そんな声だった。

 いわゆるワンシーンの印象は、断片的にだが、勿論ある。ある時は、男と女とのゆきちがいの会話であり、ある時は雨と雷の描写とその音であり、ある時は、列車が駅舎を通過していく情景とその残響なのだが、それらはむしろ、映画のメインディッシュというより、どこまでいっても、映画の前菜に思われた。登場人物でもなく、登場する事物でもない。食欲をかきたてる前菜の如く、それらの諸映像は心を解きほぐし、次くるものに感性をひらかせるための準備にすぎないかのように思われた。次に来るもの、それこそ語りの言葉、その言葉をのせるこえ なのだ。

 映画館のスピイカアの左から、男の独白の如きささや き聲が語り始めると、スピイカアの右から、女の聲が、また独り言を呟くように同じ言葉を繰り返すリフレイン。ゆっくりとかみしめられてささやかれたフランス語は、ただ何かの意味とか観念だけに還元されない、息吹をもって美しく響く。フランス語ってこんなにも美しかったのか。これが映画を見て、はじめに感じたことだった。映像を通じて、言葉そのものを顕現させようという試みなのだろうか。

(「La langue cinématographique」、「映画てきの言葉」というセリフが途中で聴こえてきた。映像を通じて、言葉というものの、普段忘れさられているその生生しい実感を伝播させる。)

 聖書や、神話をひらいて出て来る一節は、それだけ読んで理解されるような言葉ではない。しかし、ある映像を通り抜けたあとで、その言葉をささやかれると、それは意味として頭に訴えるというふりをやめさせられ、どこか肉体にしみこんでくる物質感をもつものとなって、こえ として心に訴えてくる。それが、「ゴダールの決別」から学んだこと。

 翻って、ぼくの日常の言葉。日々の言葉でも、語りの男が、そのこえ によって伝えたみたいに、しみこんでくるような物質感をおびた言葉を通して、語り合いたい。心に、直に根をはった言葉でなければ、消えて行ってしまう二酸化炭素に同じ。心からの言葉を聲に出して伝えたい。希臘 ギリシャ じん のいうところの「翼の生えた言葉」を。そうでない言葉は、なるべく聲に出したくない。そんな思ってもいないことや、社会的、形式的な挨拶は、聲に出すたびに、心と声との通い路を狭めるだけだと思う。

 「おはよう」も「ありがとう」も、心をこめなきゃ、二酸化炭素。

 声に出すこと、これはあたりまえの行為だけれど、意識など到底できない所で、人を蝕みもするし、人を清めもするに違いない。畏しいものだ。「ゴダアルの決別」が教えてくれたこと。

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