ちょっとばかしの地上のこと

白石火乃絵

  一


 きみのことが好きだ。ほんとうに、いつ死ぬかなんか、わからないから、いちばんいいたいことを先にいっておく。

 きみの生きている、いまのぼくからして四百年後のせかいも、ぜったいにクソだ。あまりおどろかせたくはないから、これも先にいっておく。ぼくにはきみのことなら何でもわかる。いや、もちろん、わからないことだってある。たとえばきみの家の住所だとか(なにせ、ふるいせかいのにんげんなもので)。きみにとってのいまごろは、この手紙だって、ぼくの知らない言語に変換されているだろう。けれど、だいじなとこなら外すことはない。きみは、みんなからはそう思われてなくても、ほんとうはけっこういい奴だ。そうだろ?

 きみはそのせかいをクソだとおもってる。そして、死にたいくらいに悩んでいる。四百年前のぼくにもその責任の一端はある。いや、全責任といっていい。ぼくはせかいを変えようとおもっている。すくなくともクソではないものへと。この手紙をきみが読んでいるということは、少なくとも現時点では、ぼくの頑張りは報われていない。

 ほんとうに変えたいのなら、こんな手紙を書いていることがおかしい、ときみはいうだろう。それは保険だ、弁明だ。

 でもね、ひとにはただ好きな人に手紙を書いてみたくなるときもあるだろうよ。ぼくがせかいをクソでないものにできたのなら、それはきっといいせかいなのだから、この手紙だって笑ってもらえるはずだ。こんな弱気な人間でもせかいに尽くすことができるのだと。

 へんな話、クソなせかいの方がいいことだってある。クソじゃなかったら、今度はぼくみたいなクソな奴が困るだろうね(ぼくがあと何回クソっていうか予想ておいてほしい)。

 それでもぼくはいう。きみの生きている四百年後のせかいはクソにきまっている、と。


                  ⁂


 南大井のサンオウというところに住んでいる。友達に借りてもらったアパートの二階に、その友達とふたりで。ぼくは、一円も出していないから、いわゆるいそうろうとかいうやつで、押入で寝起きしている。

 この家に暮らしていると、ときにおもしろいことがある。

 去年の夏のおわり、もんにょりした夜中の三時半くらい。ちょうど泉鏡花がお化けをもじどおり信じていたという話をだれかの本で読んでいたとき、隣の部屋で、ベッドにいる友達がもがもが独りごちているのに気づいた。さいしょはねごとかとおもった。まだきこえるので、今度は電話をしているのかと。けれど、押入から顔をつきだしてみると、友達はまるでお化けをみるような顔でぼくをみてくる。「どしたの?」友達は玄関のほうを指差し、「だれかいる」。飛び出して、台所と玄関のある間にゆくと、小窓の網戸に白い影がうつっている。

「どなたですか」

 鼓動がしゃべっている気がした。

「アレクセイです」

 和の間にいれるなり、少年はお寺に駆け込む田舎の百姓のように話した。

 いわく、二学期になって学校へ行ってみると、受験シーズンで、仲間のひとがかわったようになのに落ち込んで、終わるなり、街にでてかたちのないうごくかんがえのあとを追いかけていると、この家の前にたどり着いていて、二階の〈三応〉の表札を見て、「ここだ」。とにかく夜更けであることはわかっていたので、階段をおり、アパートのかしゃかしゃ門のまえで十五分しゅんじゅんしているうち、九年前にぼくの書いた〈文集〉の言葉がきこえてきて、気づけば網戸から声をかけていた──アレクセイは身振り手振り、狂言みたいに語る。

「心がからだを追い越したんだね」

 ぼくは『君の名は。』の劇中歌みたいなことをいう。アリョーシャ、おまえはいま夢をみてるんだよ。これはいわない。

 そこから先のことはあまりおぼえていない。たくさん話し、ぼくはアレクセイを相手に、詩を書くよりうまく、よしなごとをいえた気がする。友達と三人で、明け方、京浜運河にある〈湖〉にいき、アレクセイはネッシーのように泳いだ。百本杭のひとつに朝陽が差し、十七歳がロシアのキリストみたいになったのを、ぼくらは見た。水の上は歩けなかった。

 そんなことよりぼくは、さっきの夢の中でしかつかったことのない未知の日本語がつかえたことに驚いていた。はやくも、ぎじゅつに移そうとしていた。──けっかからいえば、その日いらい、水の下に潜ってしまったままだ。

 さて、アレクセイには学校へ行けといい、追い返した。いまごろ教室のチャイムで目を覚ますだろう。よだれのたれた教科書のページに、浮き上がってくる文字。


  きょう

  言葉がとめどなく溢れた

  十七歳のぼくが

  ぼくに会いにやってきて

  矢のように胸の堰を壊しはじめた

                 「十七歳」吉本隆明


                  ⁂


 ぼくは天上のことばかりかかずらってきた。そのせいで、ずいぶん痛い眼にあう。ぼくの生きている時代も、きみのいる時代だって、ひとびとは地上のことしか考えない。たすうけつというのが鉄則らしいので、やっぱりぼくらが悪いんだろう。子供なんだ。でもね、ひとつだけ、これだけはいっておきたいことがある。地上にも、ごくまれに、よいものがあるってこと。友達のことだ。ときどきぼくは地上にしかキョーミのないそのひとたちに、ぼくと友達のあいだにあったちょっといい話をする。するとだれもが口を揃えていうんだ。

「それは天上のことだ」。

 まるできく耳をもってもらえなくて、かなしくて、ただ大好きなきみにだけは、知っていてほしい。これが、せかいを変えられなかったぼくが、きみにできるさいしょでさいごの贈り物。どうかこれで、少しくらい気をまぎわらせてでもしてもらえたらさいわいだ。


 この手紙を四百年後のきみに届けるためには、やっぱり本にする必要があって。いつもは詩を書いているのだけど、だれにも見向きもされないから、大っキライな小説というテイで──なぜかみんなこれが好きですきでしょうがないみたいなんだ、友達にもよくいわれる「小説にしたら読ませてくれ」。こんなにかなしいことはない。ぼくは詩ってやつが大好きなんだ(もちろんきみのことも)、たといじぶんのでもね。書いた詩は、ひとつも破らない。きみの時代の検索ぎじゅつをもってすれば、その断片くらいは見つかるかもしれない。そっちを読んでくれたらうれしいな。天上のことはみんなそっちに書いてある。散文で表現するなんてむりさ。少なくともいまのぼくにはそんな技量ない。詩だとちょっとはうまくいくんだ。へぼ詩人だけどね(笑)。


 さ、ここから先をきみが読んでいるってことは、ぼくの書くヘタクソな詩はたぶん世界を変えられなかったってことだ。捨てられちゃったんだな、身近なひとにね。でも、はなから天上のことだもの。無くなるなんてこともない。

〈つづく〉

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