DigItal-AnaLog(ue) デジタルアナローグ
 ──言葉にとって美とはなにか

白石 火乃絵

さきに、市村の「縦書きWebサイトの追求」における〝「アマツチ」宣言〟を受け取るかたちで、縦書き(or横書き)についてくどくどしく書いたが、ここでは本誌の再開にあわせて、本稿「DigItal-AnaLog(ue) デジタルアナローグ 」が何を志向しているのか、整理しておく。整理といっても、およそ整理のつかない事どもを、思いつくまゝに書き出してみるのにすぎないが兎もかく。


筆者は「偏向 ここ」でDigItal-AnaLog(ue) デジタルアナローグ を書き、何がしたいのか

最終的には、『DigItal-AnaLog(ue)デジタルアナローグ ──言葉にとって美とはなにか』という一冊の本をつくりたい。だが、それをどう書いたらいゝかわからない。「偏向」という同人誌の場を利用して、その試行錯誤をしてゆく。砂場で穴掘って何かを手探りしているようなものだ。

ちなみに、『DigItal-AnaLog(ue)デジタルアナローグ ──言葉にとって美とはなにか』は、『ANIMA(TION)あにましおん ──心的活動論序説』『バーチャルの果て──風の唯物論』とつづく三部作の第一部であるのだが、この一冊でさえ、ものにできるか、あやしいものである。

しかし、それほどわたしは困っていない。というのも、わたしは詩を書いていて、そこでこれらの三著で書きあらわしたいことを(巧いか拙いかは措くとして)表現しているつもりだからだ。詩で表現できないことなど、いくら考えたって霧を耕すことにしかならない。

だったらなぜ、このような文章をものすかと問われれば。詩的言語の反対側から、砂山を左右両方から手堀りするように、その砂山の内部で両手の出会ったときのあの快感くすぐつたさに出会いたい、というよりほかない。

…もっとわかりやすく書けないものか、と問われたって仕方がない。そのようなことなら、書かずとも済む。わかりやすく書けるようになるためには、書いて書いて書くしかない。しかもその過程プロセス を発表するという緊張感において。週刊連載の新人漫画家が、描きながら自らの画風を確立してゆくように。それができる場(「偏向」)を、与えられるのではなく、自分たちの手で作りだすことができたという素朴なよろこびを忘れずにゆこう。

 〝ないんだったら自分で作ればいいのよ!〟(涼宮ハルヒ)
そして、その日月を、あわよくば読者とともに追体験してゆきたい。

きっと、太古の狩猟民も、漁民も、農民も、藝能民も、職人も、労働が楽しかったのだ。 現代人といわれる、とりわけ若い世代のわたしたちとて、ポケモンは楽しくなかったか? 「人生はゲームじゃない」ということが「人生は楽しくない」という意味なら、もいちどマサラタウンからやりなおそう。


デシタル類推能力批判 Ver.1──喩めぐり

  一

わたしたちは日本語で、ときどき「デジタル」とか「アナログ」といったりする。こういう言葉を和製カタカナ えい といったりもするが、すでにひとつの言語である。あるいは、死語となる日が来るかもしれない、だが、この囈語ナンセンス を方言っていた、 のそこにある無意識は、姿をかえ、そのときどきのわたしたちの生活にひょっとこ面で、紛れ込んでいるはずだ。

おう、言葉にちらつく影を見つめているうち、気づけば目の前が真っ暗になっていた体験がきみにもなかったか。あったにちがいない。思い出せないならただ忘れているだけだ。闇のなかで両目をかっぴらいている(気分つもりでいる)と、次第に浮き出てくる能面のようなものがある。花といってもいいし、沈黙といってもよい。そこまできたらあとは睡るだけだ。

とはいえ、わたしたちは時として不眠症におちいる。そういうとき、わたしならはやいうちに夜を徹することにきめてしまう。睡ろうとする努力など、それじたい悪夢ではないか。かんがえてみれば、すでに夢をみているのかもしれない。必要なのはむしろ目醒める努力

──ようするに現代人たるわれ〳〵も­ぐっすりと心おきなく夢のない睡りを眠りたい

そのときだ、わたしたちのふたたび、宇宙をじかに嗅ぐことができるのは。胞衣えな をつくりださなければならない、やがてやって来る、だれもが眠れない夜──その祭の日までに。

                  

……たとえば、右のように、わたしが比喩を弄した文章を書き、それを読者が読む。そこで、多少なりとも、わたしたちのあいだに意味の伝達が興こったとする。だが、それはあきらかに、新聞(でなければネットニュース)の記事を読んだときにおこる伝達とは 質感◎◎ がちがっているはずだ。もし、わたしたちが記者だったら、右のような文章を書いたとたん職を失うことになる(万が一にも上司とわたしたちとのあいだに一定の人間的な交通が成立していたばあい、儀礼上、かような逸脱にたいする弁明くらいは求められるかもしれない)。

なぜ、わたしたちは失業しなければならないか。それはわたしたちがある能力に欠ける、か、或いはイシキてきに(つまりは情状酌量の余地なしで)この世界における法律を破ったがためだ。そういう輩は、アウトローをまっとうするしかない。この世界においては、比喩の使用に一定の限度がもうけられている。ただし、その法律はみえない文字で書かれている。

比喩をつかうということは、飛び道具をつかうことに等しい。喧嘩ならよいが、ルールの下で行われるスポーツにおいて、それは反則だ。比喩のうちでもゆるされるのは、水泳における、競泳水着くらいのものだろう。それもあんまり高性能であれば禁止の対象になる。

では、具体的に記事においては、比喩についてのいかなる規制がもうけられているというのか。いや、あきらかな反則はどれにあたるか。大まかにいってそれは、理念上、だれもが平等に理解できる程度で、といったところか。そして余分ではないということ。例えば、

 三月九日、東京は終日、雨に見舞われた。
 三月十日、東京は終日、槍のように刺す雨に見舞われた。

左は、このあとにつづく文意しだいでは、ぎりぎりOKというくらいだ。…にもかかわらず、伝説のバンドBOØWYの復帰野音ライブは超満員であった─などと続くのであれば。ここでは、ライブの熱狂ぐあいを、伝達できれば記事の目的は果たされる。…にもかかわらずで呼び出される逆説てき事実のコントラストを上げるとともに、じっさいにライブに参加したものの体感を伝える手段として、この比喩はおそらく合法である。くわえて、槍のように差すが、比較的使い古された、慣用表現であることが検察官の目をやわらげている。

 三月十一日、東京は終日、氷柱のように刺す雨に見舞われた。

「…のように」という形は、おおく直喩と呼び習わされている。おなじ直喩でも、槍と比べ、氷柱とくるのは珍しい。珍しいというくらいで、始末書をかかされるたぐいものではない。

 三月十二日、東京は終日、水のように差す雨に見舞われた。

うーむ、新聞社によっては手直しを求められそうだ。とはいえ、「水を差す」という元の慣用句がわかるかたちであるので、意味はスンナリ通る。次のはどうだろう、

 三月十三日、東京は終日、黒猫のように横切る雨に見舞われた。

やはり慣用表現はいける。不幸or幸福のしらせか地域差のあるところに、意味の揺れがあり、もし仮にこのあとにライブの成功が語られるのであれば、意外とわるくない比喩である。

 三月十四日、東京は終日、時計のように軋む雨に見舞われた。

なるほど、こう書いて記事を成立させるためには、なかなかの文才がもとめられるかもしれない。古びた柱時計などのイメージなのだろう、その木の軋む音は、冷たい雨のいやぁなかんじを催させるし、かつての伝説のバンドが再結成するという時の経過、或いは止まった時のうごきだす感じにもつながる。そして、この雨というのが、ふつうの意味での雨なだけでなく、観客が浴びた音楽や、その感動の体感、朝から続いた気分をあらわす、もうひとつの心の比喩になっている。このばあいの雨はしばしば暗喩(メタファ)と呼ばれる。

 三月十四日、東京は終日、時計のように軋む雨に見舞われた。

線を引いた部分をひとまとまりに比喩として読むこともできる。直喩と暗喩との〈二人羽織喩〉とでもいうおうか、もちろん前面(直)と背後(暗)とで。まあ気休めにすぎない。

いったい比喩を成り立たせているのは何であろうか。ひとっとびにわたしたちはそれを、受容者の類推能力による、といいたい。槍のように刺すと言われたとき、聞き手は体験したことがなくとも、槍の飛び交う合戦の映像を思い浮かべるし、もしも刺さったとしたら痛かろうなともおもう。そしてこの槍の感覚を、雨に写し替える、或いは重ね合わせる。氷柱のように刺すならば、その冷たさと、氷柱の落ちる感じを。時計のように軋むならばその音にもたらされる生理てきの感覚を。

少しケースが異なるが、水のように差すといわれれば、すぐに「水を差す」という慣用句が想起される。話の腰を折る、気分を損ねるというような意味だが、この主体を雨にかけて擬人化しているのだと判断する。これも又、広ろくとれば類推の範疇にある。

では、時計のように軋む雨ときこえたらばどうか。自然現象だろうと、思い出だろうと、文明の利器だろうと、畢竟心と身一つで感じているにすぎぬものを、ひとかたまりに感じる、言葉の受容力/造形力。これも又、大摑みの類推能力に含めてよいだろう(ただしここには創造性が働いており又わたしが受容者という語をつかっているのにも理由がある)。

ここで用語に大事なルビを振っておこう、類推能力アナログ、と。

  二

 三月十五日、東京は終日、犬のように濡れる雨であった。
 三月十六日、東京は終日、雨のように塞ぐ猫であった。
 三月十七日、東京は終日、濡れたようにひしゃぐ雨であった。

これらはわたしたちの考では暗喩になっていない例文。新聞でも滅多にお目に懸からない。

一つ目は、(人が)犬のように濡れる(ほど激しい)雨、といっているだけの省略のある直喩。

二つ目は、(が降っている時)のように塞ぐ、とまたしても省略が挾まれ、ついで東京をとして擬人(動物)化している比喩と釈る。しかし、暗喩といったらまだ異和感がある。

さいごは、濡れた(物の)ようにひしゃぐで雨に掛かる直喩。 ひしゃげた﹅﹅﹅﹅﹅ は物につく形容なので、この場合、雨が現象としてではなく重量・質感をともなって表現されることになる。

ならば、暗喩になっているとははたしてどういう文章か。

 三月十八日、東京は終日、雨が犬のように濡れている。

こうなってしまえばもう、始末書ものだ(まだ解雇にはいたらない)。ところでこのばあい、終日をシュウジツでなく とよまずにおかれぬ、言葉の力があるようにおもえる。というのも、…であった。という文末にくらべ、…ている。は主観の匂いがつよい。シュウ ジツという音は無臭であるが、終日ひねもす というひびきには肌ざわりがある。音と訓、あるいはカタカナとひらがなにおける語感のちがい──これは受容者の主観に属するが、日本語という場において、ある程度一般共通に語れる客観的事実として扱える(詩人はときにこれを絶対としたい願望をもつが、そのためには和歌・俳句のように音数の極まった定型がいる)。いやむしろ、これを信ずるところに、言語による表現(伝達交換でなく)が成り立つのだといえる──主観と客観の別がイシキせられなくなる境において。──するとどうなる?

 三月十九日、東京は終日、雨が、水のように濡れている。

良心的な新聞社ならカウンセラーを紹介されるかもしれない。少なくとも休みを与えられるだろう。あなたはそこで詩人になればよい。この文章には、どこにも病気は見当たらない。

「雨が、水のように濡れている。」これは直喩はおろか暗喩でもない。いや比喩ですらない。だが、まごうかたなき類推能力の産物ではある。この力の下にあっては、水が濡れているのはナンセンスではない、客観的事実である。山がある、川が流れている、雲が…という類の。「雨が犬のように濡れている。」を〈有心〉とすれば、こちらは〈無心〉か。──

わかりやすい例でいえば、たぶん前者はロック音楽の歌詞にできる、後者はそれができない、歌にならないということだ。ためしにメロディをつけてみてほしい、絶対にできないだろうから。少なくとも、かっこよくはならないし、歌っていてなにか喉につまるものがある。ちょうど、雨がのあとに置かれた「」のように、こいつが喉を切り裂いてしまう。

ところで、わたしたちの例文は、「ように」という語にこだわってきたことに気がつく。学校教育の国語(現代文)の教科書では多く、直喩と暗喩との区別などといって、「ように」「まるで」「みたいに」など比喩であることを明示する語がついているものを直喩と謂い、〝街は猫だ〟のように比喩であることの表示がないものを暗喩と称う、というような説明がなされている。だがこの機能主義以下の戯言は、すでにこの文章の上では破棄されている。

 三月十四日、東京は終日、時計のように﹆﹆﹆軋む雨に見舞われた。

標識があるのにもかかわらず、わたしたちはここで、が暗喩として活きている、と考えた。

 三月十八日、東京は終日、雨が犬のように濡れている。

例えば、これが「牛が夜明けの干し草のように濡れている。」だったらどうか。或は、「牛が夜明けの骸骨のように濡れている。」だったら? それとも、「牛が骸骨星座の夜明けのように濡れている。」なら。──わたしたちは、暗喩や直喩などという区別がもうすでに役立たずの棒きれにすぎないのに気づき始めている(核戦争の後の荒野の立入禁止看板)。

火乃絵は、そんな遊戯れのあとで打ち棄てられた亡露屑のようなものを好きだ。拾ってこんなふうにつかってしまう、「雨が犬のように濡れている。」は〈暗喩〉で、「雨が、水のように濡れている。」が〈直喩〉、と。ひらがなに展けば〈あん (暗) ゆう(謂)〉と〈ぢか(直) ゆう(言) 〉といったところか。だが、そんなPCR検査みたいなのは面白くない。ただ、この二つの文章の質の違いを手触りできていればそれでいい、括弧つきの言葉なんて目障りなだけだ。

  三

そもそも、喩とはなんだろうか。この謎字について考えるほうがよっぽど本質に近づける。

 道に対して加えられている呪詛を除くこと、除道という。除はまた途と似た構造の字である。その基本形は余であるが、余は古くは とかかれた。大きな針、すなわち上部にA形のとりのあるはりである。これは治療にも用いられて、これをもって膿血を除くことをという。その初文 は、舟形で示される盤に、をもって膿血を注ぐ形である。はまた呪詛に用いた。

(『漢字生い立ちとその背景』白川静)

この学説を鵜呑みにするとか、しない、とかではなく、この原イメージがどのくらい食い入ってくるかというわたしたちの実感のほうが大切だ。現代の日本語つかいのわたしたちの感覚では、この字源説からはすぐに輸血という医療行為が目に浮かぶ。喩の右(つくり)は、むろん兪である。輸血することによって、癒される。心に血が充ち満ちて、愉しくなることを愉悦という。言葉が満ちるなら、諭されるということになる。これも又医療行為である。庶民の目から見た、福音書のイエスは、なにより医者、癒す者と映ったであろう。

 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が集まってきたので、舟に乗り、湖の上で坐って教えられた。群衆は皆おかにいて湖の方を向いていた。たとえ をもって多くのことを教えられたが、その教えの中でこう話された、「聞け、種まく人が種まきに出かけた。まく時に、あるものは道ばたに落ちた。鳥がきて食ってしまった。またあるものは土の多くない岩地に落ちた。土が深くないため、すぐ芽を出したが、日が出ると焼けて、しっかりした根がないので枯れてしまった。またあるものは茨の根が張っている中に落ちた。茨が伸びてきて押えつけたので、みのらなかった。またあるものは良い地に落ちた。伸びて育ってみのって、三十倍、六十倍、百倍の身がなった。」そして「耳の聞こえる者は聞け」と言われた。
 ひとりでおられた時、弟子たちが十二人とともにこれらの譬の意味を尋ねると、言われた、「あなた達内輪の者には、神の国の秘密が授けられているのでありのままに話すが、あの外の人たちには、すべてが譬をもって示される。これは聖書〔旧約〕にあるように

彼らが見てもわからず、
聞いても聞いても悟らないようにする〟ためである。

そうでないと、心を入れかえてわたし(神)に帰り、罪を赦されるかもしれない。〟」

 また彼らに言われた、「しかし外の人たちに神の国の秘密が隠されるのは、ただしばらくである。明かりをもって来るのは、枡の下や寝台の下に置くためであろうか。隠れているものであらわされるためでないものはなく、隠されているもので現われるためでないものもないからである。耳の聞こえる者は聞け。」また彼らに言われた、「わたしから聞くことに気をつけよ。わたしの言葉を量る量りで、あなた達も神に量られる。そしてよく聞く人は、持っている上になおつけたして与えられる。持っている人にはさらに与えられ、持たぬ人は、持っているものまでも取り上げられるのである。

(塚本虎二訳ルビは適宜省略引用者) 

マルコ伝の第四章ではこのように、イエスが比喩をもって話す訣が語られている。わたしたちのさきほどの言葉でいえばおもに〈暗喩〉である。しかしこの直後、神の国の秘密が授けられているといって比喩の説明をしてもらえていた弟子たちは、つまづくことになる。

 その日、夕方になると、「向う岸に渡ろう」と言われる。弟子たちは岸に立っている群衆を解散して、イエスが舟に乗っておられるのを、そのままお連れする。幾艘かほかの舟もついて行った。すると激しい突風がおこり、波が舟に打ち込んできて、もう舟いっぱいになりそうになった。しかしイエスはとも の方で枕をして眠っておられた。弟子たちが「先生、溺れます、構ってくださらないのですか」と言って起した。イエスは目をさまして風を叱りつけ、湖に言われた、「黙れ、静かにしないか!」たちどころに風がやんで、大凪になった。彼らに言われた、「なんでそんなに臆病なのか。まだ信じないのか。」弟子たちはすっかりおびえてしまって、「この方はいったいだれだろう、風も湖もその言うことを聞くのだが」と語り合った。

これが〈直喩〉である。その明白は特徴は、〈暗喩〉が読み手とその時代・情況によってほとんど無限の解釈を許す(生む)のにたいし、〈直喩〉は、たんなる事実報告のような文体で、それ以上の意味を附与することができないところにある。そのことにより、文章のもつ含みが〈暗喩〉の豊饒にたいし、零という非対比をとる。含みよりも余白をとるのだ。マタイ伝の著者は、この二つの比喩のちがいを明確に意識して、これを構成している。

だが、比喩は比喩であって、何喩だろうとその心はひとつなので、いまはむしろこの二つの喩のあいだの地ならしがしたい。やはり山括弧の尖りが目につくのである。ここでわたしたちは、自らの発語をやめ、キリスト教にたいしてわたしたちと同じく異邦人である、吉本隆明の考えに耳を澄ませてみる。『論註と喩』という書物の後篇「喩としてのマルコ伝」において吉本は、第十三章末の「天地は過ぎてゆくだろう。けれどもわたしの言葉は過ぎてゆかない」というイエスの言葉(とその記述)に触れ、

 「けれどもわたしの言葉は過ぎてゆかない」とはどういうことか。いったん書きとめられた言葉は書きとめた者とかかわりなく生きつづけるといっているとはおもえない。また口から出た言葉はかならず他者の記憶に落とされて残されるといっているのでもない。そういう意味でならば言葉は書かれても語られても瞬時に過ぎてゆくといってもおなじことだ。マルコ伝の全体が暗喩するところでは言葉はある〈信〉の状態に支えられていると、成就されないかわりに滅びることもなく永続するといっているのだ。このある〈信〉の状態こそマルコ伝自身が喩としてあるその根源の状態である。

マルコ伝自身が「天地は過ぎてゆくだろう。けれどもわたしの言葉は過ぎてゆかない」という暗喩となっている、という肌感覚は詩人としてさすがのものである。けれどもまたあたらしい尖括弧〈信〉が出現してしまう。この解体はどうか、先の第四章の引用を、今度は吉本の翻訳でくりかえす。引用文と地の文もまた、地続きとなっているからだ。長くなる。

 その日、夕方になってイエスは云った。「さああちらの方へ行こう」。弟子たちは群衆と離れて、イエスが舟に乗っているところへ一緒に乗って舟を出した。ほかの舟もあとから行った。そのとき烈しい颱風がおこって、浪がうちこんできて、舟はいっぱいになりそうになった。イエスはとも の方に蒲団を枕にしてねていた。弟子たちは呼び起こしていった。「師よ、わたしたちが死にそうになっているのをご覧でないのですか」。イエスは起きて風を戒め、海に云った。「黙れ、静かになれ」。すると風は止んでおおきな凪になった。そこで弟子たちに云った。なぜこのように臆するのか、信仰がないのはどうしたことなのか」。かれらは大そう畏れて互いに云った。「これはいったいどういう人なのか。風も海も云うがままになってしまうとは」。

 颱風が荒れ狂って浪が逆巻く海にむかって、風をいましめ「黙れ、静かになれ」といったら海は即座に静まってしまった。この奇蹟はかくべつ旧約書の具体的な言葉に沿ったわけではない。主人公は超能力を旧約の言葉によって与えられていたかもしれないが、超能力を行使すると主人公の個人的な強大さが印象づけられる。むしろ旧約書の言葉からは自由な、荒唐無稽さだといえよう。けれど奇蹟の言語的な価値は荒唐さとは別だ。奇蹟は言葉のひとつの機秘に属している。この奇蹟の価値は、信仰が言葉を超越すれば颱風に荒れ狂った海は、言葉だけで風も波も静かな海に転換する表現が可能なことを暗示していることだ。言葉は環境としてすでに与えられたものだから、意図しさえすればどんな表現も可能だというのは間違っている。荒唐さとおもわれることの耻辱、出鱈目で無意味だとおもわれることの侮蔑、そしてそんなことはありうるはずがないという嘲笑等々を超えて、ある不可能性が言葉によって可能とされるときが奇蹟なのだが、こういう個処は作者の意図に忠実に読むときには、言葉で成就されるものは必ず現実に成就されるという〈信〉が存在する。いやむしろ言葉が成就するがゆえに現実は成就するのだといった方がいい〔傍点引用者〕。これが奇蹟のメカニズムである。「黙れ、静かになれ」という主人公イエスの海にたいする呼びかけの言葉は〈荒れ狂った海〉という対象を〈静かな凪いだ海〉という対象に転換させることができる言葉だということは確かなのだ。この確かさにマルコ伝の世界は支えられている。この確かさがなかったらマルコ伝そのものがつまらない幼稚な主人公の子供じみた行状記になってしまう。

 主人公イエスの吐く「黙れ、静かになれ」という言葉は、現在の五巻で字義どおりに解すれば〈黙りなさい、静かになりなさい〉という意味しかない。もしこれだけの意味だとすれば、この言葉によって荒れ狂った海が静かに凪いだという記述は、天地が終わっても終わらない永遠に荒唐無稽な物語の節片にすぎない。けれど主人公イエスが「黙れ、静かになれ」と荒れ狂った海に呼びかけたときこの言葉はちがう意味に変貌している。それは主人公イエス(に象徴される原始キリスト教)が、じぶんの言葉は天地が過ぎても過ぎてゆかないという〈信〉をもっているからである。変貌した意味の総体が何であるかを解くことが、マルコ的世界の意味を解くこととおなじである。それが何であるかは、さしあたってわからない。ただ荒れ狂った海という対象概念を静かに凪いだ海いう対象概念に転換させうる言葉であることは確実なのだ。

写してみてはじめてわかったことがある。前半と後半のパラグラフはほとんど同じ内容の語り直しであると。吉本は、書くことで、何かに触ろうとしている。そして、〝それが何であるかは、さしあたってわからない〟という、いわば純粋理性批判をおこなう。これが重要である。そして、表ではそうなのだが、この語り直しのモチーフは無意識には、信という字についた尖り括弧を取れるかというとこにあったとおもわざるをえない。それはできなかった。だからこそ、〝それが何であるかは、さしあたってわからない〟という判断に至る。いわばこの山括弧は、自身の資質の周りに半ばは意識てきに半ばは無意識に築きあげた心の堰のようなものである。これが解体するまでには、まだしばらくの時間がかかったといえよう。その瞬間は、必ずや批評の形式ではなく、詩作においてでしかありえない。

詩人が自ら破った堰をいまさらいつわりの沈黙にさらそうとは思わない、この詩は同時に思想家としての死さえ意味している。生涯一篇の詩だとおもう。

   十七歳

ょう
葉がとめどなく溢れた

んなはずはない
の生涯にわが歩行は吃りつづけ
いはとどこおって溜りはじめ
うとう胸のあたりまで水位があがってしまった

ょう
葉がとめどなく溢れた
七歳のぼくが
くに会いにやってきて
のように胸の堰を壊しはじめた

この詩で章を締めくくるのが、批評の態度であろうが、わたしたちは批評ではなく、仕事を引き受けてゆく次の世代だ。吉本がマタイ伝で語ろうとした喩の機秘もまた、詩をとおしてしか、或は詩作という行為をとおしてしか、表現することはできない。これは次のわたしたちの巫山戯たような詩ではなく、吉本隆明という詩人の全体についての註にふさわしいが、〝ときどきは露骨に失敗した喩の全体はこの書〔マタイ伝〕のように、思想詩をつづるかもしれないとおもわせる〟。─

   東京日記(断篇)

月九日、東京は終日、雨に見舞われた。
月十日、東京は終日、槍のように刺す雨に見舞われた。

月十一日、東京は終日、氷柱のように刺す雨に見舞われた。
月十二日、東京は終日、水のように差す雨に見舞われた。
月十三日、東京は終日、黒猫のように横切る雨に見舞われた。
月十四日、東京は終日、時計のように軋む雨に見舞われた。

月十五日、東京は終日、犬のように濡れる雨であった。
月十六日、東京は終日、雨のように塞ぐ猫であった。
月十七日、東京は終日、濡れたようにひしゃぐ雨であった。
月十八日、東京は終日、雨が犬のように濡れている。
月十九日、東京は終日、雨が、水のように濡れている。
月二十日、東京は終日、驟雨

月二十一日、東京は終日、水が濡れている。
月二十二日、東京は終日

  四

古代中国からシルクロードを歩きとおし、中東のイェルサレム近郊まで来た。文字でおっていくならこういう普遍せかいへと出る。しかし、「ゆ」という音を、わたしたちの耳はすでに日本語として受け取っている。喩字とゆ音には、わたしたちの論敵ソシュールを俟たず、必然性をもたない癒着だ。だが、言(ゆう)と喩(ゆ)のおとの類似の偶然は、日本語の性質上、わたしたちの言語使用の無意識に語(騙)りかけずにはおかない、ということを忘れるわけにもいかない。言葉はつねに使用の中でのみ活きている。使用なければ、源泉もまた枯れている。漢語といわれる大陸由来の語彙も、日本語に吸収されてからは、使いこなされ、すでに日本語としかいえぬシロモノとなっている。乾いたGibsonの木材も、この島国に輸入された暁には、育った頃のように雨の中の風土におかれ、その響を変じるように(インド=ヨーロッパ語族のソシュールの言語論もこの沼沢地方には通用しない。)

この地方にあって喩という概念を特権的(ひのえの嫌いな言葉だが)につかいはじめたのは、敗戦後の詩人たちである。かれらにとり詩の本質は喩の中の喩、暗喩にほかならない。そして、この理念は、ほとんど十年と続かなかった。器の舟形がなくなったか、注ぐ膿血がなくなったか。T・S・エリオットによって、聖書より抽出された近代概念〝荒地〟を、宗教・風土せいのちがい(つまり言語のちがい)を無視して、観念的に輸入した手捌きで、喩という普遍せいを、自らの足の下の泥濘でなく、空の噓っぱちの風からとったからか。

だが、わたしたちは言い聞かされたような断罪を自ら下すのを好まない。荒地派や戦中派と呼ばれる詩人たちが、敗戦によって負った傷を、自ら癒そうとし、肋骨の下におどんだ膿血の口から溢れ出たとき、喩はかれらの詩学となった、この必然だけはいつでもわたしたちの身に起こり得るという意味で、まったき必然である。─傷はほんとうに癒えたのか。

よ、昨日のひややかな青空が
刀の刃にいつまでも残っているね。
がぼくは、何時何処で
みを見失ったのか忘れてしまったよ。
かかった黄金時代──
字の置き換えや神様ごっこ──
それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

つも季節は秋だった、昨日も今日も、
淋しさの中に落葉がふる」
の声は人影へ、そして街へ、
い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

葬の日は、言葉もなく
会う者もなかった、
激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
にむかって眼をあげ
みはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横わったのだ。
さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
よ、地下に眠るMよ、
みの胸の傷口は今でも痛む

「死んだ男」三五連 鮎川信夫   

鮎川信夫の死後、荒地派の弟分として、戦後詩(戦中派の詩)の最期を看取るかのように発された吉本の短章を引く、「鮎川信夫が近代以後の詩にはじめてもたらしたもの」。

 鮎川信夫という名は、戦乱にえぐられた都市の廃墟の場所や、流れのとどこおった運河の水や、飢えた猫のように歩きまわる人々が何べんも渡った木や鉄の橋などが、みんな言葉として倫理の別名だった戦後の時代に、それらをすべて詩の暗喩にしてしまう方法を、近代以後のわたしたちの詩に、はじめてもたらした最大の詩人であった。わたしたちはみな、かれの詩の言葉に誘われて廃墟のうえを彷徨し、文明の現在の偉大な混沌にまでたどりつくことができたのである。

               *

「ものごころついた頃から、私は全身にその精霊の風を受けていた」。敗戦から五年の後に生まれた『精霊の王』の著者、中沢新一は、同著ですでにこのように書くことができている。

伊香保ろのソヒ の榛原。ねもごろに奥をなかねそ。まさかしよかば
口語訳)伊香保山の岨道ソバミチ 王孫ツチバリ の沢山生えた原ではないが、ねもごろ即ちくよくよと将来の事迄、かけて心配する事はありませんではないか。目の前さへよければ。

敗戦後社会の透明の風が、荒地派の詩人たちにさえ、吹きはじめていたのではなかったか。──引用をつづける。

伊香保ろのサカ ヰデに立つヌジ の、あらはろ迄も、さねをさねてば
口語訳)伊香保の山の八尺即幾尺とも知れぬ高い用水濠の辺に立つてゐるニジ ではないが、あの様に人の目に付いて現はれる迄も、満足する程寝たならば、見つかつてもかまはない。

 ここにあげた例には、都市的な文化の中でソフィスティケートされた和歌の表面からは見えなくなっている「喩」の特質が、あらわに表に出ている。はじめの歌では植物が込み入って生えている様子がまず語られ、それを「それではないが」と屈折させてから、くよくよと思い悩む心理状態に重ね合わせている。つぎの歌でも最初に大空にたかだかと出現した虹のことが切り出され、それを「その虹ではないが」と意味場を折り曲げてから、愛人関係が世間に知られるという社会的な話題につなげられている。これらの素朴な歌では、二つの意味が連続する平面上でなめらかに接続していない。「喩」によって接続される意味場同士が、ねじ曲がってつなげられているのである。
(中略)異なる意味場がこんな風につなげられたにを目のあたりにすると、人はそこに第三の新しい意味の場が立ち上がったように感ずるものだ。それによって惰性化した意味の世界には真新しい息吹が注ぎ込まれて、浄化される。

(『精霊の王』中沢新一) 

折口信夫の『口訳万葉集』から東歌をひき、持ち前の精霊の風ふうでホットになっているが、言語表現としての喩についてほとんど高度なことを言っているわけではない。作歌・作詩の苦心を経ていない学者らしい、この言語表現にたいするピュアさは、案外古代歌などをかたるのに適役なのかもしれぬ、歌えなくなった詩人の言葉にたいする中年風の現実主義よか。だが、よく注意して、ものごころついた頃から、全身にその精霊の風を受けていたという著者の文章を読んでみる。いや、注意というより、むしろ放心したように、意味でなく、口調や語感に耳を澄ませてみる。そこでなによりも気にかかるのは〝浄化〟という響だ。(中略)の前後のパラグラフは、それこそ、二つの意味が連続する平面上でなめらかに接続していない。「喩」によって接続される意味場同士が、ねじ曲がってつなげられている。この方法は、東歌より著者に伝来したものでなく、むしろ著者が東歌に付与している魔術のようなものだ。わたしたちは今、先に取るに足らぬ戯言として無視してあった精霊がたりを、もういちど拾い上げてみるべきか。──

この「喩」の関係をx + iyという複素数で表現してみることもできる。二つの意味場は、同じ実数同士として平面上で加え合わされるのではなく、虚軸を入れて垂直にねじ曲げられた上で、くっつくのでもくっつかないのでもないようなやり方で、たがいに接続していく。このような「喩」の力によって、世界の様相はめざましい転換をとげることができる。

ここで著者は、大学受験レベルの数学の式を「喩」として使っている。この括弧つきの「喩」をわたしたちはどうにも喩として認めるわけにいかない。この「喩」には、舟形も膿血もないからである。文字は、それじたいがデジタル発想の起源のようなものであり、とくにわたしたちがつかっている活字というのは、手書きで書かれる文字を、図案として一般化したものであって、デジタルという能力の賜物である。だが、このデジタルは、使用者であるわたしたちのアナログ感覚に支えられている。先にもいったが、わたしたちが話している言語の音と書かれた文字の形態とのあいだに、必然はない。約束があるだけだ。わたしたちが物心つかぬうちに──いや母語を意識的に駆使するところが物心の発端であるが──いわば無意識と意識のあわいで、しゃべれるようになるようには、文字を書けるようにはならない。読み書きができるようになるためには、母語の獲得とは、紙一重でありながら、あきらかに別種の訓練がいる。人間は母語なしには生存できないようには、文字を必要としていない。文明のなかで不便は生じたとしても、自然条件のうちにあって危機に瀕するわけではない。あたりまえだが、母語を持たずにして、文字だけをもっているということはありえない。それはただの映像にすぎず、風景と弁別することは不可能である。もし人間の文字を読むことができる動物がいるとすれば、それは神か精霊のたぐいだろう。わたしたちが、書かれてある文字を言語として認識できるのは、声コトバと書き言葉とを類推能力 アナログ によって架橋することができるからにほかならぬ。けっして数式のような必然項によるのではない。このことはカントがいみじくも『判断力批判』のなかで述べている。

即ち想像力〔類推能力ととってよい─引用者〕は吾々に取りて全然不可解なる仕方に於て、概念に対する符号をば、時に応じて遠い過去からしてさへも換起せしめるばかりでなく、異種類或は更に同種類に属する諸対象の名状し難き多数の中からして、一定の対象の姿及び形をさへも再生せしめることが出来る。更に又、心意が比較を事とする際には、想像力は、仮令その過程が十分に意識にあらはれないにしても、あらゆる点から推して恐らくは実際に、形像を形像の上に言はば重ね合はして、そして数多くの同種類の形像の合致からして、其等総てに対する共通の尺度たるべき平均的なるものを作り出すことも出来るのである。例へば或人が千人の成人の男子を見たとする。ところで彼がその比較の上から評価せらるべき、規準的大きさに就て判断を下さうとするならば、其場合即ち想像力は(私の見解に従へば)まづかの形像の大多数を(恐らくはかの千人の悉くを)相互に重ね合はすのである。そして─視覚的表現からしての類推が此所で私に許されるならば─かの形象の最大多数が重なり合ふ所の空間に於て、そしてまた色が最も強く塗り重ねられてゐる個処に当る所の輪郭の中に、高さ於ても幅に於ても最大の体格と最小のそれとの両極端からして、同一距離に在る所の 平均的大きさ﹅﹅﹅﹅﹅﹅ 〔傍点カント〕が認められる。これが即ち美しき一個の成年男子の体格なのである。(同じ結果に吾人は、例へば千人全体の高さと幅(及び厚さ)とを測り、之をそれぞれ総計した和を、千を以つて除するならば、器械的に到達することもできるであらう。しかし想像力は正にこの事を、かの諸形態の複合的把握からして、内的感覚の器官の上に生起する所の力的効果に依りて成し遂げるのである。〔傍線筆者〕)(大西克礼訳)

翻訳がやや古めかしいのは、手元の吉本隆明著『言語にとって美とはなにかⅠ』から孫引したからである。思想詩人はこの引用からという自らの言語論の概念を抽出しているが、わたしたちはそちらへ行かない。カントが行った視覚表現からしての類推によって像づくられた〝美しき一個の成年男子の体格〟のイメジを、そのまま活字と考えてみよう。このとき〝千人の成人の男子〟は手書きの姿形のまちまちの同じ字だといえる。この類推からもういちどゆっくりと引用文を読んでみれば、活字の生成の現場を追体験できる(やや解像度は低いものの)。これがアナログの感覚といったら反感を抱く者もいるかもしれない。これこそデジタルではないか。いや、最後の括弧内の註において、カントは〝同じ結果に吾人は、例へば千人全体の高さと幅(及び厚さ)とを測り、之をそれぞれ総計した和を、千を以つて除するならば、器械的に到達することもできるであらう〟と述べている。これは正確なデジタル理解であり、筆者が傍線で強調した部分、〝しかし想像力は正にこの事をかの諸形態の複合的把握からして、内的感覚の器官の上に生起する所の力的効果に依りて成し遂げるのである〟は、アナログについての表現としてかなりの含みのあるものと思える。

わたしたちがときとして遣う「デジタル」という和製英語は、むろんdigitalという英語から来ている。その英語は、ラテン語のdigitusに由来するという。指という意味だ。つまり、指をつかって数える、という原始的な人間の所作からとっている。いっぽう「アナログ」は英語のanalogy(類推する)に発し、語源としてはギリシア語のαναλογία(比例)に拠っている。先にわたしたちが「デジタルは、使用者であるわたしたちのアナログ感覚に支えられている」といった感覚に添えば、デジタル=指にたいし、アナログ=手という類推が可能だ。手、不思議ではないか。手、それはどこを指している? 肩や腕や肘や腱や掌や指。いったい手はどこにあるのか。どこにもない、ただそれら部分が有機てきな全体感をもって機能しているときの、わたしたちの〝内的感覚の器官の上に生起する所の力的効果に依〟っている。これでカントのいかにも「デジタル」的な硬い表現が、たしかに「アナログ」のやわらかい手触りに支えられている喩となっているのがわかる。中沢新一の「喩」にはこの言語の肌感覚がない。それとも、そう感じるのはわたしたちがかれのいう精霊の風とやらに無縁なためだろうか?

  五

彼は大斎期の終わりと復活祭の一週間を、ずっと病院で過ごした。そろそろ回復しはじめてから、彼は熱が出てうなされていた間の夢を思いだした。病気の間に彼はこんな夢を見た。全世界が、アジアの奥地からヨーロッパへ向かって進むある恐ろしい、前代未聞の疫病の犠牲となるさだめになった。ごく少数の、何人かの選ばれた者を除いて、だれもが滅びなければならなかった。顕微鏡的な存在である新しい旋毛虫があらわれ、それが人間の体に寄生するのだった。しかもこの生物は、知力と意志を授けられた精霊であった。これに取りつかれた人びとは、たちまち かれたようになって発狂した。しかし、それに感染した人ほど人間が自分を聡明で、不動の真理をつかんでいると考えたことも、これまでにかつてなかった。人間はかつてこれほどまで、自分の判断、自分の学問上の結論、自分の道徳的な信念や信仰を不動のものと考えたことはなかった。

(ドストエフスキイ『罪と罰』江川卓訳) 

主人公ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフがシベリアの監獄病院でみた熱病の夢の描写はこのあと、わたしたちの21世紀前半現在をおもわせる、疫病と戦争のパニックをほとんど忠実になぞりはじめる。大文豪の予言として、じっさいに少し騒がれたりもした。しかし、すでに第三章でマルコ伝の文章に触れてきたわたしたちは、そのような戯言にはいっさい与しない。喩の力は、予言などという人間の弱気な態度に還元されない。もし、予言ということがあるとすれば、それはただの願望にすぎまい。夢を見る、ということはけっしてそんなことではない。夢を見た瞬間、ひとは動き始めている。必ずそうなるのは、すでに叶っているからだ。それはすでに現実であって、未来の先取りなどでは断じてない。もし未来が視えたとしたら、わたしたちはもう飽きてしまい、動き出そうとしないだろう。それが未来において無いからこそ、いや、未来そのものが無いからこそ、人は夢を見るのだ。

中沢を断罪することはできない、知力と意志を授けられた精霊=旋毛虫(トリフィーナ)に、すでにわたしたちはすべからく取り憑かれている、夢の語り部はそういいたいのだ。作者ドストエフスキイの聲は沈黙そのものだが、つまり、聴く耳を持とうとする者にはだれにでも聞こえるはずだ。それは自らの内部に耳を澄ませるのとおなじだ。予言などといって、褒め称えたり、戦慄を覚えたなど口にする者は、書かれたことしか見ていない。そうではなく、この夢を語り部にかたらせながら、押し黙っているドストエフスキイの心を、同じ心でもって聞かねばならない。この伝達の仕方こそ、喩の力によるものにほかならない。

全世界でこの災難を免れられるのは、新しい人間の種族と新しい生活をはじめ、大地を一新して浄化する使命を帯びた、数人の清い、選ばれた人たちだけだったが、だれひとり、どこにもこの人たちを見かけたものはなく、彼らの言葉や声を聞いたものもなかった。

もういちどいおう、未来はまだ無い、と。『精霊の王』のむすびはこうなっている。

「世界の〔精霊の─引用者〕王は見えない空間に王宮を構えている。その王宮はしかもたえず移動しているために定めがたく、またたえず運動し変化しているために同一性をあたえることができない。不確定にメタモルフォーシスしながら動いていくこの王の領土は、欲で濁った人の目から見えなくしてしまうために、不思議な防御膜で覆われている。「世界の王」はいついかなるところにも存在し、働きをみせているのに、まるで現実の時間のなかにはいないように感じられるのである。(「在々所々ニ於キテ示現垂迹シ給フトイエドモ、迷イノ眼ニ見タテマツラズ、愚カナル心ニ覚知セズ『明宿集』
(中略)またこの王は、未来の人間の世界に出現しなければならない「主権」の形についての、明瞭なヴィジョンを抱いており、それをなにかの機会には、心ある人間たちに伝えようとしているように、 私には見えるのである﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ 〔傍点引用者〕。古代の王たちから現代のグローバル資本主義にいたるまで、偽の「主権者」たちによってつくりあげられてきた歴史を終わらせ、国家と帝国の前方に出現するはずの、人間たちの新しい世界について、もっとも正しいヴィジョンを抱きうるのは、諸宗教の神ではなく、長いこと歴史の大地に埋没され、隠されてきた、この「世界の王」をおいて、ほかにはない。しかし、すべては私たちの心しだいである。この王の語りかけるひそやかな声に耳を傾けて、未知の思考と知覚に向かって自分を開いていこうとするのか、それとも耳を閉ざして、このまま淀んだ欲望の世界にくりかえされる日常に閉塞してゆくのか。すべては私たちの心にかかっている、と宿神は告げている。

ここで中沢は〝もっとも正しいヴィジョンを抱きうる〟精霊の王のヴィジョンを新発見の『明宿集』という能の一家に秘伝されてきた書物に見ている。詩の世界に、ヴィジョネール(幻視者)やヴォワイヤン(見者)という言葉があり、たしかに詩人は未来を見る者とされている。そういった意味で、ドストエフスキイもこの系譜にあげることができるだろう。そして、あたかも中沢は『罪と罰』の語り手のいう〝新しい人間の種族と新しい生活をはじめ、大地を一新して浄化する使命を帯びた、数人の清い、選ばれた人たち〟であるかのように、現在に偏在する「世界の王」のはたらきについて語る。だが、ドストエフスキイはこう書いていなかったか、〝だれひとり、どこにもこの人たちを見かけたものはなく、彼らの言葉や声を聞いたものもなかった〟。中沢に聴こえる宿神の声は、旋毛虫でないと、どうして言い切れる。信ずるか信じないかはあなた次第、精霊の風に吹かれたことのないわたしたち欲にまみれた豚にはわかるまい、そういいたいのだろう。〝しかし、それに感染した人ほど人間が自分を聡明で、不動の真理をつかんでいると考えたことも、これまでにかつてなかった。人間はかつてこれほどまで、自分の判断、自分の学問上の結論、自分の道徳的な信念や信仰を不動のものと考えたことはなかった。〟…

果たして、読者のなかには、筆者が揚げ足とりのいぢわる婆さん(爺さんでもいい)のように感じる者がいるかもわからない。或は、精霊の言語を解するいち人類学者への嫉妬か。ほとんど被害妄想とでもいうべき敵意が、たしかに筆者にはある。少し語りの位相をかえ、わたくし語りをしなくてはならないか。しかもなるべく手短に、遠回りをしつつ。─

ここに或る年譜のようなものをつくってみる。
 南方熊楠(1867年生まれ)
  ─明治元年(1868年)
 柳田國男(1875年生まれ)
 折口信夫(1887年生まれ)
 宮沢賢治(1896年生まれ)〉
  ─大正元年(1912年)
  関東大震災(1923年)
 吉本隆明(1924年生まれ)
  ─昭和元年(1926年)
  敗戦(1945年)
 中沢新一(1950年生まれ)
 安藤礼二(1967年生まれ)─翌年筆者 父、翌々年母生年。
  ─平成元年(1989年)
 ◉阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件(1995年)─筆者生年。

突然、名前の出てきた安藤礼二は、現在における折口信夫の有力な紹介者であり、批評・研究書多数、文庫編集・解説など多く手がける。吉本隆明の入門解説書も執筆している。

批評家デビュー作『神々の闘争 折口信夫論』の帯文は中沢新一が手がけており、同著のあとがきには、〝私は、中沢さんが巨大な南方熊楠論『森のバロック』をかたちづくっていく過程に密接に関わることができた。おそらくその時の経験が、今の私の思考方法を、一番深いところで規定している〟と著者自身によって記されている。釈迢空(折口信夫)の小説の異稿『初稿・死者の書』の解説文として寄せられた安藤の「光の曼荼羅」の結びを読んでみる。─

 世界を変えるヴィジョンをもちながら、それを表現し尽くすことなくこの世を去った「死者」を、身体の新たな可能性そのものとなった「性愛」のなかで、アジアにひろがる信仰のすべてを統一する「権力」の極たる太陽の王冠を戴く「王」として、復活させること。それこそが戴冠せる預言者にして、戴冠せるアナーキスト、折口にとって理念 イデア としてある「天皇」の概念だったのである。それはまたアジア全土を統合し、そこに「黙示録」の世界を呼び覚まし、最終戦争を引き起こす、来たるべき世界の救世主メシアの姿そのものなのである。

『精霊の王』の結びと読み比べてみても、安藤と中沢が同じモチーフを所有していることはあきらかである。戴冠せるアナーキストというのは、アントナン・アルトーからの借物だ。宿神であっても、ローマの年少皇帝であっても、かれらにとっては、自らの願望に沿えばなんでもいいようである。古代神や秘密神の文献ならば、いくらでもみつかるだろう。

先にわたしたちは、吉本隆明の〈信〉のゐで が詩人自らの言葉と手によって搔き崩されるの目の当たりにしてきたが、中沢の「世界の王」「主権者」や安藤の「権力」「王」「天皇」「黙示録」などの括弧は、ぜひとも外されないことを祈りたい、というより彼らは外せない、吉本の〈信〉は内部にあるが、中沢・安藤のものは外部の、文字のなかにしかないからだ。中沢・安藤だけでない、いつからか、わたしたちの文章世界において、この括弧づくしの批評文が蔓延している。そこではウイルスのように姿をかえ、つぎつぎ括弧つきの空概念が増殖しづづけている。あたかもそれが万能医療器具でもあるかのように。──

なぜ、括弧をつけるのだろうか。ようするに、中身はなんでも、取り替えがきく、ということなのだ。この交換可能の考えは「デジタル」によってもたらされている。いっぽうで、アナログとは、自分の愛する人・もののように、けっして取り替えがきかないものをいう。中沢・安藤は、宿神や『死者の書』という、固有の存在者をもちだしながら、けっきょく騙っている「ヴィジョン」は、ユダヤ教やキリスト教の黙示録の外に出ていない。ようするに、日本人の持たざる一神教の絶対神にたいする自らのコンプレックスを裏返しているにすぎない。もっと直截にいえば、敗戦し、後に与えられた平和、〝淀んだ欲望の世界にくりかえされる日常〟に甘んじている、自らの父にたいする羞恥と同族嫌悪からくる現世否定と 超  脱  エディプス - 願  望 コンプレックス 。文章が「デジタル」の外物にあふれるのは、内側を問いたくないからである。

だが、悲しいかな。外は外で、立派なのである。ルカ伝からひく。

 パリサイ人から神の国はいつ来るのかと尋ねられたとき、〔イエスは─引用者〕答えられた、「神の国は、いつ来ると計算や観測のできるようにしては来ない。また『そら、ここにある』とか、『かしこにある』とか言うこともできない。神の国はあっと言う間に、あなた達の間にあらわれるのだから。」

すぐ次の章、中沢や安藤の黙示と救世主の到来の文章と、その語りの質感を比べてみる。

 それから弟子たちに言われた、「いまに苦しい試みの日が来て、あなた達は、せめて一日でも人の子わたしの栄光の日に生きたいと願うけれども、許されない。その試みの時に、『そら、かしこに人の子が』『そら、ここに』と言う者があるが、ついて行くな、追いまわすな。その日に人の子わたしが来るのは、ちょうど稲妻がひらめいて、大空の下をこの端からかの端まで照りかがやかすように、はっきりわかるのであるから。しかし人の子はその前に多くの苦しみをうけ、この時代の人から排斥されねばならない。

ドストエフスキイの〝だれひとり、どこにもこの人たちを見かけたものはなく、彼らの言葉や声を聞いたものもなかった〟のひびきは、このなんともいえない声音が通底している。〝人の子わたしの栄光の日〟という異教の響きが耳障りならば、せめて一日でも幸せな日に生きたい、と自分の声によせてしまっていい。目を瞑ってひと呼吸おいて、いま目の前で、わたしたちの親しい人が語っているのに耳を傾けるように、つづきの文字を読んでみたい。

 ちょうどノアの洪水の時にあったようなことが、人の子の来る日にも起こるであろう。〝ノアが箱船に入った〟日まで、人々が飲んだり食ったり、嫁にやったり取ったりしていると、洪水が来て、一人のこらず滅ぼしてしまった。ロトの時にも、ちょうど同じようなことがあった。人々が飲んだり食ったり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていると、ロトがソドムから出た日に、〝神は天から火と硫黄とを降らせて、〟一人のこらず滅ぼしてしまわれた。人の子があわられる日にも同じことが起るであろう。その日には、屋根の上におる者は、何か大切な家財道具が家の中にあっても下におりて取りだそうとするな。畑におる者も同じく〝家にもどる〟な。ロトの妻のことを思え。この世の命を保とうとする者は永遠の命を失い、この世の命を失う者は、永遠に生きながらえるであろう。わたしは言う、その晩、二人の男が一つ寝床にねていると、一人は天に連れてゆかれ、他の一人は地上にのこされる。二人の女が一しょに臼をひいていると、一人は連れてゆかれるが、他の一人はのこされる。」(第十七章)

この文章には「デジタル」がいっさい含まれていない。何か大切な家財道具、というとき、たしかに一般に語られているが、聴く人が思い浮かべるのは、取り替えのきかない自分の家の愛するものとのかけがえのない日々の暮らしの匂いの染み込んだ家具である。ノアもロトもロトの妻も架空の人物ではない、ユダヤの民の実在した祖先である。畑も臼も命も。 だからこそ、異教徒のわたしたちが読んでも、リアリティがある。大きな災害を経験して来たわたしたちが読んでも、「こんなのは噓っ八だ」という気持は起こらない、むしろ、寄り添われているように感じる。ルカ伝の著者のかけがえのない実生活でのアナログ体験が、この文章には注ぎ込まれているのだ。中沢・安藤が先に引用した文章を書いているのは、世紀末の天災と人災、アメリカでの同時多発テロの後、イラク戦争のさなかか直後である。それなのに、ルカ伝の著者が大昔のノアやロトの時代の厄災を語る手触りすら感じさせない。東日本大震災や新型コロナ・ウイルスや、まだ終わらない大陸での戦争を経て来ている現代のわたしたち読者には、とうてい受け入れがたい「デジタル」の抽象性である。 キリストの説いている終末は、わたしたちひとりひとりに必ず訪れる人生上の事件としてのみリアリティをもつ。欧米の文学は、この聖書体験にもとづいて現代まで続いている。わたしたちの拙い日本語の詩や小説や批評も、本来はそうであったはずだ、 聖典はなくとも﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

 〽︎道とほし。腰はふたへにかゞまれり。杖にすがりて、こゝまでもくる  実朝


さて、年譜後半の、吉本─中沢─安藤には、一般平均的な親子の年代差がある。わたしの両親と安藤は同年代であり、わたしはその子世代にあたる。吉本と中沢・安藤とのあいだには第二次世界大戦が横たわっている。又、山括弧にいれた宮沢賢治と吉本も、平均的な親子の年代差に数えてよい。熊楠から中沢までの人物に共通するのは、何某学とよばれる独自の学問体系をつくりあげたということにある。方法に違いはあれど、吉本以外は類推能力を学の核にしているとおもわれる。吉本のみ、原理てき世界認識の方法を芯としている。又、柳田國男には初期の新体詩人の時期があり、折口・吉本は詩作者である。全員に共通するのは宗教(宗旨でなく)にかんする思考・志向があるということだ。そのなかでも、自然科学に寄るか人文に傾くかの資質・感性の二手の系統を読むこともできる。

わたしが注意しているのは、とくに吉本─中沢─安藤の系譜である。吉本は、1995年の地下鉄サリン事件の前に、教祖である麻原に宗教性(或は仏心といってよいか)を認める発言があり、中沢はその著書『虹の階梯』が実質的な教団の聖典として扱われた形跡がある。安藤が折口信夫論によって批評家としての活動を開始するのは、2001年の同時多発テロ直後の情況下であった。当時わたしは六才であり、その後のイラク戦争も含め、テレビによる映像の生々しい記憶と、後に親友となる同級生が、テロをきっかけにニューヨークから日本へ移り住んで来たという年少の肌感覚が残されている。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件時は、母親の胎内にいた。母の心をとおして、わたしの無意識の形成に少なからぬ影響を与えているはずである。そしてわたしの嗅覚は、この系譜に嫌なニオイをかぎつけている。この系譜にたいし、無意識のうち、宮沢賢治の位置、或いは首都東京にたいする岩手花巻の位置から距離をとって眺めるようになっていた。─

んたうにそんな偏つて尖つた心の動きかたのくせ
ぜこんなにすきとほつてきれいな氣層のなかから
えて暗いなやましいものをつかまへるか
仰でしか得られないものを
ぜ人間の中でしつかり捕へやうとするか
はどうどう空で鳴つてるし
京の避難者たちは半分腦膜炎になつて
までもまいにち遁げて來るのに
うしておまへはそんな醫される筈のないかなしみを
ざとあかるいそらからとるか
まはもうさうしてゐるときでない
れども惡いとかいゝとか云ふのではない
んまりおまへがひどからうとおもふので
かねてわたしはいつてゐるのだ
あなみだをふいてきちんとたて
うそんな宗教風の戀をしてはいけない
こはちやうど兩方の空間が二重になつてゐることで
れたちのやうな初心のものに
られる場處では決してない

この詩の思想内容や意味がどうというのではない。この心の屈折感だ。釈迢空(折口信夫)の詩にもあるこの痛みが、中沢や安藤の批評文体がもつ不気味な明るさからは感じられないのである。だが、安藤─中沢─吉本─賢治と辿ってゆけば、賢治さんにもこの不気味な明るさは感じる(吉本さんの場合は、暗さの底にときとして覗ける微妙な白、もしかすると柳田國男にも通じるかもしれない)。この感じを、先の二首の東歌にはねかえしてみたい。

『口訳万葉集』より約二十年後の「東歌疏」(折口信夫)から引く。

伊香保ろの ソヒのはり原 ねもごろに おくをなかねそ。まさかしよかば
口訳〕伊香保地方の岨道の王孫ハリ (ぬはり)の原ではないが、ねもごろにしみ〴〵とそんなに、将来のことを言ひなさるな。今さへよければよいではないか。
鑑賞〕調子の素直な拘泥のないところが、この歌の自由な心持ちに相応してゐる。この歌、誓約を迫る人を、煩はしがつたといふよりも、拘泥しない恋愛をあらはしてゐるもの、と見るべきであらう。民謡的に価値の多い歌。

ここで折口が中沢の虚数を導入していないのは、文章の落ち着いた呼吸からすぐにわかる。

伊香保ろの、 サカ 堰処ヰデ に立つヌジ の 顕ろまでもさ寝をさ寝てば
口訳〕伊香保地方の八尺の堰処に立つ虹それではないが、露骨に人目につくまでも、寝さへしたならば、人に知られても、後悔はない。
鑑賞〕これも、序歌と本部との間の気分融合が、今一つぴつたり来ない。何か近代の人には訣らぬものがあるのではないか。

中沢が「喩」でつなげて高揚する箇所を、折口は素直にわからないと漂白している。気分融合といっているが、ここがぴったりと来ないという、自らの類推能力に寄り沿っている。この〝近代の人には訣らぬもの〟を、すでに意味の通じない古代感覚という風に歴史性に還すこともできるし、同時は自らに失われた童話性として自己に還すこともできる。宮沢賢治は『注文の多い料理店』の序でこのように述べる。

 これらのわたくしのおはなしは、みんなはやし はらや鐵道てつだう せんやらで、にじ つきあかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしのあを夕方 ゆふがたを、ひとりでとほりかかつたり、十一ぐわつやまかぜのなかに、ふるへながら つたりしますと、もうどうしてもこんな がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。

又、『春と修羅』の序では、

ゞたしかに記錄されたこれらのけしきは
錄されたそのとほりのこのけしきで
れが虛無ならば虛無自身がこのとほりで
る程度までみんなに共通いたします
すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
んなのおのおののなかのすべてですから)

と。このわからないものをわからないままに、というのは四つ福音書の著述者の態度にも通じるものである、やや性急なようなだが、さいごにルカ伝の言葉をもってこの原稿を結ぶ。

 イエスにさわっていただこうとして、人々が幼児おさなご たちまでもつれて来ると、弟子たちが見て咎めた。イエスは幼児を呼びよせたのち、こう言われた、「子供たちをわたしの所に来させよ、邪魔をするな。神の国はこんな人たちのものである。アーメン、わたしは言う、子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない。」

〈追記〔三月二十五日〕〉
きょう、テレビアニメ『ポケットモンスター』のサトシの旅の最終回をみていた。そこで、ほんの少しだけ伊香保ろの歌の二首のポエジーに触れた気がした……だが、同時に、この二つの東歌のもつ、地面の底の暗さのようなものも、感じる。よかったら、そういう耳でみてみてください。この最終回以上にこの文章で言えたことなど、なにひとつとてなかった。
ものごころつくと同時に始まったサトシの旅の最終回に、東歌のことなど考えてしまうのはどうか。いや、二首のもういまではわからなくなった序詞に、古代の東人の万感がこめられていると、こみあげるものをおさえる喉で感じてしまったことは、責めずにしまおう。
崖のある街-Deluxe Edition-』という第一作品を七年がかりで脱稿してしまってからというもの、抜け殻になっていたわたしに、このアニメ作品はさいごのさいごで、「まだまだ旅は終わらないぞ、虹の向うへ行こう」と励ましてくれた。少年を永遠とせず、どこまでもその背中を追いかけてゆこう。このせかいは、ほんとうに、わからないことばかりにみちみちている。


デジタル類推能力批判 Ver.2──(ANIMA)TIONあにましおん への架橋

喩がわかるというのは古代では何かであった。それは「神」の口から出た言葉と人の
あいだに流布された言葉とを架橋することであった。
「喩としてのマルコ伝」吉本隆明

日本語をもって、それを母語とするわたしたちは、それじたいは意識することなく、何かについて思考している。だが、文章を書くとき、それを外に視ることになる。この志向する見えない意識をみながら書き、考えるという行為は、たとえば紫式部の源氏物語であろうと、啄木のROMAZI NIKKIであろうと、宮沢賢治の「青森挽歌」であろうと、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』であろうと、ロダンの彫像のように考えるのとは異質な行為といえる。もし、書くように考え、考えるように書くことのあいだの異和が消失した状態をおもいえがくとすれば、わたしたちは自らにときとして訪れてくる或る種の夢を想いだす。それはたとえば、字を書いている夢とか、書かれた文をよむ夢とかだ。経験論の閾でしか語ることができないが、両者はほとんど同じ質感──わたしたちが本を読み了った後などにつかう「読後感」という成語をもじれば〈夢後感〉とでもいいたい。つまり、前者の場合、それは書きつつ読むという状態であり、後者だと、あたかもそれが自らによって書かれた、或は、心に書かれてあるものとして読んでいる、という意味において。このような行為は、古代における文字(漢字)、或は中世ヨーロッパにおけるタロット・カードによる占いと酷似しているかもしれない。ここで一人の読者の内部にわたしを置いて身交 かむが えてみるとすれば、それはあたかも外部に自らの内部を視ている時間といえる、いいかえれば、わたしたちは自然に自らの夢を読み取ろうとしているのだ。夢とは即ちわたしたちの内部の自然であり、このとき外界と内海とは等質、つまり質的差異をもたず、この順序を辿れば、太初 はじめ より内も外もないということになる。この状態をヘブライの民の創世記における楽園、或いは赤子(及び胎児)のせかいそのものだ、といいたくなるが、そうではない。いわば楽園追放の憂目の代償として得た文明(火)である言語をとおして 考えられた﹅﹅﹅﹅﹅状態である。

…わたしたちは依然として言語(母語としての日本語)を駆使し、読む=書くの同時行為を続けている。だがこれが通常わたしたちのいう意味での考えるという行為と若干ながら質的なちがいがあると、うすうす感じ始めている。いや、わたしたちは理念としてはそうしたいと欲しつつ書いていても、実現できているかわかわからない、ただ度合として零ではないことは信じていい、なぜなら書くスピードを逸脱して思考を先行させるということを、これも又つもりとしては自らに禁じており、いわば歩きつつ走ることができないのと同じである。しかし、このことが理念よりも確実に巧く行っていないと感じているのは、歩いているときと同じように、わたしたちが途中でひと息つきたくなるという生理による。

今、わたしたちは公園のベンチに座り、しばらく昼下りの雲を眺めつつやや放心している。このパラグラフがその放心の内容にあたるといえよう。或は、句読点などは、景色に立ち留まったり、地図を見る、などの小休止にあたる。ようするに、わたしたちは自らの歩行の経験と同じように、自分のリズムで読む=書くことができるし、文章においては時間は自らの歩いた距離ぶんしか進行しない。そして道には泥濘やわたしたち自身の疲労や信号待ちなど、様々な時間をとどこおらせる抵抗があり、ここが或る種の夢のばあいとの差異になってくる境だ。しかし決して断絶とはいえず、しばしば夢の中での歩行や読書に思い通りにゆかないはがゆさや息苦しさの伴われる時間が来るのをわたしたちは経験上知っており、そこでの放心はしばしば目覚めるという結果になりがちだ。上手に歩こうと下手に歩もうと、わたしたちは歩行から逸脱しないという原則を守りつつ、日本語の文章による思考について、書きながら考えることを続けたい。(読者は歩調を合わせる、散歩の随伴者の立ち位置で、自らの内部に書き取ってゆくという点において、ノートに文字を連ねる筆者と、体験の質として、同じ書くという語をあてられてよい。或は、内部といわず眼球の奥の網膜といっても、段階が前後するのみで、書く=搔くの本質としては変わらない。)

先にわたしたちは或る種の夢の例として、文字を書く或は読む夢を挙げたが、ごくふつうの、現実感のあった出来事としての夢でもよい。ただし、ここでわたしたちの扱う夢は、比較てき状態のよい夢である。その条件は、夢の展開や場面転換のスピードとわたしたちの心のついてゆき方とのあいだに、なるべく異和のない、居心地のよい夢とする。かりに目覚めているわたしたちの常識から鑑みて、ありえない出来事・現象であったとしても、夢を見ている主体の心とその夢の展き方に異和が生じてなければこの条件に沿う。わたしたちが悪夢とおもうのは、この異和の大きい夢、ということになる。もしかすると、夢のない熟睡で寝起きがよくてスッキリとしている場合、わたしたちは夢を見ていなかったのではなく、この異和が限りなく零に等しいため、起き抜けに思い出すさわりがないという幸福な例かもしれない。しかし、年に一度か二度あるかないかというこの快眠のみがこれに合てはまるので、多くの場合、夢を見なかった、平生見ないなどという時、それはその人が夢にまったく価値を見出していないか、目覚めている世界の価値への目配せが早すぎるために、ほとんど目醒めると同時に忘却しているだけといった方がよく、幸福な夢の例と同列に扱うことはできない。そうなると、わたしたちが良い夢を見たというとき、異和が極小であって、夢での外部と内部が薄皮いちまい(ほとんど感受できない)に隔てられていたといってさしつかえない。この文章では、アナロジー(類推)による飛躍は歩行者として禁じ手なのだが、この心地よさはシーツの地続きとして、わたしたちの胎児じだいの胞衣の記憶の反復であるといったとて、失格の烙印を捺されるまでには至らないだろう。これは夢の中の歩行で、わたしたちは長い洞窟を壁づたいに歩いてここまでやって来たのだから。───〔如月十七日〕

如月十八日〕歩行することができないこの病牀にあっては、立会川から大岡山まで歩いたきのうのようには思考を進めることはできない。歩いて歩いて歩いた先でなくては詩はかかない、動けなくなった火乃絵は死んだも同然なのだ、本当は。だが、古代の女たち、歩きたくても歩かせてもらえなかった女たち、囚人、病人、宮廷人、かれらの身をおもえば、『崖のある街』の作者はぜいたく三昧の日々だった。ひのえは散歩から生まれた、方図もなく歩くこと、この畝をこしらえた紙の上でやってみよう、街を歩けるようになるまでは、『魂のハナ』のつづきはありえない。

きのう、喫茶店の閉店で途絶えた文章は、ようやく書きたいところまで来ていた、だが、寄り道いがいは無用、文章はすでに了っている。だから今からかくのはまったく別ものだ。

明晰夢〉火乃絵は意識しだしてからは一度だけ見ている、そこで「夢の記述Ⅰ」を終わらせた、御法度に触れたからである。類推能力の乱用、ほとんど無限にちかい。借り物をわがものとしているのだ。自分でもどうしてこれほどと思うくらいに嫌悪している、これが始まったら夢はまったくもって不真面目なものになってしまう。さいわい現代人は夢を見ないという方向に進んでくれているようなので安心する。夢はいつでも厳粛なものであってほしい、神さまを玩具にして扱うような真似を目にするのは悪夢よりも気分が悪い。夢にたいするよき態度は、現実の体験とのあいだに質的ちがいを感じさせず、それでいてさく﹅﹅が設けてあることだ。乗り越えたとしても、乗り越えて来たといく意識をはなしてはならない。

火乃絵の誕生以前のためらいを反復しよう、あの道を通ってここまで来たが、供物はした。ここまで自分の足で歩いて来た、もういちど夢を見るんだ、目を閉じろ、耳も塞げ、下りてゆくんだ。(ANIMA)TIONあにましおん のつづきをやろう、何度でも何度でも十二月三十日の大風は吹く。


DigItal-AnaLog(ue)デジタルアナローグ 再開のために必要とされたごたく

まず、白石火乃絵は詩人である。
詩人、自らの道具を手入れするのは、あたりきではないか。
道具? と疑問を発する詩人がいるかもしれない。
「言葉は道具じゃない」
もちろん、言葉(言語以前)は道具でない。だが、言葉(音・文字)を遣わせなければ、表現に至らない。

道具は身の丈にあったものでなくては、使いこなせない。
初めは、木の棒から。それがどう望もうと、いまの自分なのだ。道具の手入れは、自愛に他ならない。道具を大切にしない者に、きっと、上達はありえない。

もうひとつ、火乃絵の考えでは、わたしたちはだれもが詩人なのだ。
或る友達にこういったことがある、「おれは詩を書くけど詩人じゃない、お前は詩を書かないけど詩人だ」。ボブ・ディランは、インタビュアから〈あなたにとっての本物の詩人は誰ですか〉と訊かれたとき、「本物の詩人は、田舎のガソリンスタンドにいる」といった。 ようするに、自らの内部を大事にする人のことを、わたしたちは詩人と呼ぶわけだ。

じっさい、そのような人と仲睦ばしくなってでもみると、そいつの口からいともたやすく詩が飛びだしてくるのがわかるだろう。しかも、そいつはそれを詩だとおもっていない。ただ、思っていることを口にしただけだ。

と、いうことは。わざわざ詩を書こうとする者は、たれであれ詩人の劣等生ということだ。 詩人になりたいとは、詩人であろうとする者は、ようするに人間になりたい、人間でありたいと願う、ひとりの修羅にすぎない。この修羅にあっては、言葉がふたつあるのだ。しかも、しばしば仲違いをしている。これを生涯、本来あるべきひとつとするために、詩を書く。ようするに居残り生徒だ。

ところで、劣等生のくせ批評だの論だの、書くのがある(とりわけ男性に多くみられがち)。詩が書けなくなったか、そもそも書けない、というのが動機になっているらしい。だが、わたしの考えでは、詩は詩を書くことでしか書けるようにならない。泳げないひとが、いくら勉強したとて、いざ水に入って、実践しなくては、泳げるようにはならないように。

ようするに彼らは、泳げないのではなくて、水が怖いのだ。と、そう断定したくはなるが、文芸世界というひとつの小世間において、批評病という集団コンプレックスが形成されているので、余計なことをいわないほうがいい。抜け出す者は、自らの力で抜け出すだろう。むしろプールのなかでは活き活きとしている。

ちょっとこわいのは、批評なり論なりを書くことで、むしろどんどん詩が書けなくなっていっている、或は、詩が生気を失ってきている人をみるときである。しかも、そのような溺れかかっている人にかぎって、「批評を書け」などと迫って来たりする。

そこで、体調が悪いので見学します、といって拒否しておく。このような態度を取ることこそ、わたしたちは批評と呼ぼう。


…そうなってくると、いよいよ、〝道具の手入れ〟が分からなくなってくる?


書くときはひたすらに、手と身と道具と一体化している。道具の手入れは、仕事のあとで。わたしはマグロの一本釣りに出掛けるまでの、母方の祖父の日常風景を思い浮かべている、黙々と仕掛けをつくり、手入れをし、新技術も倦むことなく採り入れる、何十年(あるいは海胆の八億年)、その姿へのあこがれ。人間をみる、餓鬼のまなざし─いまは修羅となり。

だが修羅とはいえ、泳げるのは沖の小島までがせいぜえで、大海に打出るには文明がいる。

文化に対し、文明はあたかも悪、それを破壊するもののように語られるが、わたしはマヤ文明、などいうときの語感を好きだ、文化の下には文明が埋まっている。桜の美の、その樹の下の屍体に負っているように。〝桜の根は貪婪どんらんな蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚あつめて、その液体を吸っている〟。
これを透視するのは修羅の不幸か幸福か。わたしたちもまた、この劣等生のように、いつか、

今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が めそうな気がする。
こんな絶世の都々逸ぶり、いってみたくはないか?
〽三千世界の大海を知らねば。人とはなれぬ、修羅からす

ほうれみろ、この漢字というシロモノにしても、大陸遙か黄河文明よりどんぶらこ届いたすもも器械だ(琉球の宝貝)。この種なしにはひらがなという美くしい花も咲いていない。

ひとつの文明のため、どれほどの血が流れたか。
わたしたちは自らの傷口を嗅ぎわけつづける
畜生からやり直さなくてはならない。─


そうだ。詩人たるもの、犬のように正直でなければならぬ(人の言葉はいつでも噓をつく)。 ──如月十九日現在、おまえのさっき書いて来た詩は、まるで批評なり論なりに手を出すようになったシジンのシのごとく、腑抜けたシロモノになっていやしまいか? ダイスを転がせ。出目次第で、今後おまえの手でこのDigItal-AnaLog(ue) デジタルアナローグ が書き継がれるか、極まる。


みがきたら
みの立ち去るのを待つことしかできない、
途半端な長くつづく痛みも
れられるだけの嵐がほしい

••••••••••(
うものはどあ つくし
かいからひきはがそうとする。
たいと祈のりとがひとつになる
の痛みはわたしだけのものだ、

身にてんいする死びょうの痛み。
ういちどわたしがせかいを生むための
 ん つ う 

みが来たら(十二月また來れり
みが去るのを待つことしかできない、
がくおどりの春の匂いをよびおこすまで────

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