縦書きについての覚え書Ⅰ
 DigItal-AnaLog(ue)デジタルアナローグ ──言葉にとって美とはなにか

白石 火乃絵

…正直、市村と縦書きWebの開発についてやや興奮気味に話し始め、この「偏向」再開号に縦書きについてのステートメントを寄せるときめてから今日まで、この魔物について、はじめはそうなるとつゆさき知らず、わたしなりにこれまでの文章体験など踏まえつつ、考えをすすめてきたが、これは沼、きわめてアジア的、敗戦国風の、沼沢地方だった。

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縦書きWebの開発は、そもそもはわたしが縦書きのメモ・アプリを作れないものか、と市村に頼んだところからはじまる。そのうちに、Twitterを自動で縦書き表示にするツールのアイデアが思い浮かんだが、ちょうどその日に、Twitter APIのサポートの終了が発表された。素人には正確なことはわからないが、とにかく公式以外がアプリを作ることができなくなったらしい。(あとでいうが、これはきわめて一神教てきな発想に基づいている─)

当初のわたしの考は単純で、日本語にとっての自然は縦書きなのだから、メールにせよ、LINEにせよ、Twitterにせよ、ウェブサイトにせよ、縦書きに対応していないというのは、不自然だ、ということだった、なにより、誰もこのことにこだわっていない現状が。

だが当然、じぶん以外のものに働きかけるためには、パワーを行使しなければならず、そんなものを誰に見向きもされぬへぼ詩人が持ち併わせているはずもなく、なにより、詩人にとり、このような働きかけポリティクス は、藝術てき良心からの逸脱を意味する。もちろん、そのような高級な心がけを持っているわけでもない、というより逸脱することを自らの取柄とするどうしようもない落第生の身としては、まあ、手作りサイトで、せめての己が文章くらいは縦書きにしてみるくらいが、この邪な良心 ポエティクス のおとしどころかな、そう獨言ちる。─

そんなこんなで市村が、かつての「偏向」の原稿を縦書きWebにしてくれたのをみて、これには…想定してさえしていなった、創造性への刺激があった。あ、あたらしい紙……

あとで考えたことだが、スクロールできるというのが大きかった。本は頁をめくる(これには海向うの哲人ショーペンハウアーに美くしい比喩がある)が、こちらはかつての巻物の再現である、と。ひとつなぎの秘宝といおうか。

たとえば、アメリカの戦後ビート・ジェネレーションの傑作『オン・ザ・ロード』は初め、それこそ紙をつないだscrollにタイプされていった。戦前モダニズム世代の技法、〝意識の流れ〟の若者てきな弾力性のある受容者であったケルアックにとり、紙が繋がっていることは、まさにそのまま詩神に迄繋がってゆくことであったにちがいない。「scrollなくして、ビートなし」といったって、ちっとも誇張にならないだろう。

スクロール。この音が好きだ。スク、スク。柳田國男は初期の『石神問答』において、シャグジなどと呼ばれる、日本各地にのこる精霊信仰を調べていくうちに、地域ごとにシャグジ、ミシャグチ、シャクジン、ジュクジン、シュクノカミ、シクジノカミ、(漢字をあてたものでは石神、宿神など)など差異はあれど、どれも〈サ行〉+〈カ行(濁り含)〉の音の組み合わせから始まることに気づいた。これは、この精霊のみでなく、 サカ とかサキとかミサキ とか、どこか境界となるような場所を差す語にも多くみられる音列である。坂下と坂上、山と山、陸と海、おもえば、サカイ というのがまさにそうであるし、サク というのも人為の境界だ。サケ ももともと神さまに捧げられたものだが、通俗てきにも、意識と無意識の境を混濁させるものとして、境界にかかわる語である。古代感覚を夢みれば、坂や岬それ自体が精霊であったろう。古事記の神さまでいえば、スクナヒコナ、コノハナサクヤヒメ。この島国のひとびとは、石にも土地にも神さまの名を読んではばからない。そもそも、島そのものが神さまの名でよばれる。なにより、桜(サクラ)。夢ともうつつともつかぬ幻にして実。さくら。さくら。さくら。わたしたちは花ではなく、コトバそのものを垣間見ているようだ。すくろうる、すくろーる。この音の組み合わせは、けっして民俗にとどまるものではない。skyスカイはまさに地上と天上のあわいにある。sacredセイクレドというのは、聖なるもの・ところとわたしたちとのあいだに シキ をもうけるところから生まれる感情だ。境界がなければ、じょるじゅ・バダイユのいう侵犯のえろてぃしずむも湧いては来ない。卑近な例でいえば、skirtスカートというのもまさに、夢とうつつの光叉するチラリズムだろう。シャカイの窓というのは、ちょっと巫山戯た連想だが、あながちばかにもできない。通俗流通する言葉にはどこか呪力がある、よくよく意味の糸をたぐりよせてみようとも、ほどけるだけで解けない。「こんにちは」ということだろうか、そしたらもっと呪術てきになるだけだ。

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah (「原体剣舞連」)

宮沢賢治が、岩手は江刺のお祭りでsketchスケッチしたこの子らの溌剌とした声の、skoという間隙からは、大宇宙の鳩尾が穿れたようなすさまじい陥落のひびきが聞こえて来る。存在孔とでもいいたくなる、世界 セカイ空間のソコの風穴、sko, sko 天地アメツチの吹抜けなようのもの。アメリカはアトランタ発祥のtrap音楽のラッパーたちの必殺、skrrr, skrr は、子音幸う母なる大地アフリカと、天上の父なる神Godとをひとつなぎにしてしまう半人半獣の叫びだ。スクロール。このつながるということ。死者と生者とのクニザカイ、黄泉比良坂の千引の岩RockがRollする、skrrroll! ロックンロールの魂はskullスカルで、死んでもないし生きてもないskeleton, living deadの精神だ。それは、極東のますらをぶりとはちょっとちがう、

 To die - without the Dying    息絶えること─臨終しないで
 And live - without the Life    生きてあること─生命なしで
 This is the hardest Miracle   これは最難関の奇蹟なのです
 Propounded to Belief.          確信に突きつけられた.

エミリー・ディキンスンのこの「-ハイフン 」、戦後のケルアックらビート・ジェネレーションの青春の表現をこの、ほとんど見えるか見えないかの-でつないでしまった最も厳しい奇蹟。いかなる小説家も、哲学者も、詩人でさえも、この言語のおそろしき力に一度、つまづかなくてはならない…いいや、ニホン語遣いのわたしたちは、もうずっと手前でコケていたか。

スクロール。

つながるということ。

この日本と呼ばれる国は、かつて、万世一系をうたい、そのますらをぶりの血を奮って、そして無惨に敗北した。東南アジア諸国だけでも少なくとも二千万人以上を殺戮し、罪滅ぼしなど一向にできぬまま(できるはずがない)、一方では、祖国のために命を落とした人々を弔うこともできぬというダブル・バインドに、もはや苦しむということさえ忘れようとしている。またもや男たちの論理で、断絶ということがいわれたりもする。戦前と戦後。

〽︎スワイプされる日常スクロールして
 歌詞もわかんない歌が流行ってる (「ラブソングが歌えない」結束バンド)

見たくもないもの、おぞましいもの、退屈なもの、そんなものはスワイプしてブラウザバック、この指でひょんと視界の外に追いやる動作をわたしたちは舶来のスマートフォンに教えられ、ああ、こんなことをいったら笑われる、人間関係においても、藝術においても、この操作がひとびとの目の動きにまで浸透してきているだなんて。そしてこの所作によりもっとも傷ついているのが、死者たちなのだ。死ねば死にきり、なにもなし。弔いをしたってしょうがない。あれ、いまちょっと変なかんじがしたけど、いいや、考えすぎだ。ただの虫。死んだマミイのわけがない。ましてや、戦争の死者? ネトウヨか。そういう偽善が大いっ嫌いなんだよ。

スワイプ。

けどいくらスワイプしたって、見たくないものはいっこうにわたしたちの心に棲みついて、夢のなかでムカデや蜘蛛となって見えるだけじゃなくて襲ってくる。これじゃキリがない。

スクロール。

記憶の糸をたどって遡行してみよう─

ここはどこだ、平成? いや、このマロ眉、もしや平安。

〈Ⅱへつづく〉 


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