フィールドワークとして生きる

村上 陸人

 創造性というものが気になっている。私自身は自分の手で何かを創るのが好きなほうだと思う。なぜ好きなのか。たくさんの欲望を満たせるからかもしれない。生み出すこと自体の達成感。生み出したものを評価してもらった時の満足感。自分にしかできないことをやっているような優越感。これらの感覚はどのくらい普遍的なのだろう。

 他人の創造性に対する感覚はどうだろう。私は嫉妬することが多い気がする。ただし、他人の作品を誰かと一緒に鑑賞することは好きだ。作品から感じたことを話し合うのが楽しい。この場合、作者の創造性に対する嫉妬はそこまで強く感じない。おそらく、他人に感想を述べることで、ある種の欲望が満たされているんだと思う。多分そのとき、私は作者の創造性を自分の創造性に転換してアピールしている。

 綺麗な言い方をすると、これは創造性の連鎖反応のようなもの。作者の固有の経験が作品という創作物を導き、作品を鑑賞することで、私も固有の経験をする。その鑑賞経験が、今度は感想を他人に伝えるという表現、つまり創造性を導く。創造性がさらなる創造性を触発していると言えば聞こえがいいが、穿った見方をすればそれは他人の表現の受け売りにほかならない。他人の作品をSNSでシェアしていいねをもらうのはあまりにも簡単だ。新しくて面白いものを生み出すことが、現代人に可能なのか、不安になることもある。

 そもそも創造的であるとはどういうことなのか。新しくて面白いということなのか。他人を触発するということなのか。もっと感覚的に、セクシーでイケてるということなのか。正直なところよく分からない。よく分からないことがよく分かった。一旦創造性をかっこに入れてみる。

 創造的であるかどうかは置いておいたとして、表現の連鎖は相互作用である。相互作用は他者との関わり合いである。他者からの反応に引き込まれ、半ば反射的に、自分でも意外に思う表現を返することがある。想定外の出来事に巻き込まれていくとき、経験は濃密なものになる。飲み会の席での大真面目な議論でも、他愛のない日常会話でも、音楽仲間で集まって楽器を弾く時でも、経験が濃密になるきっかけは同じだと感じる。

偏向』再始動おめでとう。関わり合い、触発し合う場が再び開かれたことを嬉しく思う。

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