偏向」再始動について

偏向」責任編集者・白石火乃絵

二年前にはじめた「偏向」は、創刊準備678月号の三冊をもって活動が途絶えていた。ついさきごろ、創刊準備9月号を出したところだ。これは一部原稿をのぞいて出来上がっていたが、なぜか出すことをしなかった。人事によくある自然消滅のごときものだ、と言ってはさすがに同人に怒られる、それはひとえに の奇行だった。


ことしの年始め、 が母方の実家から帰ると、同人の村上と市村とが、ロクジュウゴ文化祭実行委員会という謎団体の活動拠点「サンオウ」( 編集者 コノチクショウ はここに住みこんでいる)にかつてのバンド仲間と来ており、そこで「偏向」再開をなかば脅迫された。

「こんなメンバーが揃っていて、恵まれているとは思わないのか」というような言葉で。


−−−−−−−−−−−−−−−−


そういうわけで、晴れて「偏向」は再始動する運びとなったわけであります。初期に同人だった市村も、縦書Webサイトの追求という新しいあそびを引っ提げて戻って来てくれたし、現時点であと二人ほど加わるとおもわれるので、お楽しみに。

(毎月出すものは、月毎にレイアウトを更新していきます。)


                   *


と、挨拶の済んだところで、わたくし白石火乃絵が、「偏向」という雑誌をスタートさせた初心について、再開号ということで、もういちど向き合ってみたい。


うーん、ようするに、考えるっていうことは、まず、自分を豊かにしてくれるんだ、ということ。人の考えに従って、受け売りで生きるのは、社会的に楽だ、というのは噓です。いや、どうなんだろう、少なくともぼくには辛い。自分とちがう考えに従うのがストレスなのは言うまでもないけど、そもそも、自分と同じ考えなんていうのは、厳密にいってありえない。


自分ひとりのことでなく、恋人や家族、学校や職場や、こういう「偏向」みたいな同人誌であったら、もちろん、自分の考えだけを押し通すことはできない。ぼくはすごく苦手だけど、話し合って、お互いの納得いくあいだの形を探さなくちゃいけない。でもそれは、自分の考えがあった上での話だ。もし、それがなかったら、いずれ、うーんなんか楽しくないなとか、死にたいな、みたいな気持ちになるにきまってる。それはつまり、そのときどきの自分の気持ちっていうのを、どこかオザナリにしていたということだろう。考えるっていうのは、ぜんぜん社会的な正しさとか物理学的な真理とかのことではなくて、心と体と私をもった自分というのが、何が楽しくて、何が嫌で、そういうところから始めなくては、どんなに優れた考えだろうと、まったく身のためにならない。もし進化論が正しくて、ぼくたちがお猿さんから変異して、考える力を延ばしてきたとしたら、それはぜったいに身のためだったろう。種族の繁栄だって、けっきょくはそれで仲間が増えて身が助かるからだったにちがいない。愛する人のため、といったって、愛する自分がいなければそれはいつか噓になってしまう。考えなくちゃ、自分がいちばん住み良いとおもう世界をつくるために。流されるだけじゃなくて、じぶんの棲む環境に変化を与えられる。それが人間のいいとこじゃないですか。ぼくはいまの世界が本当に本当に生きづらいんです。とにかく。


もしも、考えなくてもいい世界だったら、それに越した事はない。でもそうじゃないなら、考えることで、少しでも楽しい世界になるように動いてゆくしかない。みんなを笑わせるエンターテイナーは、どうやったらそうなるか、たくさんたくさん考えるではないですか。思想とか文学とかそういうことでなくたって、みんなみんな考えるとこからはじまってる。


そこでこういわれるかもしれない。考えるな、考えるだけ損だ。

もっとちがう場面では、考えるな、感じろ。と。


たしかにぼくも頭でっかちな人は苦手だ。どっちかといえば、直観派で感覚派だ。いや、そうありたいとおもってる。けれどそのことと、考えないこととは別だ。たくさん感じて、たくさん思って、そして考える。ぼく、この世界をもっと面白くしたいんです。少なくとも、面白いと思えるようになりたい。楽しめばいい? その通りだ。でも、もっともっと面白くしたいんです。そのためには、どうしたって、じぶんで考えることが必要なんです。


それでもって、考えるのに、文章を書くことは、自分と対話しているような状態になれる。書いてみると、いろいろ目に見えてくる。その上で、誰もが見えるところで書くというのは、日記のように自分だけのものとはまたちがった良さがある。もちろん、誰にもみられず書くのもぼくは好きだ、書かずに物思いしているのも(これはもう生理てきなものだ)。けど、考えたものを、けっかてきに誰にも読んでもらえなくたって、表にする、表にしつつまた考えるというのは、これはこれでけっこう楽しいことなんだ、そういう気がしている。


偏向」をつくったのは、第一にこういう発想からです。同人誌のいいところは、出版界の雑誌なら、書いちゃいけないようなことも書けるということ。これは、首を傾げる人がいるかもしれないが、その責任がすべて自分に帰ってくるということ。これ、すごくいいことなんです。自分が自分の責任を負えない苦しみを、ぼくは十代のときに嫌というほど味わった。自分の責任で、言いたい事を言える。書きたいことを書ける。うれしいよなあ。


第二に(ほんとうはこれが第一かもしれないけれど、)同人の仲間といっしょに楽しめる。団体行動が苦手のぼくでも、この雑誌のやり方ならけっこうできそうだな、そういう感じです。考えるという面でも、ひとりでは思いつかなかったことだとか、自分では見つけられなかった新しい刺激とか、化学反応めいたこととか、昔の人たちはこういう中で考えたり作ったりしていたんだろうなあ、とひしひしと感じるこの頃です。そして、「偏向」がなければ、けっして読めなかったであろう、おかしな友達の考えとその発展を見られるのが、まあ、いちばんの楽しみなのかもしれない(素人ものの方がよっぽど好きです)。


そして、RCサクセションじゃないけれど、三番目に大事なものが、そう、これを読んでいるあなた、ということになる。この順番が大事なんです。─

目次へ