猫の目

益田伊織

『ドキュマン』という雑誌がある。一九二九年から一九三一年までの間に、フランスで刊行されていたグラビア雑誌だ。グラビアという言葉で期待されたかもしれないが、別におっぱいの大きな女の子が媚態を示しているような雑誌ではなく、要は写真入り雑誌である(そもそもグラビア、gravureという語は写真印刷の技法の名称であり、日本ではかつてこの技法を用いて印刷されるのが主に女性モデルの写真だったため、オフセット印刷が主流となった現在にもグラビアと言えば女性モデルが想起されるに過ぎない)。ついでに言えば、「ドキュマン」はDocumentsであり、要は英語の「ドキュメント」の複数形。日本語に訳すなら「諸記録」といったところで、随分そっけないというか、これだけでは何だかよく分からない雑誌名だ。
 それでは『ドキュマン』は、何の写真を掲載し、何の記録をなしているのか。第一号の目次を眺めると、「彫刻の約束事」にはじまり、「パブロ・ピカソ:一九二八年の何枚かの絵」、「トロカデロ民族誌博物館」といった項目が並ぶ。一言で言えば『ドキュマン』は、当時まだ新しかった写真印刷技術をふんだんに使いつつ、美術や民族誌の知見を紹介する雑誌として出発したものだと言えるだろう。
 しかしこの雑誌の重要な執筆陣の一人に、ジョルジュ・バタイユという変わり種がいた。雑誌の創刊号で名前を連ねていたのは博物館長や美術研究者等、アカデミックな出自の人間が大半だったが、バタイユが雑誌内での発言力を強めるにつれ、元シュルレアリストの詩人等、雑多な出自の人間たちが寄稿する異様な雑誌に様変わりする。バタイユ自身、過激な論考を次々と執筆する。日本ではバタイユの文章のみを集成したものが『ドキュマン』の題で文庫化されているが、その目次を眺めると、「足の親指」だの「腐った太陽」だの、一見して異様極まりない項目が並んでいる。
 これらの文章についても興味は尽きないのだが、私がとりわけ関心を抱いているのは『ドキュマン』におけるイメージの使い方である。例えば一九二九年度第5号より、次に掲げる見開きページ。ここに掲げられている6枚の写真の内、右ページ下の2枚以外はそれぞれ別の記事に対応する写真であり、内容も動物から傷を負った男、美女や映画ポスターまで多様なため、一見したところでは印刷の便宜上まとめて掲載されているだけのものと思われる。しかしより丁寧に検討するなら、これら複数のイメージの間には、いくつもの意味上・形態上の連関が存在する。例えば右ページ右上の男の顔を覆う包帯は同ページ右下の女性の体を覆う白い毛皮のコートとよく似ている。この女性と同様、左ページ下の女性は毛皮を纏っているが、彼女の背後には彼女の纏った毛皮の材料となったであろう狐の死骸が生々しく吊り下げられている――キャプションによれば、これは毛皮の展示会だそうだ――が、この死骸は右ページ左上の画像(正直なところ私には画像を見てもよく分からないのだが、ニシキヘビがワニを丸呑みしているところらしい)と呼応する。さらに言えば、そもそも右ページ右上の包帯の男は殺人の廉で裁判にかけられている(彼は情婦と恋敵を射殺した後、自らも顔面を撃って命を絶とうとして失敗したのだという)ところであり、吊り下げられた動物の死骸のイメージは否が応でも彼の絞首刑を想起させるだろう。

 以上のような具合で、この見開きページを検討するだけでも、複数のイメージが多様な主題――動物の惨状、男を手玉に取る美女(ファム・ファタール)、何よりも死――を喚起しつつ、重層的に呼応しているのが見てとれる。それぞれが別個に独立した意味作用を孕んでいながら、ともに並べられることでまた別の意味作用を生成しもするような無数の断片の集合。グラビア雑誌の黎明期、すなわちあらゆるイメージを手にし、構成することができるようになった最初の時代に、野蛮さと緻密さを過激に同居させながら『ドキュマン』が提示しているのがそうしたものだとすれば、これはイメージの氾濫が自明なものとなった現代にあって、ほとんど見失われている知であるようにも思われる。見事な景色や劇的瞬間を捉えた画像・動画はツイッターやインスタでバズっているかもしれないが、それらのもたらす刺激が相対的な希少性に還元される限り、個々に消費され、完結するものであるに過ぎない(超高層ビルからの「絶景」も超巨乳美女のポルノグラフィーも、同じように刺激的であり、同じように退屈だ)。真に思考を喚起するのは、個別的なるものがその絶対的な固有性を失わないままに、他なるものへと開かれ、それと結びあって新たな意味作用を生成するような事態であり、それを知と呼ぼうと愛と呼ぼうと大きな違いはない。『ドキュマン』の見開きページにおけるイメージの配置が提示しているものはそれゆえ、雑誌の本義に、さらに言えば広義の共同体のあるべき姿に通じているとも思われるのだ――共同体とは固定的な実体ではなく、それぞれに偏向した個々の存在が互いに照らしあいつつ、新たに生起させる大きな偏向の波動に他ならないのだから。

 次号に続く。

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