フィールドワークとして生きる

R.M.

 全盲の美術鑑賞者、白鳥建二さんにお会いする機会があった。近所のアートセンターで白鳥さんの美術鑑賞会があり参加した。目で見て言葉にできるものと、そこから連想したことを自由に、喋りたくなったら喋るようにと手短に説明を受け、十人弱のグループで鑑賞が始まった。
 70分間の鑑賞会で最後に向かったのが、丸いテーブルのうえに置かれた木製で板状の作品だった。前面が白く塗られており、ウサギのような動物が三匹彫刻されている。板は三十センチ四方くらいの大きさで、上辺が長く下辺が短い逆台形である。作品の置かれた丸いテーブルは部屋の隅にあったが、壁には面しておらず周囲をぐるりと歩き回れるようになっている。作品はテーブルに自立している。参加者の一人が、この作品はどう設置されているのかと投げかけた。この板には重みを感じますね、たおれたらどうしよう、振動で倒れてしまいそうにも見えるけど、と会話がなされる。このテーブルはこの作品専用の台なのではないかという意見もあった。テーブルの真ん中には穴が空いていて、板を差し込めるようになっているのではないかとの観測だ。
 参加者たちの後ろでこのアートセンターのスタッフ三名が顔を見合わせて笑っている。彼らはこのイベントの運営をしており、鑑賞会の間は参加者の後ろから会話を見守っていた。彼らが笑っていたのは、この板状の作品が実際にどのように設置されているかを知っているからだった。この作品は底面に両面テープが貼ってあり、テーブルに粘着している。作品は実はこの両面テープだけに頼って自立していた。テープの粘着力は万全ではないようで、昨晩か今朝、この作品は一度倒れてしまったそうだ。今朝作者が呼び出され、突貫工事で修復をしたらしい。私自身はこの日、お手伝いとして朝からスタッフと行動を共にしており、作品が倒れてしまった経緯を聞いていた。
 展示されている芸術作品を見るとき、作品が完成されたものにみえる。適切な方法で展示されているようにみえる。鑑賞会で起きたように、先入観ともいえるような過度な読み取りが生じることもある。しかし、それは見誤りというべきなのだろうか。みえることのリアリティも確かにある。実際には不完全さや不十分さを孕んでいたとしても、展示されることによって完全で十分な作品にみえるとき、完全で十分なものにみえるということに偽りはない。その場に居合わせた人にとって、作品は本当に立派にみえるのであり、立派にみえる限りにおいて、作品は現に立派なのだ。固定されて安定した現実などなくて、どのように見えるのか、どのように見るのかによって現実がつくられている、と片付けてしまうとつまらないのだが、文脈による作品の印象の違いからそんなことを考えた。

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