フィールドワークとして生きる

R.M.

 九月から人類学のゼミナールに通い始めた。十月に実践演習として、静岡駅から一キロ圏内というお題で一泊二日のフィールドワークを行った。


一日目 フィールドワークまで

 音環境をテーマにフィールドワークを行おうと思い至ったのは、フィールドワーク初日の数日前だった。音楽に興味があるので音楽をそのままテーマとしても良かったのだが、少し広く「音環境」と(格好つけて)言ってみることで、新しい発見がしやすくなるのではないかと思った。参与観察の対象には新幹線の高架下を選んだ。高架下には電車の音に悩まされながらも生活環境を作り上げている人がいるはずだと思ったからである。静岡駅から一キロ圏内という今回のお題にもピッタリだと思った。

 静岡駅に向かう新幹線のなかで、見に行ってみたい場所をGoogle検索した。高架下に今年の春にできた公園や、昔ながらの飲み屋街があるようだ。これらの場所に行ってみようかと考えながら静岡駅で降車した。

 十一時に会議室に集合し、すぐに全員で外に出て散歩をする。リモートでしか話したことのない人と対面で話すときのある種の感動を感じながら、話に花が咲く。話に夢中になりすぎず周りに注意を向けなくてはいけない。数十分歩いたあとには気づきの共有をすることになっていた。なるほどと感じたのは、散歩から帰ってきたあとの共有会で教授が言及した「回数を重ねることの意義」である。初めて街を歩いて得られた気づきは印象や仮説に過ぎない。特定の時空間で偶然目に入った事物に過ぎない。大切なのは最初の気づきを入口に、見る→気になる→調べるというループを何度も回すことである。調べてみて、最初の気づきが実は違っていたと知ることもよくあるが、違っていたと分かることのほうが価値あることである。色々なアプローチから新たな気づきを重ねることで、段々と理解を深めることができる。

 午後のフィールドワークから、各自分かれて行うことになっていたが、その前に会議室でテーマと参与観察をする場所を共有し合った。音環境というテーマと高架下というフィールドについて共有したところ、記録の仕方を注意していただいた。音環境の百科事典を作るのではなく音と人の関係を見るためには、単に音環境を録音して収集するだけでなく、現象に対する人々の反応を見るように意識すべきとのことだった。ある人にとってノイズである現象は別の人にとってノイズであるとは限らない。人の反応を見ることによって音環境がどのように捉えられているか考えることができるということだ。この教えを胸に高架下に出向いた。


一日目 フィールドワーク

 とても成功とは言えない結果で、正直なところ、タイムアップ後会議室に戻る足取りが重かった。当初行き先として予定していた公園と飲み屋街はいずれも閉まっていた。公園は実はレンタルスペースで本日の催しは無し。飲み屋街は夜からの営業開始のようだった。いずれも下調べ不足であった。方針を転換し、高架下沿いや駅構内を行き交う人が電車の音にどのように反応しているかを観察しようとしたが、期待通りには行かなかった。誰も電車の音を気にしているように見えないのだ。高架下では鉄道関係の職員さん同士が「ふつうに」挨拶を交わしているし、駅構内の雑貨屋では「ふつうに」接客が成立しており、電車の通過音や大きめのBGMを気に留めている気配がない。会議室に戻り「想定が全て外れて帰ってきました」と報告したところ、教授陣が笑っている。なんなんだと思ったが理由があった。

 フィールドの現実が思っていたことと違うことはむしろ当たり前で、重要なのはどのように違っていたかで、違いを記録することが大切なのだそうだ。確かに、フィールドで想定したことしか起きないのであれば、そもそもフィールドに出向く必要がない。今回のフィールドワークでは「電車の音が騒音であるはず、その反応として人々は何かしらの行動を起こしている」という仮説がことごとく打ち砕かれた。仮説が打ち砕かれるのはショックだが、そこがスタート地点だと思えば良いのだろう。謎の爽やかさで会議室を後にし、懇親会へと向かった。


二日目 フィールドワークまで

 二回目のフィールドワークに出る前に、会議室でこれから調べたいことの共有を行った。一日目は「電車の音が騒音になっているはず」という仮説につられて、電車の音は問題ではなく、人々は「ふつうに」話しているというところまでしか分からなかった。もっと広く音と人の相互作用を見に行きたいと相談した。いただいた指摘にハッとさせられた。「ふつうに」話しているというが、本当に「ふつうに」話しているのか。物理的には大きな音がなっている環境で、何かしらコミュニケーションが成立するための工夫があるのではないか。ある音環境で何にどのように注意を向けるかを体感するために、自分自身でその場で声を出してみたらどうか。自分の視野の狭さを恥じた。行き先も曖昧にしか決まらなかったが、とにかく音環境に入り込み、体験を通して何かに注意を向けてみようとフワフワと考えながら再び駅に向かった。


二日目 フィールドワーク

 行き先はランダムだった。結果的に三時間ほどで駅→茶屋→眼鏡屋→パチンコ屋→図書館と移動して行った。ふとその時かけていた眼鏡の調整をしてもらいたくなり駅近くの眼鏡屋に入った。そこで接客を受けたあとに書いたフィールドノートを引用する。


眼鏡調整の接客を受けてみて、店員さんが発している一言一句に私自身があまり意識を向けていないことに気がついた。もちろん言葉は発せられていて、発せられている内容はよく聞こえるのだが、頭に残らない。身振り手振りで、その時何が行われているのか、何を要求されているのか、何が期待されているのかがなんとなくわかる。しかし店員さん本人に質問をしてみても、身振り手振りでコミュニケーションを取っていることには言及されない。


眼鏡屋でのコミュニケーションは全感覚を総動員して成立していた。しかし感覚を総動員していることは、当事者には意識されていなかった。このことに気がついた後だったからか、眼鏡屋のあとに向かったパチンコ屋と図書館では、人と人の非言語的なやり取りが気になった。

 パチンコ屋で遭遇した方は年配の女性だった。大きな音を浴びてみようと、とりあえずパチンコ屋に入り入口近くのソファに腰かけた数分後に、少し落ち込んだ様子で一円パチンコの列からソファのほうにやってきた。パチンコは遊びなのだから、場所代としていくらかお金がかかるのは当然だという。きっと今日はあまり調子が良くないのだろうと思った。彼女はパチンコ屋に来てお金を落とさない人のことを疎ましく思っているようだった。居眠りをしたり、本や新聞を読んだりと、場所だけ使って帰る人もいると言っていた。きっと彼女は僕のことも疎ましく思ったのだろう。彼女と僕は同じソファのそばにいたが、身体の触れることのない距離感を保っていた。パチンコ屋はとても騒がしいので、大声を張り上げて話す必要があった。大きな声を出すと彼女がより遠く感じられるような気がした。

 パチンコ屋のあとに入った図書館は静寂の空間だった。参考書を開いて勉強する学生さんや雑誌を読む夫婦がいたが、だれも大きな声を出さなかった。そこでは身内による静かでハイコンテクストなコミュニケーションが行われていた気がした。友達か姉妹と思われる二人が閲覧席を行き来して静かにノートか何かを受け渡していた。雑誌を読む夫婦は寄り添って一冊を二人の間に広げていた。面白い箇所を見つけたのか夫が肘で小突き、それに妻が笑っているように見えたが、あまりに細かな動作でよく見えなかった。

 二日目もタイムアップになり、急ぎ足で会議室に戻った。最終報告では人と人のコミュニケーションがいかに全感覚を総動員しているか、そのことについて言語化することがいかに難しいかについて話そうと思った。そう思ってから、そういえばフィールドに出る前は音と人の相互行為を見に行くと言っていたと思い出した。全感覚が重要そうだと考え始めた後では、音を切り出して語ることが難しいと気がついた。


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 この振り返りを書きながら、今回のフィールドワークで一体何が変化し、何に気がついたのだろうと考えている。仮説が崩れ、問いが大きくなり、見る範囲が広くなったと言えるだろうか。一日目にフィールドワークに出る前に立てた仮説は狭かった。電車の音は問題を引き起こす騒音ではなかった。そして、人と人のコミュニケーションは「ふつうに」成り立っているわけではなく、工夫がこらされていた。その工夫は必ずしも「音」という切り口に収まらなかった。コミュニケーションの全体に目を向けると、関わり合いが全感覚で行われていることに、これまでちっとも意識を向けられていなかったことに気がついた。

 こうした気づきは、知りたいことを話し合い、フィールドに出向き、分からなかったことを話し合い、再び問いを立てフィールドに出るなかで徐々に得られた。こうした過程から何が言えるのか、全く分からない。一つ言えるのは、とてもしっくりくる過程だったということだ。

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