この町と僕と世界のはなし

金輪際 茂男

Ⅰ 控えめな青

 用賀は246と環八に囲まれ、首都高が東名高速と名を変えるインターチェンジの程近く、そういった交通の便を考えれば割合に静かな街だ。住民の主な足は東急田園都市線で、平日の朝晩毎には中流家庭を支えるサラリーマンとその家庭で育った学生達で電車内はごった返す。休日になれば隣駅の二子玉川か電車で一本の渋谷の街にまで出るのが、いわばこの町の定番の週末だ。
 僕は生まれてからの十三年間をこの町で過ごした。駅にはオフィスビル −−これが町で唯一のビルと呼べる建物なのだが−− が隣接しており、物心ついた頃には既に、その頂上付近には、僕の家の方角に向かって"SUN"の青いネオンが控えめに輝いていた。特に気に入っていたわけでもない。それはまるで当たり前の風景の一部でしかなかった。それでもそれをよく覚えているのには理由がある。記憶が正しければ僕が中学生の時、それは"ORACLE"という派手なオレンジ色のネオンに変わった。当時僕は、新しいネオンはけばけばしく下品で、何より自分の名前を強く主張するようなその色は、この町には似合わないと思った。この町は何かを失ったんだと。
 ネオンの変更は、当時そのビルに本社を置いていたサン・マイクロシステムズの日本企業が日本オラクルに買収されたためだと知ったのは、すでにこの町を出た後だった。しかしどちらにせよ、そんな理由と僕の感傷はおそらく何の関係もない話だった。
 ネオンが変わったからといって、この町での人々の生活が、とりわけ僕の生活が何か変わったというわけでもなかった。隣町の二子玉川にショッピングセンターが出来たとか、東急が駅前の開発に力を入れ始めたとか、そういったことが住民の暮らしに及ぼした影響に比べれば、ネオンの一つなど誰も気にしてはいなかった。
 今の子供達がいつか大人になってこの街を思い返す時、きっとこのオレンジのネオンがその記憶を明るく彩っているのだろう。そしてそれは僕には何も関係のない話だ。
 では小さな街の小さなネオンと、幼い個人的な感傷を巡るこの話は、ただそのままの意味の、それだけの話だったのだろうか?
 だけど時折ふと、思うのだ。僕は僕の"SUN"を、一体何処で落っことしてきてしまったんだろう、と。

Ⅱ 権利か価値か

 仮にあなたが私に、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問いかけたとしよう。私が「人には生存権があり、人を殺すことはその権利の侵害だからだ」と応じたとしたら、私はあなたの問いかけに答えたことになるだろうか。もしあなたの問いかけが法律の観点から為されたものだとしたら、私は真っ当に答えたことになるかもしれない。しかしその問いかけは本当のところ、倫理的な何か、いわば人としての正しさを問うものだったのではないだろうか。

 問題提起を端的に済ませておこう。倫理とは権利の問題なのだろうか。私たちが倫理的困難に対面した際に気にかけていることは、権利の有無なのだろうか。
 なぜこれが問題となるのか。それは近年の倫理学内部での議論の大半が権利に関する議論であり、倫理学者はもはや、倫理的諸問題は権利の問題を明らかにすることで解決できるのだと言わんばかりであるからだ。本当にそうなのだろうか。倫理とは、ミクロの視点で言えば、「どのような行為が善い行為で、反対にどのような行為が悪い行為なのか」の答えであり、マクロな視点で言えば「私たちはどう生きるべきか」の答えである。はたしてこれらの問いは、権利の問題を解決することで、同時に解決できる問いなのだろうか。

 さて、倫理学の内部で行われてきた議論がどのようなものなのかを知らなくては、私の問題意識を共有してもらうことは出来ないだろうから、まずは倫理学の内部の議論を紹介することから始めよう。ここでは一例として妊娠中絶の倫理的是非を巡る議論を紹介しよう。この議論は、純粋に哲学的な議論としては非常に興味深い、示唆に富んだ議論である。だがここで考えてほしいのは、私たちが実際に直面する倫理的困難の解決のための手助けに、この議論がなっているかどうかである。

 妊娠中絶の倫理的是非を巡る近年の議論は主に二つの陣営に分かれて行われてきた。ひとつは女性の身体に関する自己決定権を根拠に妊娠中絶は正当化できるとする立場(A)であり、またひとつは胎児の生存権を根拠に妊娠中絶は不正であると主張する立場(B)である。
 前者Aの立場が採る戦略のひとつは、胎児の生存権を否定することで妊娠中絶を純粋に女性の身体に対する自己決定権の行使の範囲に置くことである(A-1)。また異なる戦略を採る人々は、胎児の生存権を認めつつ、しかしそれらが対立する妊娠中絶の場合には女性の身体に対する自己決定権が胎児の生存権に優越すると主張する(A-2)。
 後者Bの立場の人々には、古くには生命の神聖さを持ち出し、妊娠中絶は神の領域への侵犯であること、もしくは自然の摂理に背く行為であることを根拠に妊娠中絶を不正とみなす立場(B-1)が含まれてきた。しかしこの立場をとる人を、ひと昔前のローマカトリック教会以外で見つけることはもはや難しい。基本的にBの立場をとる人は、女性の身体に対する自己決定権を認めつつ、しかし胎児の生存権はそれに優越するがゆえに妊娠中絶は不正であると主張することになる(B-2)。
 胎児の生存権を否定するA-1の主張が正しいことを確認するためには、胎児を破壊することと、(一般に生存権をもつとされる)既に親の身体から出ている「人間」を破壊することの間に、倫理的に重要な違いを見つけることが必要である。それはすなわち、胎児と「人間」との間の倫理的に重要な違いを示すことである。しかし胎児と「人間」との間にある連続性が事態をややこしくさせる。かくしてこの立場をとる人々の議論は「ヒトはいつから人になるのか」もしくは「ヒトはいつから人とみなされるべきなのか」といったいわゆるパーソン論に突き進むことになる。
 生物学的・発生学的な見地から胎児と人の間に明確な線引きを引こうとする目論見はことごとく失敗に終わってきたようにみえる。むしろ生物学的・発生学的見地からは、胎児と人の間にある発生過程のどこに線を引こうともそれはすべて恣意的な線引きに過ぎないことが確認されてきた。生物の発生過程はいわばグラデーションである。仮にその両極が白と黒であったとしても、その間のどこまでが白(とみなされるべき)であり、どこからが黒(とみなされるべき)といった線引きを正当化する説得的な根拠は今日までついに見つけられていない。
 女性の身体に対する自己決定権の優越を主張するA-2の立場の人々と、胎児の生存権の優越を主張するB-2の立場の人々はいわば同じ土俵に乗っている。互いに女性の身体に対する自己決定権も胎児の生存権も認めつつ、その両方が対立する場合においてどちらが優越するのかについて彼らは議論を交わしているのである。
 両者の議論の詳細を説明するには非常に膨大な紙面を要するが、ここでは本題とは逸れるので、有名な議論をひとつ紹介するのに留めよう。その議論とは、トムソンによって提出された「ヴァイオリニストの比喩」についてである。比喩の大約は以下のようなものである。
 あなたはある日病院のベッドで目を覚ます。あなたの体には一本のチューブが繋がれており、そのチューブのもう一方の端は、隣のベッドのヴァイオリニストの体に繋がれている。そのヴァイオリニストは特殊な病気で、これから9か月間に渡りあなたの血液を常に提供さなければ生きてはいけない状況である。また、あなた以外の血液ではそれが誰の血液であってもそのヴァイオリニストは生きてはいけない。ヴァイオリニストはベッドから起き上がることができないため、私もまたこのヴァイオリニストと繋がれている限りはベッドから離れることはできない。さて、私がこのチューブを抜いて身体の自由を得ることは不正だろうか。突然に目を覚ました時に繋がれていたこのヴァイオリニストの生命に対して、私は何らかの責任や義務を負っているだろうか。いやむしろこれは私の身体の自己決定権(身体の自由と言ってもよい)に対する明白で重大な侵害なのではないだろうか。ヴァイオリニストの生存権を認めたとしても、それは「生きることを阻害されない権利」であって、他人に「生きることを可能にする環境を整えてもらう権利」ではない。よって私がチューブを引き抜くことは何ら不正なことではない。これが「ヴァイオリニストの比喩」の大約である。言わずもがなこの例にでてくる「私」とは妊娠をした女性、ヴァイオリニストとは胎児の比喩である。
 この比喩を用いた妊娠中絶擁護に対する反論はさまざまに予想できる。そもそもこの比喩は妊娠の比喩として適切だろうか。確かに「私」は自らの体をヴァイオリニストの体に繋がれることに何ら同意していない。しかしすべての妊娠に関して、一種の同意はなかったといえるだろうか。妊娠することを避けることも避けないことも選択できたケースもあったのではないだろうか。だとするならばこの比喩を用いて擁護できる妊娠中絶とは同意を経ていない妊娠の場合に限られるのではないだろうか。
 その他にも「私」とヴァイオリニストの関係と、妊娠した女性とその胎児との関係との非対称性を挙げて反論する声もあるだろう。自らの生命と行為に責任を持てる「人間」同士の関係と、責任を持てる「人間」と持ちえない胎児との関係には大きな違いがある。
 トムソンによるこの比喩はほんの一例であるが、女性の身体の自己決定権と胎児の生存権の対立を巡り、この他数多くの比喩や思考実験、より基礎的な権利からの推論などが各立場から提出されてきたのが、近年の妊娠中絶の倫理的議論である。

 さて、ここまで妊娠中絶の倫理的是非を巡る議論の大枠をなるべく簡潔に(ゆえに極めて大雑把に、所によっては不精確に)、まとめてきたつもりである。ただし先に述べたように、私は単に妊娠中絶の倫理的是非を巡る議論を紹介したかったわけでも、ましてや妊娠中絶問題におけるどの立場が正しいのかを明らかにしたかったわけでもない。ここでは妊娠中絶の問題は、単に倫理学の議題のひとつの例である。この先の文章でも必要に応じて妊娠中絶の問題へ言及するが、私の批判は妊娠中絶の問題に限らず、多くの倫理的議論をその射程に捉えていると考えてもらいたい。

 今から私が言おうとしているのは、多くの倫理的問題を巡る議論への強烈な違和感である。それはつまり、倫理的是非がなぜ権利の有無や優越の問題と同一視されているのかという疑問である。妊娠中絶の倫理的な是非は、単に母親に中絶をする権利があるかどうか、胎児には生存権があるかどうかの話なのだろうか。
 権利とは一種の適法性である。「ある行為を行う権利がある」ということはせいぜい「その行為をすることを阻害されるべきでない」こと、そして「国家はその行為が阻害されない環境を整えるべきである」という程度の意味でしかない。
 例えば法律に許されたギリギリの利子で他人にお金を貸すことと、それを0.1%超えた利子で他人にお金を貸すこととの間に、何か本質的な違いがあるだろうか。言うまでもなく前者は適法な行いであり、規制・処罰されるべきではないが、後者は違法な行いであり、規制・処罰されるべきである。言い換えるならば、誰しも前者の金利で他人にお金を貸す権利を有しているが、後者の金利で他人にお金を貸す権利は有していないということである。
 しかし法律で定められた数字それ自体に本質的な意味はない。単にルールを作るうえではどこかに線を引かなければならなかっただけである。線引きの妥当性は線の左右に本質的に違いがあることを担保しない。言い換えるならば、いかに妥当な法律が定められようとも、両者の行為の違いを説明したことにはならない。両者が異なるから線を引くのではなく、線を引いたからこそ両者は分けられたのである。両者の行いには、適法性の観点では大きな差異がある。しかし、行為そのものの本質には、なんら重要な道徳的差異は見受けられない。
 このことから分かることは、行為の適法性は行為の本質とは別のものであり、適法性がその行為の道徳的な価値を決めるのではないということである。そして権利も一種の適法性であるならば、権利の有無が倫理的な是非を決めるのではないということになる。

 さて、次に倫理的困難に直面する当事者の立場からこの問題を捉えてみよう。妊娠中絶をすべきかどうかに悩まされている女性ははたして、権利の有無に悩まされているのだろうか。彼女は、「人には中絶をする権利があるだろうか」という問いに悩まされているのだろうか。彼女は自身の行為の適法性を問うているのだろうか。彼女が抱えているのはむしろ、人間一般にそのような権利があるか否かなどではなく、「私は中絶をすべきだろうか否か」という問いではないだろうか。その決断には経済的要因や社会的要因、身体的要因など様々な要因が考慮に入れられるだろう。そしてまた、「はたして妊娠中絶は、胎児の生命を終わらせることは、私(または胎児)にとって、望ましい行いだろうか」という問いもまた思案されているではないだろうか。つまり妊娠中絶という行為の道徳的価値を考慮に入れようとしているのである。繰り返そう。彼女の関心は権利ではなく、道徳的価値に向いているのだ。
 この問題は単に妊娠中絶の是非に限った問題ではない。私たちが他人を助けるかどうかに迷うとき、真実を述べるかどうかに迷うとき、その他数多ある倫理的困難に立ち向かうとき、その時我々が真に知りたがっているのは、その行為の適法性ではない。知りたがっているのはその行為の道徳的価値である。
 そうであるにもかかわらず、倫理的問題を巡る多くの議論は、道徳的価値の議論を避け、権利という論点に終始してきた。価値の議論が避けられてきたことには理由がある。現代では価値観の自由は個人の自由の最も重要な核の一つとして、誰にも侵されるべきでないものとみなされるようになった。何に価値があるとみなすかは完全に個人の自由であり、それは全く比較検討不可能な領域とする風潮が強まっていった。社会に求められることは価値について語る場を提供することではなく、各個人が思い思いの価値観で生きることを誰にも阻害されない環境を整えることとなった。なにが善く、何が悪いかは各個人が自身の価値観のみで判断することであり、客観的議論の対象ではなくなった。ゆえに倫理的議論に残された議題とはせいぜい、価値という概念に触れずに、互いが自由に生きるために干渉しないルールを定めることであった。
 しかし、価値の議題が議論の場からいなくなったからといって、私たちの生活から価値という概念が消え失せたわけではないし、私たちが道徳的価値に関しての疑問を抱かなくなったわけでもない。むしろ、宗教が価値観の絶対的な提供者であった時代が去り、各個人に価値観の涵養が任され、その結果価値観が多様化した現代だからこそ、価値の議論は人々にとって「私はどう生きるべきか」という切実な問題の手がかりとして求められているように見える。
 今一度思い返してみよう。体系的な倫理理論の始まりと言われるアリストテレスの倫理学の中心的問題のひとつは、「人はどう生きるべきか」ではなかったか。その問題はその後長きにわたって、船頭の役割を宗教に委ねられた。しかし、宗教が船頭を務められる時代ももはや終わった。倫理学者に限らず、私たちは今一度、「人はどう生きるべきか」を考える必要がある。それは自分自身の頭で「私はどう生きたいか」を考え、見つけるためだ。そしてその答えを探すコンパスとなるのは価値の議論であるはずだ。なぜなら、「どう生きたいか」とは、「何を価値あるものとみなすか」にかかっているのだから。
 私たちは生存権があるから生きるのか。いやむしろ、我々が生きたいと望むからこそ生存権という概念が必要になったのではないか。権利とは必要に応じて発明されたルールである。それは人類史上最も偉大な発明品の一つであるかもしれない。しかし権利がいかに正しく基礎づけられていようとも、権利は私たちを動機づけず、目的を与えることもない。「私はどう生きるべきか/どう生きたいか」という問いは権利という概念に先立つ問いであり、まさにその問いこそが倫理の根本的問いなのだ。そしてその問いを裏返せば、「どのような人生が、生きるに値する人生なのか」という、生きる価値についての問いかけが現れる。この問いかけの前では、権利の概念が語れるものは何もない。
 繰り返しになるが、倫理学の内部では倫理的諸問題に際し、権利の議論に終始してきた歴史がある。今、私たちは倫理学に対し問うべきだ。「果たしてそれは権利の問題なのか」と。そうしてやっと、私たちのための、生きる価値についての議論の準備がなされるのである。

Ⅲ 法廷

悠久の砂漠に忘れられた、ひとつの法廷がある。
そこには状況と呼べるものは他に何もない。
ただ判事の席に置かれた鏡と向かい合って、ひとつの証言台がある。

男がやって来る。
肩を落としたまま、少しだけ背を伸ばして証言台に立つ。
「これが欲しかったものか?」
「こんなはずじゃなかったんだ。」
「それでもお前が望んだことだ。」
「私はもうあなたとは生きていけないのだ。」
「判決が欲しいのか?」
「ああ、謹んで承ろう。」
「ある男がいた。彼は人を傷つけることを恐れ苦しむばかりでは飽き足らず、人を傷つけた自分が苦しむことの欺瞞に絶望していた。
加害者であることに苦しむのは、被害者のためではないことに気づいていたのだな。」
「ではそれは何のための苦悩だ?」
「それはいかなる方向も持たない、ただそこに在るだけの痛みだ。しかし、彼はもう生きてはいけなかった。」
「それで、その男はどうなった?」
「さあな。そもそもそんな男のことなど、誰も知らなかったのだ。」
「それが判決か?」
「いい加減気付くべきだ。これは判決ではない。溢れる意味と方向性の海に沈む、ただの質量なのだ。」
「では救いはないのか?」
「一つの終焉が甘い言葉でお前を誘うとき、その光に見出す言い訳を、救いと呼ぶに過ぎない。」

男は肩を落としたまま、また歩き始めた。
砂上についた足跡を風が撫でるように埋めていった。

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