『シンフォニック・エッセイ』

原凌

  二

 大伯父秀雄は一九二二年に生まれ、長野県伊那谷で育った。わけても飯田町(現飯田市)は先祖貫籍の土地だが、秀雄は川路村、上郷村、上飯田町、泰阜村と、伊那のなかで、多くの村を転々としたから、ふるさとを伊那谷と呼んでいる。秀雄の父、政雄(私の実の曾祖父)のことは、エッセイの所々に、思い出として描かれている。娘と息子を失い、四十後半からほとんど隠居となって暮らし、ショーペンハウアーを崇拝して、文章を書き、そして気持ちに反して長生きし、多くの親族の死をみとった秀雄さん。政雄さんの人生は、どうか。第四章「帰省」より。墓を見て、秀雄が父を回想する文章がある。

 父は心優しく、同情心の厚い、好人物であった。若いころの一時期、仙峡閣(親族が経営していた、天龍峡にある旅館:筆者注)を経営していたこともあるのだが、その性質が大きなわざわいとなって、生活の上でも仕事の上でもずいぶん失敗し、挙句の果ては一家を離散させ、みずからはその生涯の大部分を流離の生活に費やしてしまった。郷里に帰って暮らすことができたのは晩年のことで、後半生を失意と欠乏のうちに過ごした薄幸の人であった。(中略)こうしたわけからか、父はめったに笑ったことがなかった。まれに笑うこがとあっても、弱弱しい、むしろ微苦笑といったものだった。彼の明るい哄笑というようなものを私は知らない。彼は、いつも浮世の辛酸をなめ尽くしたような人の悲しみのこもった目、万斛ばんこくの愁いをの愁いをたたえた目をしていた。

 政雄がいかなる人生を歩んだかは、分からない。エッセイから知ることができたのは、秀雄が八歳の頃に、家族が離れ離れとなり、秀雄は叔母(政雄の姉)なみゑに育てられたということだけだ。次男が当時、どうしたのかは書かれていない。私の実祖父、三男の利雄は、養子にやられた。驚いたことに、若い時から、貧しさと心細さとを強いられたにもかかわらず、秀雄ら三人兄弟の絆が、死ぬまで強かったこと、それから、三人兄弟揃って、父、政雄への温かさと尊敬の眼差しを失っていない。政雄がどうして家族を離散させなければならなくなったのかは分からない(秀雄には異母妹にあたる娘を、政雄は他に作っていたようだ)。が、どんなに失意の人生であったとしても、ここまでの辛さを味わってなお、父を父として尊敬している息子たちを持てただけで、立派ではないか。右の引用文以外にも、二十代の軍隊生活をしるした日記のなかで、秀雄が、父や弟たちと久しぶりに会い、心躍らせている日がある。それも一度、二度ではない。父への優しい気持ちは、若いときから一貫している。
 秀雄は、上飯田の尋常小学校を卒業すると同時に、十七歳までの約二年半の間を、愛知の豊橋で過ごした。十七歳の夏に、豊橋から、天龍峡の仙峡閣に戻り、泰阜村の小学校などで、代用教員を務める。そして二十もすぎたころ、徴兵され、川崎、そして習志野で軍隊生活をおくることとなる。
 豊橋は、秀雄の青春がはじまりをむかえた土地だ。
 伊那の山山と天龍川とに囲まれて育った秀雄にとって、豊橋は大都会だったに違いない。秀雄は、十五歳の春、豊橋の加藤秀次郎商店に仕事を求めた。加藤秀次郎商店(通称マルカ)は高級寝具、絨毯じゅうたんの販売商で、営業は店員による販売訪問と通信販売で行っていた。秀雄がここに住み込みの店員となって働きはじめたきっかけは、商売のかたわら、夜間の商業学校に通わせてもらえるということだったらしい。貧しさの中でも、学びたいという好学心を、既に持っていたのだ。が、秀雄は、一学期をもって、豊橋商業学校をやめてしまう。卒業しても、その先の学校に入る資格が得られぬこと、簿記や算盤といった学びが気質に合わなかったこと、こうしたことが理由のようだ。学校を辞してのち、夜間学校に通う時間を、秀雄は、読書や専検(今でいう大検)の勉強にあてることとなった。
 学校への失望にはじまった㋕時代だが、回想する文章を読むと、そのトオンに、青春のはじまりの、瑞瑞しいものを想う歓びを感じる。人員五十名にも満たない商店のようだが、訪問販売(通称外交)は内地のみならず、朝鮮、台湾、樺太、満州南部まで及んでいたらしい。秀雄は見習いが終ると、浜松や東北地方諸都市など、いくつかの都市に、外交をしていたようだ。秀雄の記憶を通じて、ぼくはわくわくを覚える。豊橋から出発した絨毯や寝具が、満州や朝鮮に届き、日々を彩る。教科書で習った通史が、少しずつ、生の実感をもちはじめる。朝鮮や台湾や満州の家に飾られ、備え付けられた絨毯と、自分がつながりをもちはじめると、外地の産業やら、内地と外地の通商やら、その絨毯がどんな生活を共にしたのか、などなど想像はつきなくなってくる。絨毯も寝具も、意味を帯びて、人生に立ち現われはじめる。
 第二編、第二章に「マルカ同窓会」という章があり、そこで、青春時代をともにした、旧友たちとの再会について書かれている。村松君というかつての友人との会話である。

 村松君は、私が店の裏にある倉庫の屋根裏に勉強場所をつくり、そこで熱心に本を読んでいたことを思い出すといった。倉庫というのは、寝具類や絨毯じゅうたんを発送するために荷造りをする大きな建物で、その一部分には絨毯が山積みにされており、天井にはむきだしの太いはりが何本も走っていた。私はその梁と梁の間に厚板を渡し、その上に木の空箱を置いて机代わりにし、鳥の巣のような小さな屋根裏の勉強部屋を作ったのだ。そして夕食後、そこで「専検」(今日の「大検」にあたろうか)受験のために早稲田大学の中学講義録などを読んでいたのだった。こういうことは記憶の闇の底に沈んでいたのだが、村松君の言葉で浮かび上がってきたのである。

 寝食を共にした仲間たちはどうか。同窓会の名簿を見ると、数名の死者がいて、そこに戦争の傷を感じる。また、同窓会に出席した者の大半が、二十代前半に、戦争体験をしていることがわかる。

 だが、村松君は、七十になろうとしているとはいえ、老人じみた顔をしていなかった。マルカ時代は文字通りの紅顔の少年で、あかいリンゴのような血色のよいほおをしていたが、その面影はどことなく残っていた。(中略)かれは、堅実、実直、忍耐強い人柄で、戦後ずっと東京の大手筋の会社Tでサラリーマン勤めをし、最近定年退職をしたのだが、なお元気で週の何日かは軽いアルバイトをしていると聞いていた。

 同窓会の章の冒頭、村松君と再会した秀雄さんが、彼から受けた印象である。どこか少年の面影を残した、七十近のサラリーマン。この人は、マルカをやめたのち、満州国官吏となった。その後、大戦の激化に伴い、関東軍に入隊させられる。その後の村松君の従軍体験について、秀雄さんは手紙のやりとりも加えて、詳細を聞き取った上、エッセイにそれを書き留めている。
 
 一九四四(昭和十五)年二月、満州で徴兵検査を受け、関東軍に入隊させられたが、四月初めにはもう南方派遣となって慌ただしく駐屯地を出発。翌五月十七日夜には乗り込んでいた輸送船がグアム島沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を食って撃沈され、救命胴衣を着けた軍装のまま輸送船から脱出。友軍駆逐艦の投下爆雷による臓腑はらわたの裂けるような震動や人食いサメの恐怖にさらされながら板切れにすがりついての十六時間もの漂流。友軍の巡洋艦に救い上げられてサイパン島に上陸。部隊が再編制されて土井部隊所属となる。同部隊は、米軍がサイパン島に上陸する四日前に輸送船に乗り込んで同島ガラパン港を出て目的地に向かう。(米軍は六月十五日、サイパン島に上陸。七月九日、同島占領宣言。日本陸海軍は全滅し、将兵三万人余戦死、民間人も約一万人死んだ)輸送船は出港の翌日、グアム島沖を航行中、米軍機の爆撃を受けて航行不能となり、友軍駆逐艦に曳航えいこうされて、六月十八日パラオ群島のある島に到着して上陸、以後同島の守備につく。しかし、食糧は無いに等しい状態だったので、食べられるものならカタツムリでもなんでも食べ、タロイモ、サツマイモ作りに励みながら蛸壺たこつぼ(一人用塹壕ざんごう)堀りや軍事演習に明け暮れる。九月半ばごろ(?)すぐ近くのペリリュー島に米軍が上陸し、激烈な攻防戦が展開されたが、陸海軍守備隊約一万人が玉砕。それに伴い土井部隊も約一週間、昼夜ぶっとうしで空爆、艦砲射撃の攻撃を受けたので全員玉砕を覚悟したが、なぜか米軍は上陸せず、九死に一生を得ることができた。

 一九八〇年代、こうした地獄絵図のような体験を経た人々が、「まるで少年のような面影を残した」好好爺となって、生きていた。この一つの事実が、教科書で習った高度経済成長とかバブルとかそういった戦後の日本社会像の見方を、変え始める。村松君だけでなく、同窓会に来た大半の男たちは、戦争体験の影を、もっている。幸運にも、戦地に赴かなかった秀雄は、直接あるいは手紙をつうじて、同窓の人一人一人の戦争体験をくわしく聞き取り、書き記している。ここに、マルカの同窓生の戦争体験を、秀雄の書いたままに抄出する。三城さんの従軍体験から。

 マルカ在店中の一九四〇(昭和十五)年に徴兵検査を受け、第一種乙種合格〈筆者注:甲種合格というのが兵隊としての第一級品で、以下乙、丙などと続く。筆者などは自慢ではないが、第二乙だったか第三乙だった〉一九四四(昭和十九)年三月、名古屋の中部第十三部隊に応召入隊。陸路、朝鮮、満州、北支を通過して徐州に行き、そこで現地教育を受ける。「至猛兵団」に配属され、ついで漢口の警備隊に転属される。第二長沙作戦、桂林作戦に参加。伝令で十五キロ先の他部隊へ行く途中、死線を超える目に遭ったことがあり、漢口警備隊にいたころ、しばしば米軍機による空襲を受けたが事なきを得て同地で終戦を迎える。翌年八月、上海より復員。

 続いて光治君の従軍体験。

 一九四三(昭和十八)年一月、横須賀海兵団に入団。同年十一月、横須賀海軍通信学校を卒業するとともに南方第一線に派遣されることが決まる。行く先がソロモン群島ブーゲンビル島ブインのジャングルの中のテント陣地とわかると、同期の者から玉砕組とからかわれる。サイパン島行きと決まった同期の者たちは常夏のパラダイス行きと喜んだが、結果は玉砕組の方が生還し、パラダイス組の方が玉砕することになってしまった。
 その年の十二月、輸送船筥崎丸はこさきまるに乗せられて横浜港出航、トラック島に向かう途中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けたが乗船がこれを危うくかわして難を免れる。翌年一月、トラック島からラバウルへ向かう。このときは輸送船が満員ということで、駆潜艦おおとりに便乗させられていったところ、近くを航行中の一万トンの輸送船が三本もの魚雷攻撃を食らい、数分間で撃沈されてしまったのを目撃する。
 ラバウルについてみると、もうそのころわが軍は毎日毎日あたかも日課のごとき米軍機の猛爆撃を受けており、多いときは、一日三百機来襲という有様で、そのほかの艦砲射撃や艦載機の機銃掃射にもされる。戦況日に日に我に非となってゆくためブーゲンビル島へは行けなくなり、ラバウルに止まることとなる。やがて敵に制空権を完全に奪われて地上にある軍事施設はすべて破壊し尽くされ、わが陸海軍十万は土蜘蛛つちぐもさながら洞窟陣どうくつじん生活に追い込まれる。またその一方では、マラリア、テング熱その他の熱帯病に冒されつつ、食糧の自給、調達のための重労働に追われる。こうしてついには玉砕を覚悟するに至ったが、終戦となり、一九四六年五月復員。わが軍が掘りに堀ったこの洞窟陣地の長さは東京から沼津までもあったと聞く。

 辰巳君の従軍体験。

 一九三九(昭和十四)年四月、市川市付近にあった東京陸軍航空学校に入学。ここで第三期生として一年間学んでから、引き続いて水戸市近くにあった陸軍航空通信学校に入り、一九四二(昭和十七)年一月に卒業し、関東軍の航空情報隊に配属されて渡満する。一九四五(昭和二十)年八月八日、ソ連軍が対日参戦し、怒涛どとうのごとく満州に進撃を開始したときには当然邀撃戦ようげきせんに参加したが、開戦二日後に少々空爆を受けた程度で事無きを得る。
 ほどなく終戦を迎えて捕虜となり、シベリアに送られ、コムソモリスクから数十キロ離れたところにある収容所(もと囚人収容所)に入れられ、ソ連軍から中隊長を命ぜられた。(入ソ一年位より後は被収容者の選挙によって中隊長に選ばれた。収容所には初めは将校の、のちには下士官の大隊長がいた)また、後記農場の作業責任者を命ぜられて作業の指揮を執った。この収容所はそこから十キロほど離れた所にあった病院からの退院者を受け入れて軽作業をさせ、健康を完全に回復した者を他の作業収容所に送り出す役目をもっていた。そのため百二十ヘクタールの農場をもっており、夏季の収容者は千名に達し、馬鈴薯ばれいしょ燕麦えんばく作り、草刈りなどをし、農作業不能の冬季の収容者は二百名位になり、まきの伐採に従事していた。‥‥ようやく一九四九年に復員。

 雨宮君の従軍体験。

 豊川海軍工廠で二年働かされた後、一九四四(昭和十九)年四月十日、静岡歩兵第三四連隊に応召入隊。入隊するとすぐ部隊は中支派遣となり、同月末には輸送船に乗せられて博多港出航。上海、南京を経て漢口に上陸し、翌月末、同連隊の留守部隊の駐屯地、河南省信陽に到着。ここで一か月の現地教育を受けただけで、湖南省、広西省にわたる大作戦(第三次長沙・湘桂作戦)遂行中の本隊を追尾して洞庭湖畔を南下し、来陽で合流する。ここで「幸三七〇三部隊」の軽機関銃部隊に配属され、同年八月から湘桂作戦に参加、南進して広西省(現広西壮族カンシーチワンぞく自治区)の桂林、柳州を経て大塘に達した。とはいえ、この間(一九四五年三月までの八か月間)は、日中戦争も終局段階に入っていて制空権は敵側に掌握されていたため、ほとんど夜間行動を余儀なくされた。かてて加えて、食糧は現地徴発というひどいものだったから、睡魔にさいなまされ、飢餓に苦しめられながらの夜間の強行軍と戦闘の連続という、筆舌に尽くすことのできぬ凄惨せいさんな悪戦苦闘の毎日だった。
 ようやく生色を取り戻すことができたのは、三月末、独立混成旅団に転属させられ、中隊指揮班の功績人事係助手となってからであった。このとき所属部隊は大塘より反転後退を開始して北上中、岳陽と漢口の中間辺の嘉魚(?)というところで終戦を迎え、十月十日武装解除される。けれども、すぐ復員というわけにはいかなかった。その地の揚子江は水浅く、復員船が来られなかったし、兵隊は食糧不足で栄養失調に陥り、移動する体力がなくなっていたので、雨季を待つしか仕方がなかったからである。以後その地で翌一九四六(昭和二十一)年の雨期まで飢餓に苦しめられながら長い年月を過ごし、ようやく復員船に乗ることができて鹿児島加治木港に帰り着いたのは同年六月二十日のことであった。が、マラリアにかかっていたため鹿児島病院に一か月入院。七月二十日にやっとのことで故郷の土を踏むことができたのだった。

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