猫の目

益田伊織

 最近ムーミンに傾倒しており、テーマパークやショップを訪れたり、百円ショップで売っているグミをかじったりしている。グミは旅行の際、いわゆる推し活の要領でその辺において写真を撮ってみたりもした。もちろん地面においた後もちゃんと食べるので、食べ物を粗末にするような下品なことはしていない。

 しかし何よりも優れているのは原作、トーベ・ヤンソンによる九冊の小説群に違いない。ムーミンと仲間たちの物語については、一般にどういったイメージが持たれているのだろうか? 実際に読んでみる前、私はそれを、無時間的・ユートピア的なムーミン谷で繰り広げられる、ムーミンたちの平穏な日常(そしてその中での、決して生活の基盤そのものを揺るがすことはないようなささやかな冒険)、といったものとして想像していた。

 小説群が実際に描きだしているのは、むしろほとんど真逆の事態だと言っていい。複数の作品において、ムーミン谷はその存続さえも危うくするようなカタストロフに見舞われる。『ムーミン谷の彗星』ではムーミン谷、というか地球に彗星が迫り、その熱で海の底まで干上がってしまう。『ムーミン谷の夏まつり』ではムーミン谷に洪水が訪れ、谷に建てられた屋敷が皆流される。『ムーミンパパ海へ行く』ではムーミン谷をこうした災害が訪れることこそないものの、ムーミン一家はパパの発案で安定した暮らしが保証されたムーミン屋敷を放棄して島で新たな暮らしを築き上げることとなり、一家は新天地で食糧難や嵐といった様々な困難に見舞われる。ムーミン作品群は本質的に、共同体の秩序が揺さぶられる事態を巡る物語なのだ──そしてそれは、多くのジュブナイル小説における主要人物たちの「冒険」よりも、はるかに過激な仕方においてであると言っていい。

 驚くべきことではないが、こうして危機に見舞われた共同体は、やがて作品の結びに至って新たな秩序を取り戻す。彗星は結局地球に直撃することなく去ってゆくし、洪水はやがて干上がる。嵐はやがて島から去り、一家の生活基盤も少しずつ新たに築かれてゆく。しかしそこで獲得される新たな秩序は、決して単なる従来の秩序の回復にとどまるものではない。『ムーミン谷の冬』では普段は冬の間は冬眠しているムーミンが初めて厳しい冬の世界を目にする物語だが、この作品の終わり近く、ムーミンは次のように考える。


[ムーミンは、筆者注]考えていたのです──春というものは、よそよそしい、いじのわるい世界から、自分をすくいだしてくれるものだと。ところが、いまそこにきているのは、彼が自分で手に入れて、自分のものにしたあたらしい経験の、ごく自然なつづきだったではありませんか。
(山室静訳) 

 死の世界でもあるような厳しい冬が去り、あたたかな春が訪れたからめでたし、というのではない。冬の厳しさにもそれ独自の意味とそこにしかない美しさとがあることに気付いた時、不意に冬と春とが地続きであることが分かり、その時初めて真の意味で生を引き受けることが可能になる。こうした生への本質的なオプティミズムは、ムーミン・シリーズの初作『小さなトロールと大きな洪水』が1945年の発表である事実を考え合わせるととりわけ意味深いものとも思われる。

『ムーミン谷の夏まつり』、『ムーミン谷の冬』… これらのタイトルにも示されているとおり、ムーミン・シリーズでは季節を巡る描写が多くある。おそらくは季節という主題が時の流れとそれによる世界の様相の絶えざる変転とを最も典型的に表すものだからだろうが、最後にこのことを示すものとして私がとりわけ美しいと感じる一節を引いておきたい。『ムーミン谷の夏まつり』より。

 おりしもお月さまは、夜明けの光の中で青ざめ、木々は、海からふいてくる朝のそよ風に、サラサラと音を立てていました。ムーミン谷に、もう秋がきたのでしょうか。でも、それでなくては、春はまためぐってきませんものね。
(山室静訳) 

 表情を変えてやまない世界を、その中で時として訪れる必ずしも心地よいばかりではない出来事もろとも肯定し、それらすべての「ごく自然なつづき」として生があり、これからもそうあり続けることを信じ、新たな経験を重ねてゆくプロセスを楽しむこと。ムーミンとともに!

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