フィールドワークとして生きる

村上陸人

 週末の午前は息子と二人で公園にいく。浜松のあちこちの公園を巡っていて、もう何周もしている。どの公園に行くかは予め決めず、そのときの気まぐれで選んでいる。その朝はそのうちのひとつ、市内でもわりと大きな公園を訪れた。

 そこで、インド人の父親と、その二人の子供と知り合った。上の子は六歳で、ちょうど小学一年生。下の子は一歳八ヶ月。父親が一人で、二人を遊ばせていた。うちの息子は二歳だから、下の子とほとんど同い年だ。

 はじめは、子供たちもたがいの距離をはかっていた。うちの息子が、ちょっと気になるという様子で、インド人の子供たちのそばへ近づいてみる。相手もこちらをうかがう。そうやって間合いを読み合ううちに、だんだんちょっかいを出し合うようになって、いつのまにか一緒に遊んでいた。

 きっかけは水道だった。公園の水飲み場には、立ったまま飲むための上向きの蛇口と、横向きに突き出た蛇口がある。上の子が、まず上向きの蛇口で水を飲んだ。それからまた戻ってきて、今度は横向きの蛇口をひねり、手で水をじゃばじゃばさせて遊びはじめた。うちの息子は背が届かないので、横向きの蛇口の方をひねりたがる。やらせてみると、そこに兄弟がまた寄ってくる。興味を示し合うより一歩踏み込んだ遊びになっていた。排水溝が詰まっているのか、足元はすぐ水たまりになる。しまいには三人で靴を脱ぎ、水浸しになって遊んでいた。

 父親同士の最初のやり取りも、この水だった。子供たちが、横向きの蛇口の水を手に当て、それを口に運んで飲む遊びをはじめた。たがいに真似し合っている。それを見て、父親の方から「この水は飲めるのか」と聞かれた。出どころは同じだろうから、飲んでも大丈夫じゃないか、と私は答えた。これが最初の言葉だったと思う。そのあと、上の子が飲み水用の蛇口を勢いよくひねりすぎて、噴水のようになってしまった。私がそれを止めてやると、「ありがとう」と言われた。

 思い返すと、このやり取りには大した中身がない。「この水飲める?」も「ありがとう」も、何かを伝えるためというより、たがいに敵意がないこと、ここで一緒にいて大丈夫だということを、それとなく確かめあうための言葉だ。挨拶や、天気の話や、わかりきったことをあえて口にするのと同じだろう。中身を伝えるためというより、声をかけあったということ自体に意味がある。以前この連載で、公園の親同士が交わす「ありがとうねー」「優しいねー」という宙づりの言葉について書いた。あれもおそらく、同じ種類のものだった。

 言葉を交わしても大丈夫そうだとわかってくると、会話が少しずつ動きだす。「何歳ですか」と聞いた。これは公園で子供を遊ばせる親同士の、いちばん使いやすい切り口のような気がする。そこから、たがいの素性が少しずつ見えてくる。彼はインドの出身で、日本に来て八年になるという。もとはインドの会社に勤めていて、近くの製造業の会社に出向しているエンジニアらしい。最初は単身だったが、いちばん下の子が生まれたのを機に、家族で来日した。上の子はちょうど小学校に上がる頃で、浜松にはインターナショナルスクールがない。だから地元の公立小学校に通っている。日本語は練習中だが、なかなか練習する機会がないと言っていた。私の方は、マーケティングやリサーチの仕事をしていること、英語は昔に海外の農園にいて覚えたことなどを話した。よくある初対面の会話だ。彼らは南インドの出身だそうで、おそらくタミル語系の言葉を家族間では交わしていたのではないかと思う。

 子供たちは、あっという間にびしょびしょになっていた。彼の家は近いらしく、着替えは持ってきていないのでそのまま家に帰るという。うちはたまたま着替えを持っていたので、一度車に戻って着替えさせることにした。そのうちまた会いましょう、と言って別れた。連絡先は交換しなかった。交換してもよかった気もする。ただ、また出くわすだろうという感覚もあったし、わざわざ「交換しましょう」と切り出すのも違う気がした。なぜそう思ったのかは、自分でもうまく言えない。

 別れ際、上の六歳の子が、やけに寂しそうにしていた。それが印象に残っている。日本に来て一年とすこし、ようやく日本語が話せるようになってきたところだと聞いた。自分の使える言葉で、つまり英語で、地元の人と通じあえた。ただそれだけのことが、もしかしたらうれしかったのかもしれない。勝手な想像だけれど。父親の方も、ぜひまた会いましょう、今日はありがとう、とずいぶん言ってくれた。

 この出会いから何を思ったのかは、まだふわふわしている。なんか、いいな、と思った。彼らにとっての友達の一人になれて、何かしらあたたかい気持ちが生まれていたら、素直にうれしい。彼らがふだんどんな暮らしをしているのか、純粋にもっと知りたいような気持ちにもなった。

 人間と人間のやり取りの始まり方を体験し直したような感覚がある。会社で働いていると、肩書きや、言葉で語られる自分のあり方が、最初の入口になる。肩書きを前提にコミュニケーションが始まる。ちょうど今週、仕事で大きな会議があった。職業人として大量の人と出会ったから、なおさらそう思うのかもしれない。普段、人と出会うとき、言葉が先に自分のあり方を決めてしまっている気がする。

 ところが子供と一緒にいると、もっと原始的なところに引き戻される。自分から言葉が剥ぎ取られて、生身の身体として、初対面の人と出会う。まず出会ってしまって、身体でのやり取りがあって、そのあとから言葉がついてくる。今回でいえば、子供たちが水をじゃばじゃばさせ合い、たがいの真似をし合う、言葉のいらないやり取りがまず先にあった。その輪になかば否応なく引き込まれる。噴水を止めて礼を言われ、気づけば父親同士が素性を語りあう。子供たちが言葉抜きで先につながってしまって、それを追いかけるように、大人もあとからぽつぽつと言葉を交わしはじめる。順番が逆なのだ。

 言語的にお互いを理解し合うよりも前に、身体の方が反応してしまっている。この人とは関わって大丈夫そうだ、優しそうだ。そういう感じは、言葉になる前に、相手の身体つきや仕草から、なんとなく伝わってくる。こちらの身体が、それを勝手に受け取っている。この連載では「実感」について考えることにしているが、言葉になる手前で身体が受け取ってしまうものも、「実感」の根っこにあるものの一つのように思われる。

 これがどのくらい一般的、普遍的な感覚なのかは、わからない。だが、少なくともそのときその公園では、言語も文化的背景も違う子供と大人が、水を介した遊びに次々と巻き込まれていって、いつのまにか打ち解けていた。先に身体があって、言葉は後からついてくる。その順番が、なんだか妙に人間らしくて、楽しいなと思った。

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