見るだけなら、何でもない。どこにでもある拝殿にしか見えぬ。ここまで来られたことの達成感も、次の考えによってすぐに消えてしまった。蜂に関する素人知識を蓄えた僕は知っている。神社の拝殿やら山小屋やら、雨風を凌げるところ、スズメバチたちの巣があるということを。拝殿の景色よりも、石段を歩きながら見た景色の方が、ずっと心に残っていた。
石川氏の著書によれば、この「宮嶽山稜神社」の歴史は平安時代まで遡る。
神社の祭神は清和天皇の第四皇子、貞保親王だと伝えられている。伝承によれば、貞保親王は、京の都で管絃の達人として名を挙げていた。しかし、皇子が宮殿で琵琶を演奏していた或る日、その音楽にのせて空を舞う燕の糞が、皇子の眼中に落ちてしまう。皇子は失明、盲人となって、信濃国、山の湯で湯治を試みた。治療は成功せず、皇子は都に戻らぬまま、禰津村近くの海野の里に没した。禰津村の中でも長い歴史を持ち、かつてノノウ達が住んでいたのが西部地区。この地区の由緒ある神社に祀られている者こそ、一流の芸能人にして、盲人の貞保親王なのだ。さらに、日本の伝承ではよくあることだが、この話と類似した物語が、京都は山城国、宇治の四宮村に「天夜の尊」伝承として伝わっている。平安期、第五十四代天皇·仁明天皇と同腹の弟、人康親王の話だ。詩歌管弦の達人だった彼も同様に目を患い、盲目になった。失明の後、都に戻ることなく、盲人たちに学問や詩歌管弦の技術を授け、四宮に葬られた。ここから「貞保秦王伝承は、山科地方の人康親王伝承が祢津に伝わり地方色を加味されながら成立したものではないか」という推察が可能らしい。どのようにして禰津の地にこの伝承が伝わったかについて、研究の余地があるそうだ。石川氏は、この禰津の四の宮権現に、「この地方の目の不自由な人たちが集い、盲人の管絃仙の霊を供養し、四絃·催馬楽など奏したのかもしれません。その