スタンダールは『恋愛論』において、「結晶作用」という名高い比喩を提示している。スタンダールいわく、オーストリアの炭鉱都市ハラインでは、坑夫が塩坑内に枯れ枝を置いておき、数カ月たってから取り出すのだという。これによって枯れ枝を塩分を含んだ水が濡らし、そこから水分だけが蒸発することで、枯れ枝はきらめく塩の結晶に覆われ、核となった枝そのものはほとんど見えなくさえなる。観光客向けの即席のダイヤモンド飾りの出来上がり、というわけだ。スタンダールは恋愛をこれに準える。すなわち、一度恋に落ちた者は思いを寄せる相手をあるがままの姿で見ることができず、眺めるほどに新たな、時として存在しない美点を見出し、ついにはその実際の姿は見えなくなってしまうというのだ。スタンダールは例として、恋に落ちた男が思いを寄せる女性の全身を一部位ごとに取り上げて美しさを賛美し始めたが、彼が褒め称えたうち少なくとも女性の手については天然痘の跡が残っていてお世辞にもきれいだとは言いかねたというエピソードを挙げている。『アンリ·ブリュラール』が描きだす思い出も、こうした恋愛の性質を共有しているように思われる。記憶の深みに思いを差し向け、自分にとって大切な思い出と思われるものを取り出してみるとき、それを巡るあるがままの事実関係(例えば場所、時間帯や天気だっていい)を取り違えていることなど珍しくない。しかしそれはおそらく、私たちにとってこの思い出が大切でないものだということを意味しない。思い出の本質、あるいはその真実は、それが纏う印象とそのきらめきの方にあり、私たちは幸福の結晶とも呼ぶべきそれらを心の内に携え、時として取り出してみることで、再び晴れやかな気持ちで未来へと目を向けることができるその結晶を言葉につかみ取ろうとすると、しばしば脆くも崩れ落ちてしまうものだとしても。