〈現代詩〉が〈読めない〉人へ POETIX序

白石火乃絵


 前月の鳳尻紀1月号から、「〈現代詩〉総論 POETIX漂流記」という連載を開始した。が、想定外の事態が発生した。この連載は、わたしの原稿中では、読んで欲しくて﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅書いたつもりの、つまりは「わかり」やすさと「とっつき」やすさと読み物としての読みやすさを意識して書いた「エンタメ」のつもりだったのだが、身近なひとたちにどうだったかをきいてみると、それについてあまり話したがらず、「一回読んだだけじゃわからない」とか、「いままででいちばんむずかしい」とか、もちろん、興味さえももってくれないというのがだいたいの反応であった。さきにいった原稿の動機からして、それじゃ書く意味がないぞ、となってしまった。これはひとえにわたしの世間知ラズであろう。「そもそも引用している〈現代詩〉自体は読めた?」とひとごとにきいてみたが、うんともノーともいわない。ようするに、読めない、ということだ。それは〈現代詩〉の責任だろう。だが、読めないことを前提に、読めないモノが実は、なんだこんなもんか、というくらいだということを示したくて書きはじめた「総論」だ。それなりに面白いじゃないかと思ってもらえるかなと、甘い考えを抱いていたことがわかった。自分では、ここぐらいが面白さの限度だろうというくらいには書けたつもりで、めずらしく自信のあった原稿なだけにショックはでかかった。やっぱり、読まれようとなんて考えたのがそもそもの間違いだったと思いかけた。ただ、これらの結果から思い当たった幾つかの疑念がある。連載を一旦いて書いておく。

 一、読めないから面白くないのか? 読めた上で面白くないのか?
 一、読めないから面白くないとしたら、〈読めない〉のはなぜか?

 まず、読めた上で面白くないとすれば、わたしの評論が面白くないので論じている作品も面白く思ってもらえていないということにすぎぬので、たんにわたしの実力不足ということで済む。前回全篇写して論じた中村稔と藤井貞和の詩を、わたしは論じてみて面白いと思った。論じる前より面白いと思っているから、論じる前に面白かったかどうか上手く言えない。ただ、論じてみようと思えて、原稿が書けて、書けてみたのを発表してみようと思えたほどには面白かったのである。その面白さが伝わらないとすれば文章がまづいので、とくに疑念を抱くところはない。だから考えても仕方がない。

 ので、読めないから面白くない人もいる、として、なぜ〈読めない〉か推理してみよう。〈読めない〉とはどういうことか。それは面白くない、楽しくない、とじつは同義だろう。逆にいえば、〈読める〉とは、面白く、楽しく読めるということだ。面白くない楽しくないというのはどうしてかといえば、❶意味が取れない。❷意味は取れるが、共感ができない。❸意味は取れるが、映像が浮かばない。──だいたいこの三つだろう(音楽性はその先だ)。

 後ろから、❸は、作品が映像を上手くつくれていないか、そもそも映像的でない作品だからだ。わたしは、読み書きできるならどんな読み手の文章鑑賞力もそこまで変わらない、と考える。読み手が映像をつくれないのは、作品の問題とみるがいいのだ。映像的な作品ならば、じっくり読みさえすれば、遅かれ早かれ、だれでもある一定水準までは同じ光景が作れるはずだ。そこから先は主観や資質や思い込みの領域に属する。実例をあげてみる。


古池や。かはづとびこむ水の音

しづかさや。岩にしみいる蝉の声


 誰もが一度は聞いた事あるだろう芭蕉発句を例にとる。古池のほうは、「古池」に「蛙」が「とびこむ」映像が、閑かさのほうは、「岩」に「しみいる」映像が目に浮かびそうだ。しかし注意がいる。つぎの句をみてみる。


荒海や。佐渡に横とう(たう)天の河


「佐渡に横とう」が、新潟の海岸から見ているのか、佐渡島で見上げているのかにわかれそうだが、これは映像的につくられているイメージの俳句といっていい。「荒海」は目に見えるとともに、波の轟きも聞こえるので、音も這入っている。いわば音からはじまって、映像(無音)に至る。そうすると古池やは、イメージから始まって、音に終わる、つまりめくらになって終わるといえる。閑かさやは、静寂(音)に始まり、肌感に浸された映像としての「岩」から、やはり「蝉の声」によってめくらになって終わる。音や声をきくには、目をつむるのがいちばんよい。ひるがえって、荒海やは、「天の河」の絶景(無音)で終わるのだが、わたしなどは「天の河」の絶景(無音)に鼓膜をつぶされたつんぼの耳に、大宇宙の轟音がすぎさった後ぶれ﹅﹅﹅を感じる。「荒海」の波の轟きは、搔き消されるささめき﹅﹅﹅﹅として効果てきに上句におかれている。三句でいうのもあれだが、芭蕉は耳の詩人である。


うぐいすや。くや、ちいさき口いて

菜の花や。月は東に、日は西に

うれひつつ、丘にのぼれば。花いばら

絶頂の城 たのもしき、若葉かな

鮒鮓ふなずしや。彦根の城に雲かかる


 與謝蕪よさぶそんは、右の五句から一目瞭然。とくにうぐいすやに象徴されているが、「啼く」といいつつ、その音声ではなく、現代のハイビジョン映像の近影のごとズームアップされた鮮烈なるイメージが来る。句のかわちい﹅﹅﹅﹅語感のやわらかな春の季節感につつまれて、非常なコントラストを生んでいる。ほの〴〵としたアトモスフィアのなかに、喉がかっきれて叫びにならない叫びのひあい﹅﹅﹅が、これ以上とない決定的なニホン語文の表現をとっている。蕪村の映像は、これから原始的なオノマトペの生まれてくる一瞬間前の原イメージである。「うれひつつ、をかにのぼれば。はないばら」これ自体が意味を漂白してきけばオノマトペともいえなくもない。きおくで引用するが、蕪村は書簡だか何かで、芭蕉の「一吹き風の の葉しづまる」という附句を「三日と口にしない日があったら、舌に茨が生える」といっている。この音声第一の上にあるからこそ、十七文字でこれだけの映像が構成できた。芭蕉の句は、めくら(耳の人)になる﹅﹅という感じがするが、蕪村はめくらになったひとの見る幻像(vision)という心地がしてくる。ただそうとはいわずともだれもが思い浮かべることの可能な自然景観をこれらの句は入口にどれも有している。十七音でもそれができる。


 映像化をそもそも狙っていない作品となると、❷の共感﹅﹅の可否の話に入って来る。俳句より短歌が例に適おう。


さきはひいかなる人か。黒髪くろかみの白く成るまで いもこゑを聞く
福何有人香。黒髪之白成左右 妹之音乎聞


 万葉集の一首だが、上の句は「幸せな人というのはどういう人か」というアンケートの項目のようになっている。回答。「髪が真白になるまで、伴侶つれあいの声を聞きおる人」。これは共感できるかできないかで、いい歌と思うかそうでないと感じるかに訣れるだろう。そうかなあ、とおもうひとは、同じ上の句に自分なりの下の句をつけてみることだってできる。鑑賞に留っている必要はない。だが、自分はそう思わない﹅﹅﹅﹅﹅﹅からといって、このうたに価値が無いというのはちがう。このうたのぬしは、それが叶わなかった。このかなしみは人間に許しうるかぎりの絶対にほどなくちかい、このうたがよまれるたんびに蘇る真実情がある。

「黒髪の白くなるまで」というのは、一応映像なのだが、これは年を重ねることの比喩で、その意味を表したいのであれば、むしろ色彩が邪魔まである。だがそれはあるところまでうたの記録者or歌集編纂者とおぼしき奈良朝役人のキザな漢詩風表記のせいかもしれない。


さきはひのいかなるひとか。くろ髪のしろくなるまで 妹が声をきく


 小手先かもしれないが、これで三四句の映像を緩和できた気がする。これは本質的には映像をともなわないうたである。ただし、髪が白くなることの感慨だけが保存されている。


コトかしこき國ぞ。くれなゐの いろ莫出ないでそ、おもひ死ぬとも
謂言之恐國曽。紅之 色莫出曽、念死友


 同じく万葉集からだが、「紅」は目につく色(映像)ではない。だが邪魔になるどころか、絶妙にビートとエモーションを添えている例だろう。〝炎上〟はいまに始まった話でないとわかる。「ここは噂とか評判で、人人が人を殺す國です。焦げる心はかくし通せよ。つらくて想い死にするとしても」。「紅」をここの情痴のメタファととるのも間違いだろう。ただ口をついてでただけの勢語のようなので、それが全体にきいている稀有な成功例といえよう。これくらいになるともう共感うんぬんの話ではなくなっている。恋情が技巧を経ずにおのずから形態を獲得したがごとき﹅﹅﹅にみえる。しかも外部を完全に取り込んでいる。人人のコトの恐ろしさを言ったあとで、自らそれを打ち破るような真紅のことを発している、あくまで自らの心はなにひとつ語らずに。わたしごのみの表記にかえておく。


コトかしこき國ぞ。くれなゐの いろにナいでそ、おもひ死ぬとも


 同じ人にさらに映像をもたないうたがある。


来むと云ふも 来ぬ時あるを、来じと云ふを 来むとは待たじ。来じと云ふ物を
将来云毛 不来時有乎、不来云乎 将来常者不待。不来云物乎


「来るといっても来ないときがあることよ。来ないといってるのを来るとおもって待ちやしませんよ。来ないといっているものを」。もう生声で聞こえてくる。さいごの、「来じと云ふ物を」は、あのしゃっくりをしているみたいな言い方にちがいない。こんな風にいわれたあかつきにはもう行くしかない。というより、行く前にむこうのほうで来てしまっている。「来むとは待たじ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅(行かないといつ云いました?)」。言という舟に乗ってやってくる。


 さてこれでもう、詩になるために映像(❸)は必ずしも必要ないことはいいえたはずだ。そしてまた共感(❷)はそれを越えてくる感情の現前や、消えないかなしみの形態があることで、必ずしも詩の条件にはならないことはいえたろう。さいごに、❶意味が取れない。についてまたいくつか例を引く。万葉集の古いうたにもすでに意味が取れないのがあるが、それは当時は意味が取れたが、いまではその背景が理解できないために意味不明になっているケースといえるので、むしろいま現在にちかく書かれた「現代詩」がここでは適任だ。


目隠しをされてしまいました
氷柱つららのような指を取り去ったときに
煤けたマスクが空から 剥がれました
川を泳いできたのは 雨の日の郵便物?
「夢の中で」2 吉行理恵


 一読して意味が取れたという方は、拙文を読んでも意味がないだろう。意味が取れない、にはいくつかパターンがある。αアルファ実感として摑めないβベータ感情として共感できない。この二つは、もしそれがたしかに表現されえているとすれば読み手のほうに経験の準備がないことによる。θしーたを用意すると、これは意図的に文法が破壊されるか無視されており、誰が読んでも理解できない、ニホン語になっていないケースである。「ゴ/*ッし氏しafば7」のように記されている。が、言葉には必ず意味が付着してくるので、完全な無意味を表すのはかなり難しい。右は失敗している。θは考えるまでもない、意図的に無意味を演じているにすぎない。問題は、次だ。Θシータ文法は正しいが、ぜんたい意味が摑めない。これにはさらに二つの原因がある。Γガンマ暗喩がつかわれている。「夢の中で」はこのΓに属している。

「目隠しをされてしまいました」─誰に?何が? だがまだ意味は取れる。「氷柱つららのような指を取り去ったときに」─誰が?何から? 意味は取れる。「煤けたマスクが空から 剥がれました」─これは二行目とはたして因果関係があるのか。「川を泳いできたのは 雨の日の郵便物?」─四行目は明らかに別のアスペクトである。ほうっておいた疑問を紐解こう。「わたしは背後からたれかに掌で目隠しをされた。〈その氷柱のような指を取り去ったときに〉、さっきまで煤けていた空のマスクが剥がれた。ところで、川を泳いできたのは 雨の日の郵便物かしら?」まだこれでも不合理である。「〈その氷柱のような指を取り去ったとき〉わたしの﹅﹅﹅﹅煤けた顔のマスクが剥がれた」なら意味がとおる。わたしに﹅﹅﹅﹅目隠しをしたたれか﹅﹅﹅を、四行目で〈川を泳いできた〉〈雨の日の郵便物〉ととるのも無理がある。「?」が残る。このパズルはあっちを揃えたらこっちがずれるようにできている。わたし﹅﹅﹅が見えないのだ。

 ポオに「盗まれた手紙」というミステリ短篇がある。わたしはトリックをいうのがいやなので、難しいが、このΓは「盗まれた手紙」を手法としている、とだけいっておきたい。このΓとつぎ、Δデルタ作者は十全に表現しているのに意味が取れない。これはαβとちがって、似た経験をすることでいつかわかるようになるのとはちがっていて、わからない人は一生わからない類といっていい。もちろん稀少種である。αをかりに感情が軸になる詩の系統とすれば、Γは、その感情の根を一度絶やされたことのある者がげんりょうとして蘇る暗喩が軸になる詩の系統といえる。さきの「来むと云ふも」のうたにはもう一歩で暗喩領域に踏み込もうとしている捕まえられない論理の前触れがある。「コトかしこき國」の人人によって殺された後、それでも死なない水の言となる。感情はストレートにすでに詩をなすことができない。奇妙な論理の綾をはりめぐらせ、あるじなき蜘蛛の巣をつくる。払っても払っても、気づくとおなじ形の巣があって、キラキラ玉をきらめかせる、蜘蛛の姿はやはりみえない。短歌では、さいご五七五七七の容れ物がじゃまをして、Γにはなりきれないきらいがある。同じ形の蜘蛛の巣は、自然界におそらくひとつもない。Γにとって定型はむしろ棺となる。αβはそれぞれ短歌でも俳句でも発揮できるし、自由詩でも感情・実感を心棒に自立した非定型のカタチをつくれる。このβ実感が軸になる詩の系統とすれば、その実感が経験によらない生得の存在感覚に根拠がおかれているばあいΔとなり、社会生活においてしばしばその存在感覚の欠如として意識されるような、詩想が軸になる詩の系統が考えられる。ちなみに❸で引いた芭蕉と蕪村の俳句は、βの限界を描いている(Δは非定型自由詩のみ)。ちょうど「来むと云ふも」の歌人がα限界を示すように(あえて読み人知らずとしておく)。

 Δの実例の前に、かんたんな表を示しておく(θはどの系統にもありうるダダイズム)。


  (非定型詩) (定型詩) (非定型詩)
  α感情軸──a短歌//Γ暗喩軸
  β実感軸──b俳句//Δ詩想軸
  

 詩歌句の三ジャンルを、ニホン語使用者が言語で藝術表現をしようとした際にとりうる選択肢とする考えもあるが、いったんそれらを〈詩〉としてひとまとめにかんがえ、右の表にわかれるとする。まずは中心の短歌・俳句がオーソドックスとする。いきなり非定型で表現しはじめるのもめずらしくないが、やはりルールが決まっている真ん中が選び易い。近代詩人などは多く、まずは短歌俳句から始まっている。(例、短・中原中也 俳・室生犀星)

 さてそこから、定型なき空へ、いわば上昇して自由になろうとしたとき、しぜん﹅﹅﹅短歌はαの自由詩に、俳句はβの自由詩へと自立の旅に出、同時に故郷として短歌or俳句を保存することになる。定型には定型のむずかしさがあるし、優劣ではないが、非定型は非定型ゆえの不安にたえずさらされることになる。たよりになるのは己が感情or実感だけとなる。実感﹅﹅というのはわかりずらいこととおもいますが、さきに引いた俳句から感じられる短歌とのニュアンスのちがいを大摑みでなんとなく雰囲気で感じれればとりあえず十分です)。

 しぜんといったが、ここで自然が起きたとき、ひとは短歌or俳句からずり落ちるようにして、ΓΔの非定型に至る。このときも不自然がなかったときの本来あるべき故郷の星として短歌俳句は地中の空にみえる。もう二度と帰ることはできない。αβの非定型不安の唯一の支えである感情なり実感、つまり人間にとっての第一所与は、すでにΓΔの支えとはならない。αβを、大人になっていく自立の過程とすれば、ΓΔは幼児退行をきたす﹅﹅﹅


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です


 いわずと知れた宮沢賢治の『春と修羅』の序の冒頭である。文法に問題はないが、意味が取れるかといわれると、ストレートにはいくまいとおもう。これはものごころのつくかつかないかの幼児感覚というか、少なくともそれを思い出させるような詩行である。目覚めた社会的な自我が、これを理解することの邪魔をする。それでいて語彙はもちろん赤児のではなく、近代の哲学や科学の翻訳造語から採っている。Γの吉行理恵の詩とは、意味の取れなさ、〈読めない〉の種類がちがうとおわかりいただけるだろうか。これをΔとする(ちなみに前回の「総論」で取り上げた、中村稔と藤井貞和の詩はそれぞれΔΓとばぐち﹅﹅﹅﹅に属す)

 これで〈読めない〉の判別は終了した。書かれた詩の種類によってまとめると。

 一、αβ(短歌俳句を含む)の場合。
読み手に経験の準備が足りないか、作品が不全。準備が整ったときにハッと〈読める〉。
 一、ΓΔの場合。
作品が不全でなく不可避のかたちであらわれ、甲乙はあるといえ、〈読めない〉のは、社会生活の中で失われた幼児の言語感覚Γと存在感覚Δとを、むしろ詩によって教育されなおす立場に読み手が置かれる。レッスンには、はじめは常識の反発がツキモノ。


〈読めない〉こそが、詩のとば口にて、そこの﹅﹅﹅あなたに語りかけられている信号なのです。


   付
 ニホン近代語の詩においてαβの系統をきりひらいたのは、明治の與謝野よさのあきです。αの系統には、やはり歌集『みだれ髪』(1901)の 〽︎その子二十はたち。櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな 〽︎やは肌の あつき血汐にふれも見で、かなしからずや 道を説く君︎ などに象徴される、カビくさい和歌の伝統をつきやぶってほとばしりでた感情の流露がさまをなすことを定型内から後の人に示した。βの系統にたいしては、あまり知られていないが、実感にもとづいた口語自由詩を多数のこしている。藤村『若菜集』などの七五調新体詩を抜け出たことが大きかった。αβ調和したところにあの有名な「君死にたまふことなかれ」(1904)がある。七五調だが、抑揚に流れない生活実感の重さがあり、感情は抑制されながらも詩篇全体にみずみずしく通っている。人口に膾炙したのにはそれなりの理由がある。

 αはのちに、林芙美子『蒼馬を見たり』(1930)によって口語自由詩としての決定的な活路を見出す。

 βも同じ年、永瀬清子『グレンデルの母親』(1930)によって非定型の自立をなす。

 どちらの詩集も令和現在にもその力を失っていません。

 この二つの詩集が出た年に自殺した金子みすゞが、Δのパイオニアです。いっけん七五調の謡詩にみえて、内容は古典和歌・俳句ではとうていありえないものとなっており、みすゞ以前の詩歌句から、みすゞが表現しているのと同じ内容をみつけることはおよそできないほどの作品をいくつも残している。同じΔの作品をのこした宮沢賢治の文学も話として括られることが多い。

 さらに翌年、詩誌で注目を集めた左川ちかΓの草分けです。βの永瀬清子とともに近年岩波文庫に入りふたたび陽の目を浴びている。

 αβΓΔについては今後実作にあたりながらPOETIXでメインに書いていきます。
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