序、
スタンダアルに出逢ったのは、高校一年生の頃だったと思う。少年時代に好きだっだ本の数々を否定し、おとなの文学を読みこなそうと思い始めたころだった。とはいえ、当時は大半の文学作品はよく分からず、好きなものをごまかした習慣が長く続くわけもなく、次第に読書の習慣が薄れていた。本を読み通す経験が乏しくなった時期だからこそ、いくつか読み通したものは、よく覚えている。経緯は忘れた。母が『赤と黒』という本があると教えてくれたのがはじまり。新訳の文庫本で、少年でも読み通せる作品で、行き帰りの列車の中、数日で一気に読み通した。牢獄の中、ジュリアンと夫人との会話が生々しく印象に残っている。久しぶりに、長編作品に没頭できた感覚。少年を熱中させるだけの力があったのは確かで、フランス文学の中で、十代に読み通した数少ない作品の一つとなった。
時を経て大学生、再びスタンダアルと出逢った。はっきりと覚えているのは、小林秀雄『モオツァルト』の一節だ。モオツァルトの最初の理解者、心酔者がスタンダアルだったことに注目した箇所がある。「虚偽から逃れようとする彼の努力は凡そ徹底したものであり、この努力の極まるところ、彼は、未だ世の制度や習慣や風俗の噓と汚れとに染まらぬ、と言わば生れたばかりの状態で持続する命を夢想するに到った。極度に明敏な人は夢想するに到る。限度を超えて疑うものは信ずるに到る。ここに生まれた、名付け難いものを、彼は、時と場合に応じて「幸福」とも「精力」とも「情熱」とも呼んだ。」小林秀雄、モオツァルトを貫く糸が、スタンダアルにも通じているという発見が嬉しくて、すぐに『赤と黒』、『パルムの僧院』、『恋愛論』と読み進めていった。スタンダアルがどんどん好きになっていった。
それから、二〇二〇年。それは、コロナ自粛にはじまり、学業も仕事も中断を余儀なくされた頃。毎日、画面越しの仕事、家で座ってばかりの鬱屈な日々をすごしていた。そこで読み始めたのが、ポオル・ヴァレリィ『スタンダアル』だったのだが、辞書を片手に、音読していく中で、鬱屈を振り払うような清々しさを感じた。原書しか手元になかったから、意味の理解としては七割程度といったところだったが、そこで、ヴァレリィが愛した『アンリ・ブリュラ―ルの生涯』という自伝的著書を知った。それまでの読書体験から言っても、自伝的な作品が好きだという自覚はあり、小林秀雄の『本居宣長』にせよ、森鴎外の『渋江抽斎』にせよ、小説とは言えぬ、歴史書とも言えぬ、奇妙な一ジャンルを好んでいた。自伝を通じて、スタンダアルの人生を深く知り、彼が人生とどう向き合ったのか、その根幹にあるものに触れたいと思った。
『アンリ・ブリュラールの生涯』、それは、ひたすら原書を素読しつづけた、初めての作品でもある。翻訳書もないままに、辞書をひくことも控え、素読を続けていく中で感じた瑞々しい歓びこそ、初めての原書体験。この歓びを出発点にして、翻訳を始めてみたいと思う。
その一、
第一章(途中まで)
一八三二年十月十六日の今朝、ロオマはジャニキュウル山の頂、サンピエトロ・インモントリオ寺院にて。それは素晴らい陽の光。アルバアノの山にかかった、小さな切れ切れの白い雲は、かすかに感じるほどの乾いた微風によって靡き、心地よい暖かさに包まれて、幸せだった。四里離れたフランスカティやカステルガンデロフの街がくっきり見えていた。そしてアルドブランディニの別荘、ドミニコ修道会のユダヤ人によってつくられた、崇高なフレスコ画のある、あの別荘も。視界一杯に見えている白い城壁には、フランソワ・ボルゲエズ王子が最後に施した、修繕の痕。ワグラムで友人ヌウ氏の脚が吹き飛んだ日のこと、機甲連隊隊長だった王子本人を目にしたことがあった。もっとずっと遠く、パレストリナの岩場、それにかつてその要塞だった、カステル・サン・ピエトロの白塗りの寺院が見える。僕の寄りかかっている城壁の麓の方には、カプチン会修道院果樹園の、おおきなオレンジの樹、つづいて、テベレ河とマルト修道院、さらにもう少し先の右手には、セシリア・メッテエラとサン・ポウルのお墓、そしてセスティウスのお墓。眼前には、サント・マリ・マジョオレ教会、ずっと続いていく輪郭線は、モントカヴァロ宮殿。古より今に到るロオマのすべて、お墓や水道の遺跡を残すアピエンヌ街道にはじまり、仏蘭西人が建てたピンチョのまばゆい庭園まで、ロオマのすべてが、今、眼前に広がっている。
これは世界にたった一つの場所、夢想しながら、自分に言い聞かせる。僕の意思などおかまいなく、古代ロオマは現代を圧倒し、ティトゥス・リビウスのあらゆる思い出が、胸に押し寄せた。それに、アルバノの丘の上、修道院の左、ハンニバルの決闘場の眺め。
なんて美しい眺め!二世紀半の間、ラファエロの「変容」は、この地で崇められてきた。今日、その絵は、ヴァチカンの隅っこ、陰気な大理石の画廊に収められているが、そことここと、どれほど違うことか!傑作はこの地にあったのだ、二百五十年も!ああ!三月もすれば五十歳になる。そんなばかなことが。一七八三年、一七九三年、一八〇三年、指を折って、数えてみる。そして一八三三年、五十!そんなばかな!五十代になる僕は、グレトゥリィのように歌っていた。
「五十代になったら」
この思わぬ気づきに苛立つことなく、ハンニバルやロオマ人のことを思い出していた。僕よりずっと偉大な者たち、彼らだって死んだのだ。結局、お前は人生を下手糞に使ったことなどない、そう自分に言い聞かせる。ああ、「使った」だなんて。偶然によって、沢山不幸になったわけではないということ。そもそも、僕が人生の舵を取ろうとしたことなど、あっただろうか。
グリスハイム嬢に恋するなんて!この令嬢に、一体何を望み得たろうか。イエナ戦より前のこと、二か月程前に人気を集めた、ある将軍の娘。ブリシャアルはたしかに正しい、相変わらずの悪意を込めて、こういう時。「女を愛するとき、人は自問するものさ、お前は一体何を求めているのか、ってね。」
サン・ピエトロ寺院の石段に腰かけ、一、二時間程こんな夢想をしていた。五十歳になる、それは自分を知るのにうってつけの時期では?僕は何者だったのか、僕は今、何者なのか。正直言って、語ろうとすれば随分困惑するだろう。
大変な才気の持ち主、いやはや悪知恵に長けた者などということになっているけれど、自分としては、ずっと不幸な恋愛をしていたと思っている。狂ったように愛した、キュブリィ夫人、グリスハイム嬢、ディフォルツ嬢、そして、メチルド。彼女たちと恋仲になったことはなく、いくつかの恋愛は、三、四年も続いた。メチルド、彼女は一八一八年から一八二四年にかけて、人生を決定的に支配した。未だ傷は癒えてない、あの人を十五分ほど想像してから、そう付け加えた。彼女は愛してくれたのか?
感激しつつも、恍惚とまではいかない。それにマンティ、彼女が去った時に陥った悲しみ、それはどんな悲しみだろう。思い出しただけで、悪寒がはしる。一八二六年九月十五日のサン・オマァル、英国より帰りし日のこと。一八二六年、九月十五日より一八二七年の九月十五日までの一年、どれほど過酷な時を過ごしたことか!その恐ろしき記念の日は、イシア島にいた。例えば一八二六年十月、深く沈み込んだ不幸ばかり考えた数か月前、そんな風に不幸ばかり思わずに、はっきりとした好転の兆しにも気が付いた。こうした観察は、大いに慰めとなった。
で、僕は何者だったのか。それは、知るまい。たとえ聡明であったにせよ、一体どの友に尋ねることができようか。ディ・フィオリですら、こちらによこす考えなど持つまい。今までかつて、友人に、愛の悲しみを打ち明けたとでも?
奇妙にしてもっとも不幸なのは、と今朝、自分につぶやいた。勝利も(頭が軍務で一杯だった当時、そう呼んだように)、敗北がもたらした深い悲しみ、その半分ぽっちの歓びすら、くれやしなかった、と。
マンティに対する驚くべき勝利も、彼女がロスピック氏へと鞍替えした時の痛みの、その百分の一に並ぶ歓びすらもたらさなかった。
すると、僕は痛ましい人物ということになろうか。
ここに来て言うことも分からぬまま、知らず知らずのうちに感嘆していた。それはロオマの遺跡、その現代的栄華の崇高な光景。眼前の闘技場、弓状に開かれたチャアル・マドレエヌの美しき画廊を備えた、ファルネエズ宮は足元に見える。それに、コルシイニ宮。
才気の人だったのか?何かに才を持っていたか?ダリュ氏は僕を、全くの無知と言っていたが。たしかブザンソンがこれを知らせた。それに、鷹揚な性格が、ブザンソン前局長の陰鬱な性格を、嫉妬深いものにしてしまったのか。そもそも鷹揚だったのか。
イタリアで、日没に続いて突然襲ってくる、とにかく不快で体にも悪い、この寒さ。その来襲を告げる微風が去って、ようやく、ジャニキュウルの山を下りた。パラッツォ・コンティ(ミネルバ広場)へと急いで戻った時には、もうくたくただった。履いていた英国風の白羅紗のズボンの内側、腰のあたりに書き込んだ。「一八三二年、十月十六日、もうすぐ五十代。」解読されぬよう、要約して、こんなふうに。J. vaisa voirla 5.。
大使館の夜宴にほとほと退屈して帰った晩のこと、「人生について書くべきだ。二、三年たって書き終えた時、ついに知るだろう、僕が鷹揚な人だったのか陰気な人だったのか、才気の人だったのか間抜けだったのか、勇敢だったのか臆病だったのか、結局のところ幸せだったのか不幸だったのか。ディ・フィオリに、この手記を読ませてやるかもしれない。」自分につぶやいていた。
こんな考えには微笑んでしまう。そう、それにしても、なんと溢れかえっていることよ、この「『僕』と『僕自身』」という言葉。篤志の読者でさえも不機嫌にさせる言葉で一杯なのだ。「『僕』と『僕自身』」、これは、才能を別にすれば、シャトオブリアンのようなものだ。あの、自己主義者の王たる、シャトオブリアン。
「『僕』に『僕自身』を加え、君は繰り返しばかり。」
彼の本を開くたびに、この詩句を自分に言い聞かせる。
実際、三人称を使って「彼はした」、「彼は言った」などと書くことはできる。それはそうとして、一体、どんな風に、魂の内なる動きを語り得ようか。これこそ、ディ・フィオリに尋ねてみたいものだ。
一八三五年十一月二十三日、やっと続きを。我が人生を書くという発想は、近頃だと、ラベンナ旅行中に湧いてきた。実を言うと、一八三二年よりこの方、繰り返し思いついたのに、その度に挫折したのだった。「『僕』と『僕自身』」などという、途方もない困難、書いた張本人にすら反感を抱かせる、この難題によって。この困難をやっつけてしまえる程の才があるとは思っていない。正直に言えば、誰かに読んでもらえる才が備わっているという確信など、まったくない。書くこと。何度だってそれに大きな歓びを感じる。ただ、それだけ。(一章途中まで)