ぽすtoもだんともだん

白石火乃絵


 鬱という言葉は便利ですな。じぶんのじぶんに対する関係に失敗している状態だそう。それでひととの関係にも失敗するらしい。じぶんに対する関係をどうかするしかなさそう。

 ところで「ひととの、或は社会や集団との関係に成功?していながら、じぶんに対する関係に失敗している」ということは、ありうるだろうか。わたしは社会や集団との関係に、そしてひととの関係に失敗しつづけているからか、よくわからない。関係の失敗のたびに、死のうとおもうが、死んでいないし、うとまれたり、それとなく追い出されたり──直接手は下されていないが、いわば「自主退学」するしかない状態になる──はしたが、どうにか生存している、しかも生活上不本意をしいられる部分をほとんどもっていない状態を維持しながら、だがまったく生活条件を他者に依存して。そういう意味では、わたしこそ関係に成功していながら、じぶんとの関係に失敗している張本人でないか、たとい特殊な関係であっても。この対他関係が普遍なら、すでに革命以後だろう。これにつき罪障感をわたしはもっていない、もたないようにしてきた、後戻りできない一線を越えてしまった。漫画なら「ロクな死に方しねえ」をやっている。だが、すでに自殺しないこと以外の倫理をかんがえられなくなって久しい。逆にいえば、自殺しないためなら、どんな矛盾や背理をパスしていい、ということにしてしまった。そういうふうにじぶんと関係を築いてきた。


「自主退学」。この比喩をつかえるようになったのは、数えはしないが、だいだい三年前。十七歳のときは、自らに使用することは許せなかったろう。わたしと親友のひとりは同じ罪状をつきつけられて、わたしは残留で、親友は文字どおり自主退学を迫られた。残留はすなわち下学期中の「謹慎」。安くはない学費を払っていたわたしのおやはとうぜん(発語は母)「息子は何で謹慎(事情聴取と退学ジャッジ待ちを兼ねた)処分になったのですか」ときく。たまたまそのときの(高3)わたしのクラスにあたってしまった担任は、「わたしにもよくわかりませんが、『その思想により、こと年下の生徒達に致命的な悪影響を及ぼしている』だそうです」。なんともはずかしいかぎりである。そしてそのときのわたしに思想があるとすれば、それを祭の後にも、生きようとしていたのはわたしだけだ。ようするに、なすりつけられたにすぎない。何を?

 祭の後にも。祭において、わたしの思想?は、Let's go Crazy!といってパンデミックした。祭の後には、大反動が来た。わたし以外のだれもが、帰ってきた日常の論理で、祭の生を自ら否定した。わたしは反省しなかった。しようがなかった。ただ祭の生と、日常の論理は別だと観じた。このかんたんなはなしをだれも理解していないようにみえる﹅﹅﹅のはなぜか。いったいなにをこのひとたちはおそれているのか。もっとも信頼していた、仲間、さらには心友さえもが、──この状況は現在も変わっていない──Let's go Crazy!を抑圧している。これは祭において顕現するが、祭の外にあっては、個人の心におけるコトダマとしてしか力を発揮しない。だがやはり発揮される。わたしならば言語表現などしているから、文体とか詩とか作品とかに出てくる、目にはみえずとも。大したことじゃない。言い方を改めたほうがいい、かれらはLet's go Crazy!とともに生きたじぶんとその過去の体験や事実を、抑圧するか、たんなる追憶の対象となし、ただの経歴ことばと化している。或は矮小化し、またクサしている。或は、その来し方のほうから抑圧されている。先回りするようだが、体験には、けっして美化しようともできないたぐいがある。美化しようにも追いつけないのだ。何が?──言葉が。それ以上に困った。わたしのこどもの心臓が「もっかい、もっかい」してやまない。あのときのオトナたちはこれを恐れたのではない。かれらはただ不気味におもっただけだ。わたしの観察では、嫉妬してみせたみどころのあるおとなはあの時あの塀の中にはみあたらなかった。

 塀の外に追い出された親友。じつはかれとわたしとはちがった。モダンとポストモダンくらいちがった。はじめからわかっていて、わかりたくなかったそれを、つい先日容れることにした。そのとき、いま、宝くじ当選を夢みる人生否定論者ニヒリストのごとく、残留と退学が逆ならよかったのにと、たらればのよだれをたらす。だからことわりは上手くできていた。それではわたしの財産ばかりが倍になるだけだ。かといって両方退学だったら、とはおもわぬ。わかれてよかった。何度やってもこうなる、何度考えてもこれ以外想像がつかない。


    反歌

エゴがけてらってきた。どうやってもこのカタチ。この現在が

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