〈現代詩〉総論 POETIX漂流記 番外地 

白石火乃絵


 前回に引き続き、「現代詩手帖」1月号「現代日本詩集2025」より、藤井貞和の作(「詞(ことばだたかい)戦)」)から再開し、安藤元雄「ねえや考」、吉増剛造「谷川俊太郎さん 御雛様ニ光ガサシタ」まで論じるはずだったが、テーマが、文字なき世界(藤井)、歌と歌詞と詩/詩と散文(安藤)、ニホン語の表記の問題(吉増)と、わたし自身の幼いときからの悩みと重なっており、一挙に扱うのに、この一ヶ月気づいたら夢中になっていた万葉集をひきあいにだすのが最も適任なことに気がついたのだが、「総論」としてはまとめきれなかった。

 なので今回番外とし、気になっていた前回の序1について補足するのに留める──つもりだったが、冒頭以外は、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』についての言及で占められている、それも未完、いちおう完結性はあって、はからずもこの「総論」自体の大きな外枠あるいは課題を示している。『銀河鉄道の夜』についてほかにも書いてみたいことはたくさんある。重い腰をあげて今回少し書き始めた──そこでわたしの下した〈現代詩〉の定義とはこうである。


〈現代詩〉とは何か。それは、以下の二つの条件をあわせもつ文芸作物というのに尽きる。
 一、普遍的に詩といえるなにかをもつ。(詩とはなにか)
 一、〈現代〉の現-在アップ・トゥ・デイトの言語表現といえる。(現代とは)


 これは理念として考えうる〈現代詩〉の定義だ。しかし実際には、わたしたちのあいだで「現代詩」として通用している作物が「現代詩」なのだ。「現代詩」とは、現状わたしがいっているような理念の上にある言語表現された作品とそのジャンルのことなどでなく、流通商品に貼られたラベルにすぎない。

 ただ、わたしが定義したい〈現代詩〉について言えば、これも右の二つの条件といっけん矛盾するが、あらゆる詩は、どの時代にもつねに〈現代詩〉であった。〈現代詩〉でない詩はないのである。詩は、〈現代詩〉であるか、死んでいるか、どちらかでしかない。永遠はどんなときも〈現-在〉を織り込んでなければ永遠たれない。ほんとうは〈現-在〉も、いつも永遠を織り込んでいるのでなければ、〈現-在〉たれない。詩はそのつど永遠と〈現-在〉とによって織りなされる反物であり、つねに〈現代詩〉であるほかない。そして、わたしの嫌いな柳田國男の〈祖霊〉とはいわないが、いつかは普遍的な詩になってゆく。それはわたしたちには「ぽっかりとあいた大きな空洞」(前述の安藤の詩より)にみえるほかない、大詩人たちの暗示してきた〝ははたちの国〟(ファウスト)なのだ。


「あ、あすこ石炭袋だよ。そらのあなだよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指しました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云ひました。
「僕もうあんな大きなやみの中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」
「あゝきっと行くよ。あゝあすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集まってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのはぼくのお母さんだよ。」カムパネルラはにはかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむってゐるばかりでどうしてもカムパネルラが云ったやうには思はれませんでした。何とも云へずさびしい気がしてぼんやりそっちを見てゐましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました。



 ここには二つの場所がいわれている。「石炭袋」と「あすこの野原」と。銀河鉄道の旅で二人はすでに各世界宗教の〈救い〉の駅を過ぎて来た。じっさいそれとわかるよう描かれたのは「北の十字」と「サウザンクロス」とのキリスト教の〈救い〉の駅だけで(なぜ二つなのかはこじつけず謎としておく)。ジョバンニは、そこにいるのは「うその神さま」だといい自分の神さまは「そんなんでなしに、たったひとりのほんたうのほんとうの神さま」だから降りない。「石炭袋」と「あすこの野原」とはその駅のあとに来る。カムパネルラは「あすこの野原」で降りたのだが、ジョバンニには突然いなくなったように思える。「サウザンクロス」で降りて行った、苹果を食べあった姉弟と家庭教師の青年三人とは降り方がちがう。ここでいっておきたいのは、詩人の夢は、いつも宗教のつくる既成の〈救い〉のイメジを超えずにはおかないということだ。そしてそれは約束でなく謎として表現される。キリスト教圏の文学者や藝術家で聖書の〈救い〉のイメジを超えたイメジを描いたのはわたしの知る限り『カラマーゾフの兄弟』のドストエフスキイだけで、これはロシアという半ヨーロッパ半アジアという風土あってなしたというほかないくらいには、欧米圏人における聖書の〈救い〉のイメジは圧倒的である。できたとて、イメジに傷をつけるくらいが限度で宮沢賢治がなしたようなはっきりとした相対化は見たことがない。『カラマーゾフの兄弟』のラストシーンの舞台、「大きな石」だけが、聖書という村の端っこのぎりぎり外にあるように思える。他の詩人たちは、ギリシアやケルトのイメジを借りて外に出ようとしているが、キリスト教の眼鏡なしでケルトやギリシアの財産を借りるのはほとんど不可能に近いのだろう。カフカは、旧約の楽園に対し、それを否定するのでなく、到達不能を文学することによって、出て行くために出て行くという出口を示す。「神は死んだ」からすでに久しいが、すでに言挙げされた宗教は、信仰がなくなったときから、より強くニンゲンを支配しだす。「神は死んだ。だが、人の世の常として、おそらくさらに何千年もの間、神の影の映ずる洞窟が存在することだろう(森一郎訳)ここはニーチェにしてはなか〳〵にポエティックなとこで、光源なき影をいっている。だが予言にすぎない。ジョバンニがみた「石炭袋」は現実だ。そしてカムパネルラがみたのは影なき光源で、そこは「きれいな野原」なのだという。それがジョバンニには「ぼんやり白くけむってゐるばかり」にしかみえない。「きれいな野原」にカムパネルラがどう降りたかが描写されるかわり、地上に戻ったジョバンニに、カムパネルラがザネリを助けるために河へ飛びこんで流されたことが告げられる。いっぽうで「ぼくのお母さん」のいる「ほんたうの天上」を指して叫ぶカムパネルラの、「少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指し」てみせる、そこにある「石炭袋」が死の象徴であるはずがない、「きれいな野原」をみることができるのは生死の分別、時間をもたぬ者だけだ。なら何をこわがっているのか。銀河という空間の消失。いつか来るというのでなく、そこに孔として穿たれてあり、見るか見ないかでしかない。


 みんなもじっと河を見てゐました。たれも一言も物を云ふ人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるへました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせはしく行ったり来たりして黒い川の水はちらちら小さな波をたてて流れてゐるのが見えるのでした。
 下流の方は川はゞ一ぱい銀河がおほきく写ってまるで水のないそのまゝのそらのやうに見えました。
 ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはづれにしかゐないといふやうな気がしてしかたなかったのです。
 けれどもみんなはまだ、どこかの波の間から、
「ぼくずゐぶん泳いだぞ。」と云ひながらカムパネルラが出て来るかあるいはカムパネルラがどこかの人の知らないにでも着いて立ってゐて誰かの来るのを待ってゐるかといふやうな気がして仕方ないらしいのでした。けれども俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云ひました。
「もう駄目だめです。落ちてから四十五分たちましたから。」
 ジョバンニは思はずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知ってゐますぼくはカムパネルラといっしょに歩いてゐたのですと云はうとしましたがもうのどがつまって何とも云へませんでした。



 ジョバンニがみんなと河を見ていながら、「わくわくわくわく足がふるへ」たのは、心友が死んだかもしれないからではない。自分がまったく新しい認識をもっているのに動揺しているのだ。その認識は、思ったり信じたりするよりすばやく来ている。生死はなく、ただ銀河という空間がある。カムパネルラは遠くに行ったので、こっちに戻って来ない。ちょうどわたしたちが、誰はどこに行ったからここへは来ないというのと同じように。みんなは、まだ近くにいて「誰かの来るのを待ってゐるかといふやうな気がして仕方ないらしい」し、カムパネルラのお父さんは、「もう駄目だめです。落ちてから四十五分たちましたから。」ときっぱり云う。──ジョバンニは、いつか手を挙げて答えなくてはならない。(未完)

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