ローベルト・ヴァルザー『散歩』はその題名通り、語り手がある日、散歩に出かけ、途中で様々な人に出会い、そして帰宅する、それだけの小説である──いや、小説と呼んでいいのだろうか。むしろエッセイというべきか。ともあれ一九一七年に発表されたこの短い作品において、ヴァルザーは、散歩という、実に些細な、誰の人生にも訪れる日常の出来事をそのまま書き留めることに心血を注いだ。というより、語り手の注意力は外の世界へとすっかり開かれており、周囲の何もかもが気になって仕方がない。森を抜け、丘を登り、城館に立ち寄り、書店に入り、パン屋の娘と話をし……といった次々と繰り出される描写は、散歩という行為そのものが本質的に持っている偶然性、予期せぬ出会いと気まぐれな寄り道の連続によって成り立っている。
興味深いのは、『散歩』において「本」に関する思索が挟まれていることだ。語り手は書店に入った際、新刊や名著を見ても何とも思わず、それどころか「汚れた古い本」に魅了されて次のように語る。
そうした本は、もう長いこと棚にあって読む人もいないのだが、それでも、そうとうなお金を出してでも買われていいはずのことが、表紙の色あいから想像されるのである。金銭的価値はなくても、内容的価値はある。ただ、そうした本については、ある種の感受性というものが、今日ほとんど失われてしまっている。
(若林恵訳)
汚れた表紙、読む人のいない本。それは本屋という空間における異物であり、売れない商品であり、時代遅れの価値である。しかしヴァルザーの散歩者にとってこそ、そうした本は「内容的価値」を秘めている。散歩者の目は、流行のものや新刊といった自明な価値から離れ、むしろ見過ごされたものに注意を払う。こうした注意の在り方は、散歩という行為そのものと呼応している──散歩者は目的地へと効率的に向かうのではなく、気の向くままに足を止め、わき道に入り込み、本来なら見過ごされるはずの何かに出会う。
散歩者としての在り方がとりわけ意味を持つのは、それが近代社会における支配的な時間の在り方への対抗として理解できるからだ。近代社会において、時間は生産性によって測られる。人は定刻に出勤し、定められた業務をこなし、成果をあげ、帰宅する。余暇の時間もまた、何らかの目的──趣味であれ自己啓発であれ──のために組織され、効率的に管理される。こうした時間の在り方は、いつしか都市空間の構造そのものを規定するようになる。人々は決められた道を急ぎ足で歩き、目的地へと最短距離で移動し、余計なものには目もくれない。
ヴァルザーの散歩者はこうした時間から逃れている。彼には何の予定もなく、どこに向かうでもなく、気の向くままに歩き回る。散歩者の時間は、生産的でもなければ、蓄積されるものでもない。ただ、目の前に現れる事物や出来事に応じて、瞬間ごとに刷新される。散歩者にとって、世界は絶えず新しい相貌を見せる。
私はこのところ、電車やバスに乗る機会が減り、歩くことが多くなった。都心から郊外まで、時には二時間近く歩くこともある。人はなぜわざわざ歩くのか、とよく訊かれる。健康のため、というのは嘘ではないが、それだけでもない。歩きながら、いつもは素通りする路地に入り込んでみたり、見慣れた風景がふいに違って見えたりすることがある。歩くという行為そのものが、世界を受け取る在り方を変える。そして歩くという営みは──ヴァルザーが示したように──本を読むこと、書くこととも無縁ではない。散歩者が道ばたの石ころに目を向けるように、読者もまた、忘れられた本、見過ごされた一節、些細な言い回しに立ち止まる。そうした注意の在り方こそが、おそらくは生きることと読むこととの本質を成している。
最後に『散歩』から好きな一節を引いておきたい。語り手は散歩の途中、雲を見上げてこう述べる。
この雲の形が美しいからといって、利益になることが、いったいあるだろうか? ひとつもない。考えることに、何の意味があるだろうか? やはり、ひとつもない。私はひたすら散歩しているのだ。(若林恵訳)
無意味であること、無目的であること。そしてそれゆえに、自由であること。