フィールドワークとして生きる

村上陸人

 息子が最近、玄関のドアを開けると必ず外を見ようとする。抱っこしていると体をねじって外の方を向き、できれば外に出たそうにする。外に出ると、すぐには歩かず、しばらくじっと立って空や木や車を眺めている。それから歩き出すのだが、目的地に向かってまっすぐ歩くのではなく、途中で見つけた石ころや落ち葉、猫、犬、鳥などに次々と気を取られて、なかなか進まない。

 先日、保育園へ向かう道で、息子が急に立ち止まった。何かと思えば、道端のアリの行列をじっと見ている。時間がないから急ごうとする私の手を振り払い、しゃがみ込んでアリを観察し始める。私は内心焦っていた。このままでは遅刻する。しかし息子は動かない。仕方なく私もしゃがみ込んで、一緒にアリを見た。

 アリたちは、整然と列をなして歩いている。小さな食べ物のかけらを運んでいるアリもいる。息子は指を伸ばして、アリに触れようとする。私は「そっと見るだけにしようね」と言いながら、自分も久しぶりにアリをまじまじと見ていることに気づいた。いつから、道端のアリを立ち止まって見ることがなくなったのだろう。

 大人の感覚からすれば、保育園に送るとか買い物に行くとか、外出には目的がある。だから目的地に向かって効率的に移動する。道端のアリは、単なる障害物か、せいぜい風景の一部でしかない。しかし息子にとって、外出の目的は外出そのものなのだろう。外の世界は、家の中とは違う刺激に満ちている。風の匂い、光の角度、遠くから聞こえる車の音、道端の草、道端のアリ、ありとあらゆるものが新鮮で、観察に値する対象なのだ。

 ふと思ったのだが、これはフィールドワークそのものではないか。人類学者が異文化のフィールドに入るとき、最初は何もかもが新鮮に映る。当たり前だと思っていた自分の文化の枠組みが揺らぎ、見慣れたものが見慣れないものとして立ち現れる。子どもにとっての外の世界は、まさにそういうフィールドなのだ。息子は毎日、フィールドワークを実践している。

 そう考えると、大人が失ったものが見えてくる。私たちは、効率と目的のために、フィールドワーク的な感受性を手放してしまった。道を歩くときも、スマホを見ながら歩いたり、何かを考えながら歩いたりする。足元の石ころにも、空の雲にも、道端のアリにも、気づかない。いつの間にか世界は、透明な背景になってしまう。

 アリを見終わった息子は、立ち上がって再び歩き始めた。今度は何に気を取られるのかと思いながら後を追う。数メートル歩いたところで、また立ち止まる。今度は電柱に貼られたポスターを見ている。「迷い猫を探しています」と書かれたポスターだ。猫の写真が載っている。息子は猫の写真を指差して、何か言おうとしている。まだ言葉にならない声だが、伝えたいことがあるのは分かる。

 私は時計を見た。やはり遅刻しそうだ。でも、今日は急がないことにした。息子と一緒に、迷い猫のポスターを見る。猫の名前は「たま」と書いてある。三毛猫だ。「たま、どこに行っちゃったんだろうね」と息子に話しかける。息子は真剣な顔でポスターを見ている。

 結局、保育園には少し遅れて到着した。でも、それでよかったと思う。息子と一緒にアリを見て、迷い猫のポスターを見たあの時間は、私にとっても大切なフィールドワークだった。日常の中に非日常を見出すこと。それは、子どもが本能的に行っていることであり、私たち大人が意識的に取り戻すべきことなのかもしれない。

 フィールドワークとして生きるというのは、特別なことではない。ただ、目の前の世界に対して、もう少し開かれた姿勢でいること。効率や目的から少しだけ離れて、今ここにあるものに注意を向けること。息子が石ころに見入るように、私たちも道端の草に目を向けることができる。息子がアリの行列に立ち止まるように、私たちも日常の中の小さな驚きに立ち止まることができる。

 そしてそれは、子どもと一緒にいるからこそ取り戻せる感受性でもある。息子が外の世界に見入るとき、私も一緒に立ち止まって、同じ世界を見てみようと思う。遅刻することもあるだろう。でも、その代わりに得られるものの方が、きっと大きい。

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