新しい紀が始まる。侏羅紀の原稿が本として出来上がり、文学フリマに出品される過程について、この雑誌の編集者は「みんなと一緒にやった感がない」と言っていた。確かに侏羅紀の制作過程では、執筆者たちの対面でのやり取りがほとんどなかった。それぞれがバラバラの場所で書いた原稿がデータで編集者のもとに送られた。文学フリマの前後に集まることもできず、終わってしまった。筆者にいたっては未だに東京の事務所に立ち寄れておらず、鳳尻紀の最初の原稿を書いている現在も、製本された侏羅紀を手に取れていない有様である。
さて、「やった感」とは何か。「やった感」がある側に登山があるとすると、ない側にはロープウェイがあろう。「やった感」がある側に重たい書物の精読があるとすると、ない側に巷に氾濫する要約があろう。言語習得と翻訳機、生楽器の演奏とサンプリング、徒歩とタクシー、スパイスカレーとカップラーメン。程度の差はあるが似た構図が見えてくる。しかし、単純化しすぎてはいけない。アナログとデジタル、手仕事と量産品の違いと片付けるのは雑な気がする。どう考えても量産品にどっぷり浸かっていながら、やっぱり「やった感」を感じることもあろう。カップラーメンのお湯と時間の工夫がうまくいけば、きっと私は「やった感」を感じる。その「やった感」を分解するならば、「確かに私がやったのだという実感」になるだろうか。他でもない私が工夫をしたから、このような美味しいラーメンがある。固有の出来事への自負心のようなものを、実感として感じる。
感覚が実感であるという点、実感として感じてしまうという点が重要な気がする。そう思うのは、客観よりも主観に注目してしまう私の思考の癖かもしれない。主観的にもそう思われる。これを鳳尻紀での思索の起点にしてみたい。鳳尻紀で実感について考えてみたい。「フィールドワークとして生きる」という題は維持するつもりである。なぜならば、フィールドワークこそ実感を重視する生き方だからだ。分厚い記述を通して、どんなお偉いさんがなんと言おうと、こんな文脈にあるこんな時空間では、人はこんな感覚になってしまうのだ、と描き出す。言い換えれば、現場の実感を描き出す。ある状況である事柄が強烈な実感を帯びてしまう姿を克明に記述できたとしたら、それは「フィールドワークとして生きる」を体現していると思う。実感に寄り添いながら、実感のあり方を考えることができたら、楽しいだろうと思う。
たとえば唐突だが、スポーツ観戦がある。私はつい最近までスポーツ観戦で応援をしたことがなかったが、先日地元のサッカーチームの観戦に行き、応援がいかなるものかに触れた。熱気に満ちたスタジアムで同じ色のウェアを来た応援団がリズムに乗って叫んでいる。声援はコート上での選手のプレーに同期する。地元チームの応援スタンドに座っていたので、サポーターの一喜一憂が肌で感じられる。どちらを応援しているつもりでもなかった自分も、段々と彼らに同期する。ハーフタイムには前半の戦績を偉そうに論じるくらいに、応援していた。場にのまれて応援を実感した機会だった。
同じように、日々色んな場面で本気になってしまう。そのたびに何かを実感してしまっている。それら一つ一つがどういう感覚か、考え直してみようと思った。