猫の目

益田伊織

 猫の目・・・ではなく、犬の目について。『アンナ・カレーニナ』第六部第十二章には狩りの素晴らしい描写があり、そこでは主人公の一人であるリョーヴィンの視点と彼の猟犬・ラスカの視点とが交互に描かれている。

ラスカは足を止めて全身を固まらせた。脚が短いせいで前方は何も見えなかったが、匂いで相手が五歩以内の距離に潜んでいるのがわかった。立ったまま相手の存在をますます強く感じ取りながら、ラスカは待機の喜びを満喫していた。[…]息遣いは荒いながらに慎重であり、さらに輪をかけたような慎重さで、首を回すというよりはむしろ横目を使って主人のほうを振り返って見た。主人はいつもの見慣れた表情で、ただし相変わらず厳しい目つきをして、谷地坊主につまずきながらやってくるところだったが、その歩みは犬から見れば異様にゆっくりしていた。実際は彼は走っていたのだが、ラスカにはゆっくりと歩いているように見えたのである。
 ラスカが全身をぴったりと地面につけて、後脚を水をかくように大きく動かし、軽く口を開くという特殊な追跡姿勢に入っているのを見たリョーヴィンは、タシギを狙っているのだと察して、胸の中で神に猟の成功を、とりわけ最初の一羽の成功を祈ってから、犬のもとへと駆けつけた。犬のそばまで来た彼が高い目線で前方を見ると、ラスカが鼻で見ていたものが目で見つけられた。谷地坊主の間のくぼみのひとつに、タシギが一羽見えたのだ。(望月哲男訳)


 ラスカが匂いで「相手」の存在を感じとる活き活きした描写に続けて、急いで駆けつける「主人」の様子がラスカの視点から記されると、今度はラスカを追うリョーヴィンの視点に移行する。そこで「相手」とはタシギであることが示され、ついに彼によっても「ラスカが鼻で見ていたものが目で見つけられ」るのである。犬の鼻が鳥を見つけ、犬の目がヒトを振り返る。ヒトの目は犬の姿を追い、視線の先に犬が既にその鼻によって見つけていた鳥を見出す。トルストイはこの狩りの場面を、異なる種の異なる感覚同士の立体的な交錯によって描きだしている。

 こうした異なる感覚同士の交響が、狩りという特権的な場においてのみ成り立つものだと考える必要はない。ダナ・ハラウェイはフェミニズムと自然科学とが結びあうような地点で思索を展開する思想家だが、その著作『犬とヒトとが出会うとき』(原題はWhen Speicies Meetすなわち『複数の種同士が出会うとき』である)によれば、「関係性というのは、分析可能な最小パターンであり、パートナーとアクターは関係性によって生産されつづける産物である。これは、どうしようもなく散文的で、徹頭徹尾世俗的で、世界が世界という存在になる過程そのものに他ならない」。関係が生まれること、他なるもの同士が結ばれ、ほどかれ、また新たに結ばれる過程そのものに世界の言わば世界性を見出すという壮大なヴィジョンだが、その壮大さは身近な存在へのきめ細かな配慮とそれに由来するリアリティに貫かれているからこそ魅力がある。実は彼女は大の愛犬家であり、アジリティの愛好家でもあるのだ。

 アジリティとは犬の障害物競争だが、このスポーツが特異なのは、それが単に犬の身体能力を競うものではなく、犬と飼い主であるヒトとの協働を重視している点である。コースは直線ではなく、広いフィールドに配置された障害を規定の順番でクリアすることが要求されるため、その場でいかにヒトが指示を出すかが試されるのだ。ハラウェイいわく、アジリティにおいて「よい走りは持続的な挨拶の儀式として考えることもできる」。ある存在と別のある存在との間で挨拶が交わされる。そのとき関係が生まれ、出来事が生じる。そして世界は世界となる。

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