『シンフォニック・エッセイ』

原凌

  その十「小石集」

 能登震災の被災地、折口信夫と息子のお墓、そして石という素材の力強さについて、以前同人の益田が書いていた。自分も、石について身近で感じた体験を言葉にしてみたいと思う。

 石といわれて、すぐに思い出すのは、雨の日の岩石の輝きだ。晴れているときにはさほど目にも止まらぬ岩石が、雨に濡れて、つややかな肌をみせ、独特な輝きを帯びる風景が好きだ。日々歩く道にも、そうした岩石がむきだしの田舎道があるのだが、雨によって、自らを取り戻し生き生きしている岩石をみると、欝々とした気持ちにも活気が溢れる。

 もう一つは、石造りの教会建築に入ったときの感覚だ。早朝、誰もいない教会が佳い。古木の扉がきしきしと、音をたてて、石の空間に響き渡る。教会の中に入ると、すっと冷たい空気が差し込む。歩くたびに、高い天井まで、こつこつこつと靴の音がのぼってゆく。石のなかにいると、いつもは捉えていなかった、存在の一つ一つを、肌で感じることができるようになる。一つ一つが楽器のように響き渡る空間。

 秀雄の『シンフォニック・エッセイ』には「小石集」という名の章が断片的に挿入されている。「小石集」という名がつけられたわけについて語った箇所がある。印象に残ったので、ここに書き留めたい。

「私は三児をもうけ、二児を失った」という一文から、本章ははじまってゆく。次女の倫子さんは二歳のときに、長男の森太郎さんは二十四歳のときに亡くなっている。倫子さんが亡くなり、お墓をつくった後のことである。倫子さんのお墓には、富士川の玉石をつかって石塔を建てたものの、墓地の地面は砂利混じりの土を撒いただけで、殺風景だった。手狭な上、苗木を植えても、掃除の際に雑草と一緒に刈られてしまう。倫子さんのお墓を少しでも綺麗にしたいと思っていた秀雄は、「玉砂利方式」というものを想い付く。「それは、何気ない思い付きからわが家にあった珍しい小石、綺麗な小石をいくつか持っていって、墓前に飾りとして置いたことからであった。このやり方でいこうとその小石を見ていて私は思い付いた。時間はかかるであろうが、一つ一つ自分や家人の目で選び出し、その手で拾い上げて持ってきた海や川や山の珍しい小石、きれいな小石を少しずつでも墓石の周りに敷き詰めていこう、──そういう気長な計画を立てたのであった」。

 計画から三、四年ほど経った。形も色も様々な石が、縞模様に、あるいは斑模様に、墓を賑わせている。小石たちは、秀雄一家の日々の散歩や、遠方への小旅行の際に集められたものだ。戸塚の自宅にほど近い境川にはじまり、鎌倉、横須賀、大磯、根府川の海岸で見つけ、持って帰ってきた小石。少し遠い地になると、「千葉は富津岬、鋸南の海岸、東京は奥多摩の渓流の河原、埼玉は三峰神社のそばの山道、静岡は伊豆逢着寺の浜、山梨は本栖湖畔、富士五合目の登山道」といったところになる。さらに秀雄の故郷、伊那谷の泰阜村の山、愛知は伊良湖岬の海辺、福島は猪苗代湖畔で拾われた小石たちも、お墓を彩るに至った。森太郎さんが集めた貝殻や、地中海旅行から帰ってきたご近所さんからもらった、エジプト砂漠の赤茶の砂も、仲間に加わる。小石がその形と色を持つまでには、自然界の果てしない時の流れがあり、その地に固有の歴史が、背後には流れている。そうした時の流れを刻んだ各地の小石が、御縁によって、倫子さんのお墓に集い、お墓を守っている。

『シンフォニック・エッセイ』では、散歩についての断章が多く見受けられる。散歩の折に触れて、死者のことを思いだし、その人が喜ぶだろうと想像しながら、小石を拾っては集める。独りで歩いているように見える者も、行く道で石に出逢い、そこに歓びを感じる。その歓びは、たしかに、その想いを他者と分かち合っているからこそ、歓びなのだ。

 そうやって出逢った小石達は、宝石よりも尊い。時に自然が、その小石の本当の姿を垣間見せることがある。「ことに海辺から拾ってきた小石は、水に濡れると、眠りから覚めたかのように生き生きと宝石さながらの光沢を取りもどしてかがやく」のだった。想像力は小石に込められた自然の運動にまで、及んでゆく。「もし、倫子、森太郎の霊がこの墓に宿っているとすれば、かれらは、これら小石たちの色や形のおもしろさをよろこんで見ていてくれるばかりでなく、これらによって、山の草木のささめきや、小鳥のさえずりや、せせらぎの調べや、浜辺の潮さいの歌を聞き、楽しんでいてくれるであろうと私は妻と話し合っているのである」。

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