八ヶ月休止となっての毎月冊子二十五号目。ほんとはもう二年くらい休みたい。この期間、わたしは「偏向」用の散文原稿はやめているつもりだったが、数えると三十数本書き上げている。執筆者としては休止前と同じ程度書き続けていたらしい。が、一本も発表する気になれず本号でもけっきょく省いた。その没原稿の多くで、時期ごとになんで休止になったかの弁明に骨をくだいているが、上手くいえない。同人にも全く説明していない。たださいごの「鳳尻紀2─3月号」で散文執筆者として一旦燃え尽きているのは、読んでいただければわかる。この後記を書くにあたりもう一度考えたがやっぱりめづらしく自信ある『侏羅紀』を寿命をすり減らしつくったが、同人から反応が無い。本が出来るのがあたりまえのようにおもっているのか。これだ。もう二度と作りたくないと思った。我慢して鳳尻紀も三号出した。そこで散文の心残りはできるぎり片付けておいてわたしは旅に出る。行くのがずっとこわかった熊野に大王崎に寄ってから入る。白浜まで二週間かけて海へんを歩く。田辺あたりでこの旅はいったん極ったとおもい大阪へのぼると若狭湾と京丹後の海へんにも行きたくなった。小浜を歩き、夜、東舞鶴の宿で熱中症を出した。小浜から車で合流した友人に地元・高岡まで送ってもらい一旦東京へ還る。五日ほど寝込み気づけば出雲行の電車に乗っている。出雲、隠岐島、京丹後、丹波、堺、加太、和歌浦、海南市、高野山、吉野、明日香と一月半程巡る。万博に来てた高岡の友人にレンタカーを出してもらい橿原から本宮へ。勝浦でイルカをたべ再び紀伊半島の海岸線を一周。別れ、三輪山から石上布留まで山の辺の道を歩く。旅のあいだいい崖や淵をみつけては飛びたくて仕方なかったが『侏羅紀』の大量の在庫が気になっている。わたしの家族や知人はわたしの原稿や本に価値はみないので死ねば棄てられる。やつらをはけさせるまでは滑ってもいけないとおもい禁欲する。在庫なくするためには再開するしかない。残念。やってよかったとおもえる日はきっと来ない。原理論のため蒐めた蔵書もここで片付け身軽に死にたい。