金曜日の夕方、午後四時に仕事を切り上げ、保育園に息子を迎えにいく。家に帰り、息子にご飯を食べさせ、一緒に風呂に入り、洗濯機を回す。そそくさと身支度をする。週末分の着替え、おむつ、道中用のお菓子、洗面用具などを車に積んで、夜七時前に出発する。浜松から下道で三時間半ほどで、伊東の私の両親の家に着く。そのころには息子は車で爆睡していて、そのまま両親の家で寝かせる。私も寝る。
こんな風に、金曜の夜から日曜まで、息子と二人で伊東にある両親の家で過ごすことがときどきある。秋は妻の仕事の繁忙期で、特に土日は忙殺されている。帰宅すれば息子がいると思うと後ろめたさを感じるということなので、私が息子を連れて旅に出て、家にはいないようにしてみた。それはそれでさみしいらしいが、後ろめたさは感じずに済むみたいだ。
伊東にいるときは、息子の様子が普段と少しだけ違うような気がする。伊東には私の両親と、猫が二匹いる。一匹の猫は人懐っこく、初めて連れて行ったときから息子と遊んでくれているが、もう一匹はかなりの人見知りで、三回目くらいの訪問でようやく挨拶してくれた。浜松の自宅で妻と私と三人で過ごしているときは、よく妻に甘え泣きをして抱っこや授乳を要求する。伊東では妻がいないので、甘え泣きをなだめるのがきっと大変だろうと覚悟していた。ところが、伊東にいると普段ほど甘え泣きをしない。妻がいないことを察してあきらめているのかもしれない。平気な様子で猫や私の両親と遊んでいる。日常から切り離された環境で、遊びに没頭している。
自宅で息子と二人で過ごしていても、伊東にいるときほどにはならない。ときどき妻がいないことを思い出し、不安げな表情をすることもある。どうやら、甘える相手としての母の不在と、甘える状況としての自宅からの移動の両方が作用しているようだ。
これを人と場所からの切り離しと抽象化してみると、同じ構造がいろんな状況にあるように思える。例えば、一人旅をする人は、人と場所からの切り離しを行っている。一時的に家族や友人との関わりを断ち、いつもと別の場所で暮らすことで、普段作動しない感情の回路が動き出す。人と場所のどちらかとつながったままだと、慣れ親しんだ回路が駆動してしまう。人類学でのフィールドワークにも通じるだろう。日常との切り離しを行うことで、これまで意識していなかったことに意識を向け、抱いたことのない感情を抱き、新しい見方で世界を見る。本連載は鳳尻紀で、実感とはなにかだとか、活動に本気になってのめりこむとはいかなることかだとかを考えることにしているが、日常との切り離しも一つの要素だと感じる。伊東で猫と戯れる息子からは、そのようなのめりこみを感じる。