最近実家に寄ったおり、四組の高校生のアマチュアバンドおよびシンガーたちが「リンダリンダ」をタレントや観客の前で披露しているテレビ番組をみて四組ともがこのわたしを泣かせた。ひとつ年下からのZ世代とは、十七歳のときのある出来事から、わたしは心をかよわしきれなくなった。四組はZ世代のけつにしてα世代の頭あるいは谷間に生まれた。ちょうど一九九五、ゆとり世代のしっぽにしてZ世代のさきっちょ、あるいはへこみに生まれた自分のように? 世代論は陥落にちがいない。が、わたしのように世代論からでなく、祭のあとで世代間の溝に気がつきニガムシを噛み続ける者があるものをないといえるか。どうしたら向うには老害でも隣人でありつづけるZたちを愛せるか……
三番目におもっていたことは、
詩だけがクソッタレのこの世界をこの銀河をよくするということだ。いまとなってはもうこんな簡単な言い方はできない。この世界をこの銀河を少しもよくしない、全き無力ということが詩のよさなのかもしれない、と真逆な言い方をしたくもなる。だが、それとて同じことだ。この全き無力こそ、「決して負けない強い力」なのかもしれない。甲本ヒロトが詩人なら、
必ず敗ける弱い力といってもよかったはずだ。しかしそれでは、平成黎明の少年少女たち、そして十四歳のぼく、いまの令和の十四歳には届かなかったろう。だがあの敗北のあとの十七歳のわたしにはブルーハーツが噓としかきこえなくなった。清志郎や中也やジョンやディランがほんとうにきこえたようには……ひとはわたしこそ噓になったとおもいなすにちがいない。でなければ、化かされたのだと。
歌なら「決して負けない強い力」といわねばすまない心が、詩だと〝必ず敗ける弱い力〟とかかねばすまなくなる。ここには、聲コトバと書き言葉とのあいだにある不幸な関係がある。すでに文字になった「決して負けない強い力」という文言はうすらざむい。ためしに「リンダリンダ」の旋律にのせ、〽︎必ず敗ける弱い力を僕は一つだけもつ〜 と歌ってみれば、ぷぷっと笑えるくらいで、けっしてほんとうの力にはならない。わたしはここにつまづいた。パンクロックいがいすることがなかったから、ノートに歌詞をかこうとする。どうやっても歌になってくれない。こいつらはどうにも歌になるのをかたくなに拒んでる。それはきっとぼくのこころが、歌になるのをいやがってるんだ。くそったれ歌。歌。歌。歌。
もうここ六年、何をするにもVTuberたちの「歌ってみた」やカラオケ配信をききながらやる。だから、先端から多分二番目のところで、新しいヒット曲にあずかっているはずだ。もとがもとなので「非オタ」系のロックやヒップホップもめざとくきいてはいるが、どうやら心は、歌の初心に近い、半アマ半プロとでもいうべきVTuberたちの歌に靡くらしい。十代後半からいくつかあった音楽(ロック界隈とラップ界隈)の連中からは、どうしたんだよ、といわれ、いまやほとんど途絶えた。がひとりでときどき現場には行く。そして絶望して帰ってくる。ならば「オタ」系のソングには絶望していないのか?
渋谷も新宿もがらんどうになるあの非日常の少し前、街でどこにいっても〽︎感情のないアイムソーリーと聞きたくもない歌が耳にはいってくる。わたしはこの歌が続きはしないことをひたすらに祈った。無駄だった。この歌詞はヤバイ。大歌詞だ。どうやったって詩にならないわたしのなよなよしい心の全内容をそのままかきおこしてやがる。やめてくれ。辛いけど否めない。当時はとにかく死ね!とおもっていた。あるとき、ある場面で、あるVTuberが、生放送のカラオケで、この歌を咽びながら歌う。こんなにいい歌が世界にあるだろうかとおもった。「Pretender」こいつバケモノだ。万葉集が泣いている。ニホン語の最高到達地点だ。真髄だ。「リンダリンダ」より凄い。「君が代」をうっちゃり晴れて国歌にすえるべきだ。この歌がいいとおもえないやつはさんまんべん人権を剥奪していい。はじめは、歌とは畢竟だれが歌うかだ、と思った。そしてそれをいつどこでどう歌うかだ、と。ちがった。それだけでは足りない。やっぱりいい歌でないならば、最愛の人が歌おうが、百年に一度の歌姫がうたおうと、泣かされはしても、どこかうすらざむさがのこる気がする。だし、そう考えなければ歌詞などないことになる。歌詞が本体の短歌も無になる。歌い手とシチュエーションと発声と歌詞とリズムとメロディとがひとかたまりで見分けのつかないのが歌だ。いまや歌詞こそその表面とおもわれていやしまいか。歌詞こそ真ん中にあるのでないか。歌詞が、文字に起こされることが、あたかもうわべ、形骸というとこに歌を囲い込む。が、歌詞だけでみても「Pretender」はニホン語の歌の本質にして臨界だ。わたしは十七歳のとき、これをノートに書けばよかった。ぜひとも清志郎に歌ってほしい。歌詞を眺めるだけでもう聞こえてくる。ありきたりな言葉、フレーズの奥に、まったく別の、人類のかなしみよろこびすべてとかすフルサトのひびきがする。『銀河鉄道の夜』や『カラマーゾフの兄弟』からきこえて来るのとおなじだ。そういう「君」を歌えるのは今のところ清志郎しかおもい当らない。ラッパーで唯一人ECDがにわかにそこに届きかけた。
反詩
愛であっても 恋であっても 僕を離しはしない
必ず敗ける弱い力を 君は一つだけ持つ