フィールドワークとして生きる

村上陸人

 六月くらいから、フィールドワークと称して、浜松の商店街で月に一度開かれている蚤の市に通っている。「浜松サザンクロスほしの市」という市である。

 通ってみようと思ったきっかけは、たぶん、一般的な市場取引とは違う流通を見てみたかったことだと思う。メーカーが物を作って市場に流通させ、スーパーなどで消費者が購入する。そういう流通網ではないところで、物がどう取引されているのか。市というものや、そこでの物の取引のされ方に興味があった。 フィールドワークといっても、趣味でやっているだけである。週末に予定があけば、蚤の市を探して出向く。それはスーパーやデパートのような空間とは異なり、どこか非公式的で私的な空気を感じる市場である。

 浜松以外でも、いくつか蚤の市に行ってみた。ひとくちに蚤の市といっても、骨董市の性格が強いものと、ハンドメイドマルシェのような、クラフトや手芸の色合いが強いものとに分かれている、ということだ。古物を商売として扱うには古物商の許可が要る。そこで一つ線引きがあるのだろう。マルシェやハンドクラフトのほうが、よりいろんな人に開かれている気がする。骨董市には、それこそ古物商が店を並べる。ハンドクラフトのほうになると、近所のカフェのような店が、ケーキやお菓子を売っていたりもする。この数ヶ月、蚤の市にいくつか通って気づいたことの一つである。

 以前、子供が生まれる前に社会人ゼミに入っていたときに、フィールドワークとして、アートセンターにボランティアスタッフとして通っていたことがあった。そのころとの大きな違いは、今は基本的に息子を連れてフィールドワークをするということだ。やってみて気づいたのだが、小さな子を連れていると、それだけでその場にある種の居場所のようなものが得られる。子供を遊ばせている親として自然に居場所を確保できることは、便利といえば便利である。一方で、その場にいる人と話したりすることが、なかなか全身でできない。子供がどこかへ行ってしまったら、それで終了である。飽きたり、ぐずったりしても、それで終了。そういう不自由さはある。

 「浜松サザンクロスほしの市」には二回行ってみたのだが、子連れの客として通うだけでは、なかなか中に入り込めないのが現実でもある。どういう出店者がいるのか、その出店者はどのように選ばれているのか。そもそもこの蚤の市がどういう経緯で成立したのか。そういうことが知りたいのだが、なかなかそんなことを聞くような状況にはならない。


〈ある日のフィールドノートより〉
総合受付に行って、運営事務局の方らしき人にこの商店街やサザンクロスほしの市について聞こうと思ったが、少し躊躇している間に蚤の市終了の3時を過ぎてしまった。途端に出店者たちがバタバタと片付けを始めて慌ただしくなったので、結局話しかけられないまま終了してしまった。

 こんなことをしている間に、人類学者の内山田康さんの「私のフィールドワーク」というエッセイを読んだ。そのなかに、フィールドで毎日一人でセミナーをする、という箇所があった。南インドの村でのフィールドワークで、昼食後と夕食前にベランダに一人で出て、そのとき考えていることを自問自答する。人類学者のモーリス・ブロックから受けた助言だという。そして、自問自答した結果浮かんだ問いを、その日のうちか翌日にはぶつけに行く。そうやって仮説を更新していくという。本当にすごいと思う。

 フィールド滞在中の日々のなかで、このようにストイックに反芻できることがすごいし、では次、では次と、現地にグイグイと入り込んでいくところもすごい。こういう方のエッセイを読むと、週末にちょこっと商店街に行って、話しかけられずにウジウジしてしまっていることがとても恥ずかしくなる。

 人類学者と私ではフィールドワーク力に歴然とした差があるということは言うまでもないが、フィールドにいる人類学者と週末フィールドワークをする会社員の違いは、フィールドワークの力量以外にもある気がしている。一つ考えるのは、圧倒的な時間の問題である。多くの人類学者は、年単位でまとまった期間フィールドに行く。そこで、それまでの日常と切り離されて、未知に身を投じる。そうすると、推測だが、どこかのタイミングで、考え得るだけの行動をやりつくし、もう何をしたらいいんだろうというような、やれることが思いつかない究極の状態になるのではないかと思う。ある種の暇の極みのような状態。この暇というのは、まったくネガティブな意味ではない。そうなってはじめて起こす行動があるような気がするのだ。普段なら話しかけない人に話しかけるとか。宙ぶらりんな状態になることで、それまで起こさなかった行動に出て、新しい関係性ができ、発見が導かれるということがあるのではないか。

 そうすると、自分のように日常生活自体やその延長をフィールドワークとして捉えようとしている場合に、宙ぶらりんな状態をつくることができるのか、ということになるのだが、とにもかくにもまずは、ウジウジせず人に話しかけることからはじめようと思う。

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