なにをもってそれを作品というか

白石火乃絵

 なにをもって、自分の作った物を、例えば、日記の後の殴り書きを、作品といえるのか? わたしが「作品」だ「藝術」だ、というと、時々けげんそうに訊かれるので、あらためて。

 まず「作品」には原則てきに「作者」がいるだろう。一旦「いる」という線で話を進めよう。また「鑑賞者」もいるはずだ。こちらも「いる」という線でとりあえず進めてみる。

「作者」は「作品」とあるところまで関係する。この関係は「作品」を「作者」が手放す瞬間いちど焉わる。完成、という言葉はむずかしいのであえてつかわずに、納品、とでもいいたいが、「作品」は必ずしも、商品(発注される)、とは限らないので、抽象度の高く正確な言い方としては、疎外、という概念語が便利なのだが、ニホン語にあまり馴染んだことのないので、ここでは、どうしよう、適当な言葉がみつからない、少し違うがあえて「公開」としておこう。「公開」された時点で、「作品」は真に「作者」との関係を焉える。

 その後「作者」は、少し思い入れが強かったり、もしくは冷たすぎたりもするが、一人の「鑑賞者」としてしか「作品」と関係できない。同時に、それでもその「作品」の「作者」として、振る舞わねばならないアンビヴァレンスを抱えもする。関係できないのに「作者」であることから離れることができない。ここでは、「作品」からでなく、環境、からの要請がある。ここでの矛盾は、この事情を了解すること、線引きすることによって焉結できる。

 ここで気づくのは「公開」されていない「作品」は、真に「作品」でないということだ。「公開」はいわば、だるまの片方の目を書き入れることに近い。もう片方の目を書き込むのは「鑑賞者」の仕事ということになる。

「鑑賞者」は「鑑賞者」として、「作品」と関係する。この関係の仕方は「作者」のときとは事情がちがう。「鑑賞者」と「作品」との関係にはじっさいに焉わりということがない。完成、と先に言わなかったのは、このことが関わっている。人間は、自らの死を死として認識することができない。焉わった、ということは、本当は思うことさえできない。もしできるなら、「作品」との関係も、その「鑑賞者」が自ら観じる死とともに焉了するのだが。

 そして死んだあとに口をきいた人はいないので、死後に世界があるのかないのか、ということは、想像力の世界として語るいがいは、ナンセンスの質問ということになる。死後の世界があったり、死後に「鑑賞者」の意識がつづくなら、「作品」との関係もまた当人にとって焉わりということがない。がここではそういう意味でなく、焉わりを認識できない、ということから、「鑑賞者」と「作品」との関係に焉わりということはない、と言っている。

 ここで、恋愛を例にとれば、恋愛における人と人との関係には焉わりということがある。恋愛といわず、友情でも社交でもそうなのだが、もっとも関係ということのの本質に近いのが、恋愛だ。恋愛においては、「作者」と「作品」や、「鑑賞者」と「作品」との関係と、焉わりがあるということにおいて比較を絶する。また、出会い、ということにおいて共通する。この出会いは、必ず、偶然の出会いだ。

 そして、その偶然を必然化していく過程が、両者における関係の仕方といえる。深い関係においては、「鑑賞者」と「作品」、もしくは人と人をもはや分けて考えることは当人にはできない。外野はいつでも、関係などない、と言うことは権利上できはするが、真に深い関係は、たとい外野であれど口をつぐまざるを得ない。

 それにくらべれば「作者」と「作品」の関係は、「作品」が「作品」になる以前の、たとえていえば、子供同士の関係以前の「おともだち」関係であって、涙をさそう幼年期にあたる。関係が始まるところから大人の世界の悲しみが生まれる。幼年期はいつか必ず焉わる。大人の世界に焉わりということはない。焉わらないからこそ人は冷淡ということを覚える。曲線を描かない関係はない。またその曲線が、死という仮構線に接することもない。

〈幼年期〉と〈大人の世界〉のちょうど架け橋にあたるのが〈恋愛〉だ。〈恋愛〉は幼年期が焉わるようにして焉わる。だが人は焉わる〈幼年期〉を、焉わらせない、という風に駄々をこねることができる。しかし、幼年期は必ず焉わる。ここで人は、もし駄々を本気でこねとおそうと思えば、想像力の世界へ移行するしかない。だが、だれも想像力の世界にいつづけることは出来ない。必ず腹が減る。ここで大人の世界に帰ってくるのだが、満足しない。絶体絶命の果てに「作品」という、夢でありながら、同時に、具象、であるところの、動物たちの決して理解することのない、不思議な存在バーチャ・リアリティを、いつか存在者として感じ始める。

「作品」は、存在であると同時に存在者。この存在者について考えると、必ずその存在を観じ始めることになる。たんに存在はけっして「作品」と呼ばれることはない。ここに奇妙な〈恋愛〉が生じる。だがこの奇妙な〈恋愛〉の体験こそが、〈恋愛〉を後から﹅﹅﹅〈恋愛〉たらしめるさかさまの原体験﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅となる。

 もしある人と人、もしくは人と物、人と世界との関係にわたしたちがなにかしら美しいと感じるところがあれば、その時、そう感じているわたし(たち)は、意識せず、「作品」という概念をどこか噛ませている。「作品」という概念にはそういう力がある。正確には、そうさせる力がわたしたちに「作品」という概念を教えた。「作品」はその関係に、永遠という存在格を与える。存在は崩壊を知らない。

「ぼく、ひのえの作品﹅﹅を壊しちゃったんだ」

 わたしが初めて「作品」ということを意識させられた時の体験を想う。小学校二年生の時、ジェームスという級友がいた。給食準備の時間に、泣き顔のジェームスが来て欲しいという。夏休み前の学期末で、一学期の「図工」のオブジェがそろそろ出来上がっている頃だった。図工準備室に連れられていく。ジェームスはわたしの〈作品﹅﹅〉をその青い両目を赤と黒に燃え上がらせてこちらを見つめながら指さす。つんのめって転んでついた手が、踏み潰してしまったらしい。うすくらがりのその室には「図工」の女の先生もいた、どうしたのか、とそばに来る。〈作品﹅﹅〉は修復できないほど、いや、笑えるほどに崩壊していた。

「あらま」と先生はいう。「ひのえ」「べつにいいよ!」

 ジェームスは泣くというより怒っていた。

「ほんとにごめん」両手を顎の下であわせたその顔はそれでも愛らしい。

「いいよ」「ほんとにごめん」「ドンマイドンマイ」

「よかったじゃん」わたしたちはジェームスの肩を叩き、背中をさする。

「ほんとにごめん」

 ジェームスは止まらない。「それでぼく」(……?)

 四歩ほど歩いてかがみ、鉄ラックの下から二段目から、じぶんの〈作品﹅﹅〉をとりあげる。

「これでゆるして」

 さて、そのボール紙でできたお城はひょろっこい巨人にめっためったにぶっ潰されたのだが、一瞬先生は「なにしてるの!」と怒鳴る。「ぼくはひのえの作品﹅﹅を壊しちったんだ」。そして地団駄を踏むジェームスの背中のうしろで、わたしと先生は目を合わせる。

 その時のわたしたちの交わしたなんとも言えない微笑みをわたしはジェームスの思い出とともに生涯忘れることができない。わたしたち二人の作品﹅﹅はたしかに壊れた。だが、ジェームス痩せ巨人の破壊行為は、けっきょくのとこ、なにも壊すことができなかったといっていい。ただそれはわたしにジェームスの性格と同時に、罪という、個の中だけにある物を教えた。

 ある時、いつものようにアメリカのお菓子みたいな匂いのするジェームスの大きな家で遊んでいて、わたしは「ハム太郎」の歌をうたう。すると突然ジェームスは泣き、自分の寝室に隠れてしまう。やがてジェームスのお母さんがやって来て「今日はもうダメみたい。ごめんね。飼ってたハムスターが死んでしまって、ハムスターに関することを耳にすると、いやでもこうなってしまうの」。

 その時も、ジェームスの母とわたしが交わしたのは、あのなんともいえない微笑みだった。その人のその人らしい、どうしようもなさ、これを物といい、「作品」もまたこの物なのだ。それは踏みつけようと、けっして壊すことができない。

 このエピソードで言いたいのは、むろんわたしが友達思いのお人好しだったということでない。わたしが即座にジェームスの失敗を許したのは、「ひのえの作品﹅﹅を壊しちゃった」とはじめに言われた瞬間の、え、おれ作品つくってたんか、そうか、あれ作品だったんだ、という奇妙なうれしさがそうさせたのだとおもう。

 そしてジェームスの発想によれば、作品、ということが大事なので、どこも良し悪しでなく、わたしの作品を壊したことのけじめ﹅﹅﹅は、じぶんの作品を壊すという行為によってなされる。ここでジェームスの罪を疼かさせたのは、わたしとわたしの作品とのあいだの関係を、自分のせいで犯してしまった、と思ったからでないか。そしてその関係の重さは、ジェームスの自身の作品との関係の重さにより慮られる。ここに、価値、という概念など侵入していないことは大きく注目にあたいする。

 ゴッホの絵には価値があるとされている。時価といおうか、じっさいに価格がつけられ売買もされる。だが、だれもゴッホの絵の価値を、その値段によって見はしない。ここで人がいう「価値」とは、その絵のかけがえのなさのことだろう。そのゴッホの絵はこの世に一枚しかないし、これから描かれることはなく、またゴッホという個性は二度と人類に出現することがない? ゴッホの絵は、人がそう思う「価値」があるから「作品」と言えるのか? 三文画家やアパートの隣室の美大生のさして面白くもない絵は、「価値」がないから「作品」でないのだろうか? 「価値」の有無が「作品」を「作品」たらしめるのか?

 わたしはそうは思わない。

 一旦手描きの絵を例にとるが、どんな手描きの絵も、複製は作れたとしても原物はこの世に一枚しかない。これは「作品」の条件には入らない。

 またわたしの好いと思う「作品」もあれば、好いと思わない「作品」もある。世間のある一定数の人が好いと思う「作品」もあれば、わたし一人が、時にはだれにも見向きもされない「作品」もある。良し悪しはだから「作品」が「作品」である理由に関係ない。

 わたしが、これは「作品」だ、と思う自分や他人の製作物があったとする。だが他の人には、それはただのガラクタにしか見えないということがある。これは「作品」だと思うのは、とうぜん、わたしや他人の勝手だ。そして一人でも、たといそれが製作者自身であったとしても、それが「作品」だと思えば、その物は「作品」と言ってよさそうだ。一人が思うということは、この世、もしくは宇宙に於いて思われたと同義だ。だからだれひとり、製作者自身も含めてそれが「作品」だと思われていない物はまだけっして「作品」でない。

 そろそろ、なにをもってそれを作品というか、という問いの答えに迫ってきている。

 製作者自身が、それを「作品」と自認していなくても、先のジェームスの思い出のように、他人がそれを「作品」として扱った瞬間、それは「作品」として存在し始めてしまう。

 わたしは「作品」をあやまって壊されたのであって、わたし自身に被害を受けたのでない。ジェームスは自分のことが許せなかった。この世に「作品」としてすでに存在している物を壊してしまったことを、友達としてでなく、その「作品」の「作者」としてのわたしに謝って来た。だがすでにその瞬間「作者」として生まれたわたしは、同時にその「作品」との関係を焉えている。どこにもジェームスを責めるべき理由が見当たらなかった。物はいつか必ず壊れる。壊れるべき物がただ壊れただけだ。そしてその「作品」の記憶だけは、けっしてわたしやジェームスや先生から去ろうとしない。その「作品」は存在することをやめることができない。

 さきにけじめ﹅﹅﹅といった。これがずいぶんと大事なことなのらしい。

「作品」は「作者」のけじめ﹅﹅﹅がついた瞬間に、たといそれが時系列としては後であろうと、「作品」として存在し始める。けじめ﹅﹅﹅はついた後に、つけなおす﹅﹅﹅﹅﹅ことができる。ジェームスは自身の作品に、いや作品との関係に、製作過程とは関係ない不慮の事故からだが、けじめ﹅﹅﹅をつけた。わたしはすでに「作品を壊しちゃった」と告白された瞬間、あれは作品だった、つまり製作過程は終わっていたんだ、とけじめ﹅﹅﹅がついた。ついた後につけた﹅﹅﹅。後からでもいいのだ。

 わたしは自らの製作物が「作品」となることを意志した。なにかを意志するということは、その焉わりも、いつか来るその焉わりを引き受けるということ、これだけが、人間のある行為を現実にあった事とする。「作品」ということに限らない。「作品」もまた、人間の行為の結果として、生まれた事物だ。意志なきところに行動はあっても行為はない。「作品」を「作品」あらしめる行為のけじめ﹅﹅﹅は、「作品」から、わたしを分け隔てることだ。

 繰り返すが、わたしがその製作物をそう思っていなくても、ほかのだれかがそれを「作品」と思った瞬間、もうわたしはそれが「作品」でないということは、駄々っ子の領域でしか言い張ることができない。ただ、まだ完成していない、ということはできる。完成は条件でない。いつか「作者」と「作品」の関係は焉わらなければならない。それが不慮の事故だとしても。

 それでも「作品」はそこをもて完成するとはかぎらない。完成は、「鑑賞者」と「作品」の関係において完成する。が、またしても繰り返すが、「鑑賞者」と「作品」の関係には焉わりということがない。わたしたちはだれも、完成に立ち会うことができない。そのことは、完成、という概念が存在しないことは意味しない。完成は存在においてなされる。わたしたちは、存在における完成ということを、ただ想ってみることだけはできる。

 結びにこの稿をかきながら、あらためて響いてきた、三つの文章を引用し、この稿との関係を焉える。そして、またこの三つの文章との関係を深めていく毎日につくこととする。

 

わたしたちが美しいものを美しいとみとめるのは、美しいものからわたしたちを引き離すという行為によってのみである。シモーヌ・ヴェイユ「美と善」(今村純子訳)

神が、「光あれよ」と言われると、光が出来た。神は光を見てよしとされた。創世記(関根正雄訳)

永久の未完成これ完成である。宮沢賢治「農民芸術概論綱要」

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