その1「碁の交わり」
「坂巻さん、知っとるか。碁は二人で打つものなんじゃよ。」──桑原本因坊
『ヒカルの碁』第七十局より
一、
去る十一月、働いている学校の姉妹校が複数集う、若手の研修合宿があった。そこで碁を一局打つ機会があったのだが、その対局を通じて、相手と親しくなった。ほとんど会話もなしに、人と打ち解けたというのが不思議な体験で、ひょっとすると高校生活以来はじめてかもしれない。この交流は、一体何によってもたらされたものだろうか。研修から帰ってきてからも、その確かな感触は記憶にはっきりと残っていた。
研修は主に若手中心だったのだが、そこでたまたま同い年のKと出逢った。彼は広島の人で、同じく国語を担当している上に、囲碁部の顧問で、自らも碁を打つということだった。研修中、教育にまつわる講演を聞いた後、振り返りの時間が与えられたのだが、その際、Kと僕は、席が前後ろ同士となった。部活の話をするうちに話題が碁に移る。気づけば、Kはアイパッドを取り出し、囲碁対局アプリがあらわれる。それでは一局ということになる。はじめたら最後、講演の振り返りもすっぽかし、懇親会もそっちのけで対局に熱中してしまい、他の人々から遮断された異空間に、ずっと二人でいるのだった。
何が不思議か。三十路も間近になり、友達をつくることが難しくなった。ましてや所詮企業研修、数日の研修を終えたら、もう二度と会わぬかもしれぬ。もとから、期待などしていなかったけれど、碁を通じて、人と、不思議な友情を持つに至った。彼自身が寡黙な人というのもあったが、Kがどんな人なのかも知らず、会話も初対面のあれこれの域をでていない。一番の共通点たる、国文学や教育や授業といった話題については、何一つ話し合っていない。それなのに、碁を打ったあと、ぼくは、久しぶりに出逢った小学校の同級生と話しているような、そんな感覚を覚えていた。
碁、学生の頃には競技であり、勝負事であった。教室にも部活にも、友達というものは自然といるものだったから、碁が人と人とを繋ぐものだとは考えたこともなかった。働きはじめて、社会的な束縛のなかで人と関わるようになった日常にあって、碁を向き合って打つことは、久しぶりに、子供のようにして人と触れ合う感覚を与えてくれたのかもしれない。
十数年にわたり、囲碁界を牽引してきた棋士、井山裕太王座が語っていたことを思い出す。囲碁を打つということは、勿論勝負をすることである。しかし、ただ、それだけではない、最高峰の舞台で、最高峰の相手と打つということは、作品としての一局を、二人で創り上げるということであり、その棋譜を後世に残すということでもある。囲碁は勝負事であると同時に芸事でもある、そんな風に考えている、と。また、
依田紀基九段が、大舞台で幾度も闘ってきた
趙治勲二十五世本因坊を「対局相手として最も信頼しているからこそ、この手を選んだ」といっているのを聞いたことがある。闘いながらも、同時に、二人で一局を創っている。真剣に闘うことの出来る相手は、この世で、最も信頼できる相手である。信頼できる相手と必死に向き合うなかでこそ、壊すことのできる自分の壁があり、紡ぐことができる至高の一手がある。そんな道を歩めるのは、生きる上で、なんと贅沢な事なのだろう。二人で行うスポーツや武道、音楽のような芸道だって、これに似た体験はあるのかもしれない。では、囲碁を打つ、この空間に秘められた架け橋とは何であろうか。
たしかに、囲碁盤は小さい。まさに、対で向き合う空間である。それに、一局打とうとすれば、優に一時間はかかる。その時間をずっと二人で向き合い続ける。棋力が互角の相手だったりすると、もっと面白くなってくる。それは、勝負において生きる死ぬの闘いをして、しのぎを削った相手なのだが、思いもしなかった一手を、自分から引き出してくれる相手でもある。気づけば、緊張感のある、充実した一局を共に創っている。佳き一手を引き出してくれたことへの感謝も生まれる。碁を打っていて垣間見えるのは、その人の思考とその訓練、技術だけではない。その人の我慢強さとか、柔軟な発想力とか、勝負どころを見極める勘とか、冷静さとか、全体を見渡して判断をくだす大局観とか、そうした、その人となりが、囲碁の技術に収斂された一瞬に、立ち会うことが、時としてある。普通に接していれば、長い付き合いを通じても見えて来るかわからないその人の気質が、一局のどこかに、ひょこっと姿を現すことがある。碁の盤面では、常に危機があり、常に決断の岐路にぶつかるからなのかもしれぬ。危機の際や決断の時にしか見られぬ人間の気質が、ちらつくのだ。振り返れば、中高時代の友人に、囲碁を真剣に打たなければ、決してそいつの持っている星に気づくことはできなかった、そう感じる友人が一人いる。囲碁棋士は、「人格などは問題ではない、碁そのものがすべてだ」というだろう。それはその通りなのだが、ぼくは依然として、碁において、人と出逢う一瞬が好きでたまらない。
二、
漫画『ヒカルの碁』に、好きな場面がある。主役の進藤ヒカルが、
伊角慎一郎と碁を打つ場面である。二人にとって、新しい人生への第一歩となる一局だった。その夏、ヒカルはプロ棋士になって一年目だったが、囲碁を打たない日々、手合では不戦敗を繰り返す日々を過ごしていた。小学生だったヒカルの心に幽霊として宿り、彼に囲碁を教え、その道を歩ませた師匠、佐為が見えなくなってしまったのだ。ヒカルは大切な人を失った喪失感とともに、自分が囲碁を打つようになって、佐為に囲碁を打たせなくなったから、佐為が自分の下から離れてしまったのだ、と考えるようになる。囲碁を打ちたい、と思ってしまったら、もう佐為は自分の下に帰ってこない、そう自らに語り掛け、人生のすべてを捧げた囲碁をやめようとしていた。佐為を探しに、佐為に縁がある土地をめぐるも、佐為には逢えないまま、夏が過ぎ去ろうとしていた。一方、伊角は、或る思いを秘めて、ヒカルの家を訪れる。二人はかつて共にプロ棋士の卵である院生のメンバー同士であり、伊角が先輩で年上であるものの、良き仲間関係、ライバル関係を築いていた。一年前の夏のプロ採用試験、伊角はヒカルに対局で負けた。それは、「はがし」の反則による負け、一度石から手を離した後にその石をもう一度動かすといった行為による負けだった。勝勢だった伊角は、不注意から石を置く位置を誤り、気づけば「はがし」をして打ち直していた。二人の間に沈黙が降りる。伊角は自分が反則をしてしまったことをすぐに悟ったが、相手が気づいていないかもしれない、と感じ、魔が差す。反則を、自ら申し出られずにいる。一方敗勢で、試験合格ラインすれすれにいたヒカルは、一勝をもぎとるべく、逡巡の末、相手の反則を指摘しようと決意する。ヒカルが「いま」と言おうとするや否や、伊角は投了、自らの負けを認めた。この「はがし」は技術的な反則という以前に、囲碁を打つ者として最も基本的な礼儀が守れなかったことも意味している。碁打ち失格にちかい負け方なのだ。この反則負けをきっかけに、伊角は精神的に落ち込み、連敗街道をたどって首位から陥落、星一つの差でプロ合格を逃すこととなる。一方のヒカルは伊角にかわって、ギリギリで合格を果たしたのだった。その後、海外で心技体を磨いた伊角は、この夏、もう一度プロ試験を受ける決意を固めていた。「俺のために一局打ってくれ。今日はそのために来たんだ。」伊角は、ヒカルに繰り返し、懇願する。「進藤、覚えているか、去年のプロ試験、俺とお前との一局。俺は、去年のプロ試験、俺がはがしの反則をして負けた一局、投了をためらった長い時間、反則をごまかせないかと考えた自分、苦い記憶だ。進藤、お前とはあの一局が最後になってしまっている。今年のプロ試験が始まる前に、お前ときちんと一局打ち切りたい。進藤、頼む。俺をそこから、スタートさせてくれ。」繰り返し対局を拒もうとするヒカルに対し、伊角は何度も繰り返す。
「進藤、お前の人生なんだから、碁を辞めようがとやかく言う気はないけど、でも、一局だけ俺と打ち切ってくれないか。俺のために。」彼は決意の訪問者だった。「打ちたいなんて思っちゃだめだ」。ヒカルはそう自らに囁きながらも、決意の人に抗うことはできない。見えない佐為にむけて言う。「佐為、伊角さんのためなんだよ、これは。俺が打ちたいわけじゃないから。まっすぐ碁の道を歩こうとしている伊角さんの気持ちは、お前もわかるだろう。佐為、伊角さんのために、仕方なく打つんだからな、俺。この一局だけは、いいだろう、なあ。佐為答えろよ、どこ行ったんだよ、お前。」
蝉の聲が聞こえる夏空の下、二人の勝負は白熱する。急速に力をつけていたヒカルに対し、中国で研鑽を積み、自信をつけた伊角も負けていなかった。対局が佳境を迎えた時、ヒカルは互角の形勢を切り崩す、勝負の一手を放とうとする。その瞬間、時が止まったかのように、ヒカルは固まった。涙がこぼれていた。そこに佐為がいた。ヒカルが真剣勝負できる相手に向き合い、碁に熱中して繰り出した一手のなかに、佐為はいた。「この打ち方、あいつが、あいつが打ってたんだ、こんな風に。」「いた、どこを探してもいなかった佐為が、こんなところに、いた。佐為がいた。どこにもいなかった佐為が、俺が向かう盤の上に、俺が打つその碁の中に、こっそり隠れてた。お前に逢う、ただ一つの方法は、打つこと、だったんだ。」ヒカルはずっと、佐為と打ち、佐為から碁を学んできた。局面が難しくなると、いつも思うのだった。「佐為だったら、きっと打開してしまうだろう、佐為だったら」そう思っては手をひねり出し、強くなってきたのだった。「佐為、俺、打ってもいいのかな。」「伊角さん、俺、俺、打ってもいいのかもしんない、碁。」
生きている者が、死んだ者に出逢う。たしかな手触りのような感触だけが残響のように残っている。碁という一つの言葉のなかで、死者と触れ合える瞬間がある。罪悪感を持って避けていた、碁を打つという行為、ここにだけ佐為と出逢う通い路があった。そして、それを引き出すのは、もう一人の対局者であり、その実力が伯仲した者だった。その拮抗した対局において、ただ囲碁に取り憑かれて熱中し、最善の一手を求めたときに、佐為と出逢うのだ。また、碁を打つことすら拒絶し続けていたヒカルに碁を打たせたのは、決意の人だった。その決意の後ろには傷つきと激しい後悔がある。しかもその後悔は、碁打ちとして最も恥ずかしい反則と、それをごまかそうとした卑劣さから来ていた。ヒカル一人では、決して佐為とは出逢えなかった。二人の無私が、盤上に死者を浮かび上がらせたのだった。