Do cats eat bats? Do bats eat cats? 
鳳尻紀執筆予告Ⅱ 〜思想せんそう詩想へいわか〜

白石火乃絵

Ⅱと銘うってありますが、独立に一篇として読めるように心がけます。炙り出しにつき少々カオスです。

 本1月号が、「偏向」がはじまってから毎月冊子二二号目であり、他に書き下ろしも含む紙の本が二冊ある。そこらで、わたしもまた色々と書いてきたが、色々な事を書いてきたというより、いつも一つの事の散文による伝達を、あるいは、伝達のかなわぬところは表現へ逸脱しながら書いてきたつもりだ。一つの事とは、いわばわたしの創作原理であり、しいてそれを三位一体だかボルネオの輪だかわからないが三つに分ければ、『DigItalデジタル-AnaLog(ueアナローグ)』『(ANIMAあにま)TIONしおん─』『バーチャルの果て』。それぞれの副題は「言葉にとって美とはなにか」「心的活動論」「共同仮想論」(以降、「D」「あ」「バ」と略記する)。最初の創刊準備6月号から、「偏向」でのわたしのメインとしていってきた。タイトルを含まない原稿でもこれに関わる。

「なぜ書くか?」。この問いがそのつど出発をうながし、また還り着く「何を?」の何かである。予告といい、これから書くことについて﹅﹅﹅﹅書く。Ⅰで意想外にかきたいことが少し書けたので、少し味をしめている。だから今回は失敗するとおもう。それが本篇へ導くと予感している。砂の城の作者(子供)がつくりはじめる前、とりとめもない砂との戯れにわれを忘れてゆくように? 波から完全に安全でもダメだし、すぐに壊されてもいけない、砂の城がたつべき絶妙の波打ち際ポイントは、たぶんしらずしらずのうちに砂におそわるしかない。


 即興だが、ことのハ植物詩想(←「D」)あにマ動物詩想(←「あ」)ばあちゃル無機物詩想(←「バ」)と呼んでみよう。後二つはタイトルからもわかるとおりジャパニーズ漫画・アニメ、ライトノベル・ゲーム・VTuber文化からそれぞれインスピレーションを受けてる。漫画・アニメ、ラノベ・ゲーム作品・VTuberの存在やその表現など、それらに詩や文学、あるいは芸術性を感じることはあっても、それらがそのまま﹅﹅﹅﹅詩や文学、芸術であるとはいうことはできないだろう。詩や文学はこれらサブカルチャーをいかに汲み上げているか? そう問うていきたいが、わたしなどはそれ以前に、むしろ現在、詩や文学作品より、サブカルチャー作品に詩や文学をかんじることが多く、その度合は同時代の〈現代詩〉や〈純文学〉と同等かそれ以上に思う。売れているモノが良いとはけっして思わぬが、わたしの同年代や年下で、〈現代詩〉を読んでいる者は絶無、〈純文学〉は読んではいてもすでに準古典といっていい文豪か、村上龍、村上春樹、いちばんさいきんの人で川上未映子くらいだ。あとは聞いたことがない。いっぽうで、哲学者だが、千葉雅也はよくきく。國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』と合わせて、書店のポップによれば「いま東大で一番読まれている本」というので手に取ることが多いのだろう。『センスの哲学』は東大だけでなく芸術系の大学生からもよく名をきく。「タイパ」という意味で、文学より実学っぽい方がいいということか。だが、哲学もまた、何の役にもたたぬをもって徳としているのはいうまでもない。それにしてもなぜ〈現代詩〉は絶無なのか。たんに詩というなら不易流行と済ませてよいが、現代の詩とうたっているのだから、現代のユースに読まれていないというのは致命的ではないのか。みずから詩を書いており、現代詩にも無知というのでもなく、それなりに注意ははらって来たわたしの近辺でそうなのだ。知己はいないが、恥ずかしながら若い世代との交遊頻度はおそらくけっして少くない。また大学は芸術系の文芸学科に七年いた。教授の影響なしに自発的な〈現代詩〉の読者というのにはほとんどお目にかかったことがない。卒業間際には、詩人・批評家の山下洪文氏が、学内でのフォロワーを集めており、「江古田文学」には最近学生たちの小詩集として、かなりの人数の詩が掲載されるようになった。わたしがいた頃は、小説かラノベが大多数、短歌が一学年いて五人程度、漫画が二人ていど、詩はそれをメインに据えているのは全体でいたとて二人(授業で書かされることはあっても)。わたしは卒業年のまえ二年(ちょうどコロナ禍にあたる)を休学しており、戻ったときにはかつてのわたしの詩の師が担当していた「現代詩研究(座学)」「詩歌論(創作実習)」をさきの山下洪文氏がひきついでおり、師のときは小説書きたちが授業内でのみ詩を書いていたのが、詩を創作のメインに据えているという学生が格段に増えているのにおどろいた。しかし同時にわたしなどはこうおもった。たしかに山下氏は、門戸をひろくひらき、多くの学生を小説から詩にひきこんだ。あの空間の〈現代詩〉の認知度、それがあたりまえにある存在者として話題にあがる日常性の水準は、おそらく令和現在の国内トップにちがいない。また実習やゼミ、さらにコミット度の高い研究室における、山下氏の面倒見のよさははたからみても相当である。「僕(あるいは僕のうち﹅﹅)には父性がまったくない」と氏が語っているのをきいたことがある。言葉どおり、氏の周辺はマザー牧場といったふうで(大きめの書店で「江古田文学」をみるか、氏主催の「実存文学研究会」のホームページを除けば、その雰囲気をだれでも垣間見ることができよう)。たぶん熱烈な吉本隆明フォロワーの氏も好きなはずの太宰治は、「男性に必要なのはね、きみ、マザア・シップさ。無精髭を剃って来なさい」(学生時代の吉本隆明が太宰治原作の劇を上演する許可をとりに太宰宅に訪れたときにいわれた台詞という─引用はきおくによった、本原稿は原則的にこの方針をとる)といったというが、たしかに「転移」により超自我の対外化としてあらわれる〈父〉からオブセッションを受け取り、自己抑圧で身動きがとれなくなることは気をつけた方がよいとおもうが(わたしはかつての詩の師とこの関係に陥っていたとおもう)、〈母〉とどちらが危険か、わからない。「転移」はおきないし、〈父〉との抑圧関係にくらべ、居心地こそ良いかもしれないが、それだけに眉唾だ。アジア産の世界思想の仏教ではこれを「煩悩」とよび、する方もされる方も共に身を滅ぼすとされている。ようするにおせっかいということだ。世界思想といって、なに「可愛い子には旅をさせよ」というただの世間知である。それくらい母制の名残をのこすアジア圏における子離れ親離れはむつかしいということか。ご両親が精神科医なこともあるのかかヨーロッパの精神医学に通暁している山下氏でさえ、自らの内なる母性のコントロールは難しいのだというのを、わたしははたからみて学んだ。山下氏がもしわたしの目線からご自身を省りみられたら、非常に卓抜な心理解剖をなさるにちがいない。皮肉ではない、明日は我が身といいきかせているだけだ。山下氏の下では詩(ソクラテス─プラトン風にいえば、「詩は教え(られ)うるや否や?」)や文芸批評や実存哲学だけでなく、精神医学も学べるとこととおもうが、その学生たちならその武器をもっていつかはあのマザー牧場をOK牧場するにちがいない。わたしはかつての詩の師の下で、〈父〉の下で、けっきょく詩を三篇(「六月の歌」「うみのうた」「ある晴れた朝に」──『崖のある街』所収)しか書けず、しまい全くに書けなくなり、やがては自己判決の崖ギワまで追いやられたとき、運よく目が醒めた。ホラ、いわんこっちゃない」上等!レッツ・ゴー・クレイシー!

 そしてわたしはかつての詩の師から、自己を奪還するついでに、随分お宝を盗んで来た。

 わたしのかつての詩の師とは、吉本隆明単独編集時代の「試行」寄稿者、その後継詩誌「あぽりあ」編集同人(詩人山本陽子が同人参加)、八〇年代前半期に舞踏家土方巽と密接な交遊をもち、舞踏批評書『舞踏の水際』(思潮社)もある詩人中村文昭で、九〇年代より母校の日本大学藝術学部文芸学科(師はもと映画学科出身)で教授として詩の授業とゼミをもってきた。舞踏家大野一雄を招いてのワークショップをひらいたり、「江古田文学」においては、教え子で女性詩人研究者のクリハラ冉とともに長沢延子・山本陽子・左川ちか(令和にはいって岩波文庫に入り、関連本の出版などもつづいた)・金子みすゞ・林芙美子など、稀代の女性詩人らをフューチャーしたりした。わたしは氏の退官前最後のゼミ生であり、毎週水曜日、午后最初の授業「詩歌論」(人気を博しており五十人以上いた)のあと、ゼミはほとんどマンツーマンで(幽霊ゼミ員にラブリーサマーちゃんさん、三回に一回は来た和製ソウルバンドArTwinsボーカル本間昌平、最後の半年ほどは歌人の絹川柊佳さんがいた)わたしの詩作の添削、そこから日没まで映画学科の屋上喫煙所で話し込み、終電ちかくまで江古田の居酒屋「乃がた」で夢語りを。わたしには六〇年代の前衛文学青年になったような青春の日々であった。二年間の真ん中の秋から夏までの一年が懇意な期間で、はじめの半年は相手にされず、さいごの半年も半ば見限られていた。さいごには実質的な破門をくらったとおもう。だが、わたし自身がそれを望んでもいた。死の淵まで追いやられた。氏はわたしに半信半疑だったとおもう。だが、人生の秘事もふくめ、あたうる限り全身でもって惑い多き当時のわたしに接してくれたとおもう。ゴッホの表現をかりれば、わたしの肉体をカンバスに、かかれえぬ詩をかこうとしてくれた。だが、その筆をわたしはひったくり、自己にとり返した。また、わたしは氏にけっして父の背中はみなかったとおもう。いまとなれば、もっといい友人になれたかもしれないと思う。比喩でなく、氏は二五歳にしかみえなかった。わたしの二個上くらい。退官前さいごの授業とゼミ、ご遺族から譲り受けたという土方巽の死装束を着てあらわれた姿がいまも胸に灼きつき消えない。わたしは氏の声音や仕草をとおして、生前の吉本隆明、土方巽の生身に触れた。生まれてこのかた「失われたうん十年」と上世代からいわれつづけた祭の後を過ごしてきたわたしが、それを欲した。そしてこの氏もまた、自らそれを望んだ。あっ、たぶんいまのつぶやきは、若き日のセンセイが佃の運河沿いを一日二人で周遊したときの吉本さん、いまはいったな。このへんな肩揉みをしてくるのは土方さん、おばんです。こんなことがさはんじであった。氏は吉本隆明や土方巽をけっして懐しんだことはなかった。自分が自分であるのと矛盾しないような不思議なやり方で、三人で?生きていた。これはわたしのかんがえ?だが、人はどちらかの死をもってその関係が終わりを迎えるのではない。むしろ片方の死をもって、そこからやっとはじまる。〈対幻想〉といい、はじめて、男女の二人の関係にあるアトモスフィア、それを基盤とする家族の言語以前の性的雰囲気が、一個の独立した〈思想〉たりうることを、世界ではじめて自己資質から実存的に提唱し、その直接性を生きてみせたのが吉本隆明その人とおもうが(たとえばフロイトは家族をエディプス・コンプレックスやリビード概念により分析したが、理論家であっても、思想家ではなかったろう。ギリシヤの異端哲学者エピクロスはいう〝智慧ある者はけっして自ら命を断つことはない〟、教え子に犬以下といわれたポリス崩壊期のこのあたらくしあの追求者によれば、いかなるダイモン的な理屈に基こうが、自ら毒杯を呷るソクラテスは哲学者であっても思想家ではない、と暗にいっているようにわたしにはきこえる)、吉本がその最期まで大切にしていた同時代の二人の文学者島尾敏雄と埴谷雄高のうち、前者の島尾にたいし後者の埴谷については、共感ではなく吉本自身の思想の余白としてみていたとわたしはおもう。埴谷は全生涯を『死霊』という思想小説をとおし表現しようとした〈虚体〉という、自らの未知の夢に全賭けした。あえて吉本の思想にひきよせれば、〈虚体〉とは、もうひとつの究極の〈対幻想〉とわたしは受け取っている。この〈対幻想〉は、単独者の〈自己幻想〉バーチャルの果てにあぶりだされる未知の存在者で、これが文学者(詩人)の仕事により発現したとき(それが唯物論的には紙上のインクの染みにすぎないとしても)、すべての〈共同幻想〉(あらゆる地上的な宗教、法、国家、企業を成り立たせている共同の心性、またはその産物としての幻想そのもの)、すなわち、わたしたちのニンゲンの感性や思考の限界が、まったく別物に革命される──これが埴谷雄高のみた〈文学〉という夢であった。たしかにこの発想元には、レーニンの「国家死滅」という、ソ連崩壊とともに死んだとされる理念があったろうが、この非詩的な理念は、そのままでは非詩であっても、大陸から日本海という大きな川をわたりひとりの獄中の文学青年の詩情に触れたとき、はからずもかくいう〈詩想〉と化した。わたしにはこれが、ふしぎにも──たったいま書きながら初めて想ったが──プラトンが『国家』においてソクラテスに、その理想国家の夢から詩人を追放したことの──そのままでは嫌いな言葉だが──「伏線回収」であったのではないかと想える。わたしは哲学者としては、圧倒的に(これもプラトン自身が描いた像からしか想像しえないが)ソクラテスをもってよしとし、プラトンはむしろ悪いとおもってきた。というより、実像がまるでつかめない、不可解な幽霊みたくおもってきた。その師ソクラテスは理屈屋さんのくせに、その肉体がありありと見えるのにだ。しかしソクラテスを肉体として描いたのはこの幽霊なのである。それがずっと謎で、プラトンが詩人を追放したようには、わたしの身土からプラトンを追い立てることに踏み切れなかった。いまやっとわかった。プラトンは、自らの理想国家から詩人を追放することにより、未来に余白を描いたのだ、と。この謎の人は、すでに有名な『パイドン』あたりから、ソクラテスが話しもしなかったであろう物語みゅーとすによって魂の不死をかたることで、哲学者(これはあきらかに現在でもソクラテスという生そのものだろう)を逸脱しており、すでに詩人というほかない書き手﹅﹅﹅であった(第七書簡により、書き言葉の有効性を自ら否定していようとも──いまとなってはこれさえも余白つくりにおもえる)。そして自らの理想国家、夢、すなわち自己自身から詩人(創作者ぽいえーてーす)を疎外するのをもって、かれは思想家へ転身し、また思想家に自らを幽閉した。幽閉するのをもって、  ダ  ザルの詩人をその余白としてのこした。プラトンの時代には、たとえばランボォの夢見た「見者ゔぉわいやん」や、ヘルダーリンの夢みた「この地上に詩人として住まうにんげん﹅﹅﹅﹅」や、ドストエフスキイの待ち望んだ「新しい人」などの、未知の〈詩人〉のヴィジョンはまだありえなかったろう。ソクラテスの死にもっとも傷ついたのはプラトンにまちがいない──『パイドン』にある一文、「(ソクラテスの毒杯を呷る瞬間において)プラトンは病気だったろうと思います」の文体がわたしにそれを証明する──ソクラテスは初めて「理性」という、新しい魔神ダイモーンを身をもって証した。だから理性がプラトンにおいてすでに、できたてほやほやの神の玩具であったことはありえない。ソクラテスの刑死をまのあたりにした若きプラトンの絶望は、第一次世界大戦により神に代る近代の「理性」信仰の崩壊をあじわったヨーロッパの知性の絶望でなかったか。そしてその絶望が生んだ理想国家の思想は、ナチズムという亜流を生み出す。『国家』がナチ党にイデオロギー利用されたのはもはや白日の事実とされている──あるいはマルクス主義の独裁もまた『国家』の亜流といえる。プラトンは自身の理想国家を実現しようなどいうことは、夢にもおもってなかったにちがいない。夢は拒絶することにより美(イデア)となると、たれより知っていた。しかし現実とならない夢など夢といえようか? フロイトによれば、抑圧された夢は必ず回帰する。不気味なモノとして。おもうに、思想家とは、最悪と最善をあわせもつ、いや抱え込まざるをえない存在者ではなかろうか──さすがにこれは観念的すぎる、あえて見せ消ちするが、書き直せば、未だかつて有史上にあらわれたいかなる思想(家)も、地上に災禍をまねきよせなかったことはなかった。イエスはこれを自覚していた数少ない実存であった。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではない、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ伝10 : 34)。宗教(家)といわず思想(家)というのは、そうすればマルクスもプラトンもここに含めることができるからだ。プラトンもニーチェもナチズムの虐殺を呼んだし(本人たちの思想がそのままナチズムでないとしても)、マルクスはスターリンの虐殺を、旧約の預言者たちもイエスもムハンマドも歴史上の数々の宗教戦争、殖民虐殺、今日のガザ地区の市民殺戮までを呼んでいるし、宣長のりなが篤胤あつたね思想も(かれらに文学の良心はあったとはいえ)万世一系軍神天皇ファシズムによって殖民虐殺を呼んだし、高原地域で無害な修行を積んでいただけのチベット密教もオウム真理教による都市テロルを呼んだ。彼らはたしかに平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしはおもうに彼らは皆文字とともにやって来たのではないか、彼ら自身は筆を執らなかったこともあるとはいえ。そして今日、世界から文字を消すことはおよそ考えにくい。いまさら文字なき世界を称揚しても遅いのだ。ここに唯一文字を使用していながら、それを打ち消すような血清めいた力をもつ文学がある。断言するが、文学は剣をもたらしたことはないとおもう。たしかに、ジョン・レノンを銃殺したマーク・チャップマンは犯行の前に『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいたらしいが、思想がイデオロギイに利用されたようには、『ライ麦』はかれに何も与えなかったとおもう。イデオロギイが思想をバックにつけなくては剣を振れなかったようには、チャップマンは『ライ麦』を必要としたようにはおもえない。ホールデンの口の剣はいつも自分自身に向けられていた。かれは妹フィービーが回転木馬から落ちそうになるのを止めずに、至福とともに眺めていただけだ。かれは剣ある世界を否認はしてない。作者サリンジャーはノルマンディー上陸作戦で傷ついて祖国に還って来、その戦勝ムードの戦後社会にさらに傷を負った。、そしていうのだ、エミリー・ディキンソンこそアメリカ随一の戦争詩人だと(『武器よさらば』のヘミングウェイではさらさらなく)。帰還兵たちにサリンジャーの文学が、声なき支持を受け続けていたという噂をわたしは事実だと思う。文学は戦争反対などしない。ただ人が人としてこの地上に生きる限り受ける傷に、己の傷をひらいてみせるだけだ。ドストエフスキイの『地下室の手記』の主人公はいう、「ぼくがのむ一杯の紅茶のためなら、世界は破滅してかまわない」。思想はいつも一杯の紅茶よりも、世界の救済を説く。その救済にはどんな香りも味もしない。「成功をもっとも心地よく思うのは/成功することのけっしてない人たち。/甘露の味を知るには/激しい渇きがなければならぬ。//今日敵の旗を奪った/くれないに映える軍勢の誰ひとりとして/勝利とはいかなるものか/はっきりと定義することがはできぬ//戦いに敗れた兵士─死に瀕し─/聞こえなくなっていくその耳に/遠くの勝ち誇った歌声が/はっきりと苦悶にみちてどよめく兵士ほどには!(エミリー・ディキンソン、亀井俊介訳)。だがわたしは思想(家)を否定しているわけでもない。かれらはすべからく失敗つづきなだけなのだ。そしてその失敗こそ(それがとり返しのつかないような大失敗であればあるほど)、そこが文学の生まれ出づるとこだとわたしはおもう。かれらもまた「成功することのけっしてない人たち」にはかわりないのだ。文学者は、「──死に瀕し──/聞こえなくなっていくその耳に/遠くの勝ち誇った歌声が/はっきりと苦悶にみちてどよめく」のをきく耳をもつ者だ。そこにけっしてきくことができない〈詩想〉が響く。わたしのかつての詩の師は、若き日に吉本隆明から巣立ちするとき、吉本の〈思想〉より〈詩想〉に賭けたのだと想う。そこには埴谷雄高がおり、また宮沢賢治がいた。土方巽と一緒のときも、文学を手放したことはなかった、思想家詩人森崎和江とおなじに、踊りに〈詩想〉を見ずにはおかれない。文学は踊りに永遠に片想いする。言葉なき世界。だが、土方巽がわたしの詩の師とただならぬ関係にあったのも、舞踏家もまた、己のうちに巣食う他人としての言葉のために苦しまずにおかれなかったからだろう。言葉という毒の血清はやはり言葉のほかなく、思想家も文学者も哲学者も藝術家も、夢見るものはたれも、これをもとめずにはおかれないのだ。
思想家とはたれか──詩想コトバ思想ことばにより追放することで、夢想を外在化する大家(革命家)。
哲学者とはたれか──思想ことばを解体しつづけることで、夢想をうちに秘めながら刑死する者。
詩想者とはたれか──夢想を懐胎し、詩想コトバを生み、万物を詩想コトバと化し、永遠を余白する者。

(この「生み」は製作・演技・行為Let's go Crazy!な、をさす。文学者・藝術家・宗教者)
詩人とはなにか──詩想者によってそのつどあぶりだされる万物とコトバともにこの地上に住まうにんげんの原像。銀河祭の笑いびと。〽夢かもしれない かもしれない かもしれない かもしれない…夢じゃないかもしれない…(忌野清志郎「イマジン」 原曲:John Lenon)

目次へ